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【満ち欠け戦隊 オツキヤン】


「はい、毎度ありがとうございます。満ち欠け戦隊オフィスの西田でございます」
 新大阪駅から東海道本線に乗って数駅の町の昼は忙しい。黄ばんでくたびれたデスクカバーの上をめんどくさそうに指が揺れる。
「はい?明後日?風神吉田でっか?すんません風神吉田は明後日は非番ですわ。ええ、はい、ええ、すんません。ええ、分かりますよ。でもそうおしゃられても」
 電話口から漏れる音が大きくなる。隣の席のお抹茶チャチャチャという名の陽気な初老の男がその様子を楽しそうに見ていた。
「ええ。ええ。その日はわたしモンパルナス西田と西野カモの2名でオペレーションですわ。ええ。え?西野が?ええ。ええ。そんなん言われましても。ええ。そうでっか。ええ。でも合う合わないは仕方ないことでしょう。こっちとしましては居てる人間で対応させてもらうしかないんでね。はい。はい。だから休日での指名は無理ですって。人数限られてますから。ええ」
 お抹茶がケラケラ笑いながら電話を切るジェスチャーをしきりに送ってくる。西田は左手でそれを振り払うようにしながら汗ばみ始めた右手からオフィスの電話の受話器を左手に持ち替えた。
「ええ、分かりますよ。吉田はキャリアありますから確実です。でもですね、2時間あれば西野であっても十分だと思いますけど。まあどうしても吉田ですね、風神吉田が良いとおっしゃるのであればその次の日であれば今のところ吉田も空いてます。この日はおそらく予約パツンパツンになりますから早めに連絡ください。時間の都合はこちらで調整しますんで。はい。ええ。それも調整しますんで。ええ」

 十分ほど話し込んだからか大きな腹が膨らんでは軽くしぼみを繰り返している。
「なんや。また駅前のスーパーかいな?あそこは吉田さん気に入っとるからなぁ。で、西野は嫌やって?あのな」
 お抹茶チャチャチャが前のめりになって話を続けた。
「あっこの生鮮の主任のハッキリした人おるやろ。あの人と西野が同じ高校でな、実は昔付き合うてたとかなんとかで気まずいらしくてな。そんであそこは西野お断りらしいねん。西野くるとあの主任がごっつう機嫌悪なるらしくてチーフがそないな電話かけてくるんや。で、なんの話やったん?」
「ええ、なんでも今日からスーパーでイベントやるらしいんですわ。ほら、この季節のいつもの北海道のフェアですわ。でね、また来るんちゃうかって。あの例のあいつですわ。」
「はあ。コスメティック村井やったっけ?」
「ちゃいます。ロワイヤル村井ですわ」
「そやった。そのロワイヤル村井が来るんちゃうかって話やな」
「ええ、まあこの辺りで来るんちゃうかってことですわ」


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「ああ、この満月の日やったらわしもおるわ。岩清水君もいてるしまあ大丈夫やろ」
「ええ、でもですね、今日やってかまわへんのです。もうすぐ吉田さん帰ってくるし。でもですよ。明日やったらどうしますか?自分ワンオペですもん。ひとりじゃなんともできへんかもしれん」
「あれや。あの人。なんやったっけ、去年の年末にヘルプで来てくれた人や。なんかの博士みたいな名前の」
「ウィルキンソンさんでっか?あの蟹味噌ウィルキンソンさん?ああ、あの人は無理ですわ。今年いっぱい予約パンパンやって言うてました。催事場からお祭りまで全部声かかっててしばらく無理ですって春ごろに向こうからわざわざ電話かかってきまして。あれ、あの時だいぶ酒入ってたんちゃうかな。わざわざかけんでもいい電話してきて変やと思ったんです。酒で気大きなったんかおっきな声で喋ってましたわ」
「そうかぁ。そやそや、これ見てみい。こないだスマホ新調したんやけどなんかちょっと重くてな。ワシも歳やし重みで手首捻って痛めるのもアレやなって話しとったんやわ。したらたまたま遊びにきてた孫が爺ちゃんそれ軽くしたんでって言いよんねん」
「へえ。それでお孫さん、俊平君でしたっけ?俊平君に任せたんですか?」
「そやねん。小一時間ほどで戻ってきてたしかに軽なったんよ。手首楽なった。でね、この話はオチがあんねん。裏みてびっくり。これみてみて」
「うわ、なんですのんそれ。穴だらけですやん。え、えーっ、そんなん使えますのん?」
「それが雨に濡らさなければええからって話やわ。ようわからんけどミニ四駆とかいう車の模型みたいのんもこうやって必要ない部分くり抜いて重さを調整するらしいわ。都合16g軽なったって言いよるもんやからたかが16gでこんな欧米の漫画のチーズみたいな姿にされてどないしてくれんねんって言うたらな、爺ちゃん16gを軽くみたらあかんで言いよるんやわ。小さめのスズメ一羽分の重さやって。一羽のスズメにも命の重さがあるやろ、決して軽くはないやろって。なんかようわからんけどまあそんなもんかなとは思ったわ」
「そんなもんですかねえ」
「話が逸れました。そや、増田んとこのオカン。必要やったらいつでも声かけてって言ってたんとちゃうの?」
「あかんあかん。晶子さんでしょ?あの人最近ホット・ヨガとかいうの始めて今月は今シフト出てる日以外出られへんって。なんでもえらいはまってて近所の仲ええ人とかにあのマットみたいなやつ配り歩いてるらしいですわ。何でマット配らなあかんのかようわからんのですけど、増田ももうすぐ挫いた足ようなるやろし代打でよう頑張ってくれたからもう十分かなって。あ、すんまへん、噂してたらスーパーから電話かかってきました」

 忙しなく相打ちを打ちながら西田の指が仕事机を細かく打つ。スーパーから再度今週の勤務状況の確認がありそれに応対し終わったところで風神吉田が事務所に戻ってきた。
「おっつぁれさんです。あっこの角っこの家の鳩がおらんようなったって急遽連絡入りましてちょっと遅なりました。鳩は賢いからそのうち戻ってくるでしょって話したんですけどね、奥さん動揺してもて今すぐ連れ戻せってキーーッなってたからしゃあない変身してちょっと見つけたろかってことになりまして。まあすぐに土手の方で見つかりましたわ。あ、これ皆さんにって。奥さんつっかけ履いて急いで買ってきてくれたんですわ。ほら、もうすぐお月見の夜やからって。皆さん力つけてくださいって。ここのまんじゅう最近めっきり評判ようなっててどんなもんかな思ってたんでいいタイミングでしたわ。早速開けましょか」
「あ、すんません吉田さん。先に手洗ってきてください。最近厳しくてですね。うちらも外出てなんぼの商売ですからできる限りは対応をせんとですね」
「そやった。でも変身した後やから平気やとは思うけどそこら辺はこちらとしても最善を尽くしてますって姿勢なんかも問われるとこやからな。しゃあないしゃあないシャシャシャっと」
 お抹茶チャチャチャが席をたち少し離れた窓から外を眺めながら腕のストレッチを始めた。
「変身したからって油断せんとお願いしますね。今月人員キリキリですから。あ、そうや、例の駅前のスーパーからまた風神吉田にお願いしたいって電話ありましたわ」
「またかいな。もう一年かいな。まあ去年の大捕物は派手でスペクタクルっちゅうのん?戦隊全部一丸となって現場を整えたからな。あ、そうそう。駅前の小料理屋の女将さんが満月無事に乗り越えたらまた遊びにきてくださいって言うてたわ」
「小料理屋って駅近くの【摂津マングローブ】でっか?」
「そや。西田くん最近来てないからだいぶ根つめとるんちゃうかって心配してたわ」
「そういえばしばらくご無沙汰してますわ。なんだかんだで。あそこはこの騒動なった時スパッとスナックやめて小料理屋始めて、今考えたらすごい経営判断や思いますわ。また顔出します」
「話戻るけど西田くん、今回のチラシってあるのん?」
「手元にはないですけどホームページから閲覧できます。ほい。これです。北海道の催事やからイクラやらカニやら盛りだくさんですわ」
「今日から4日間か。今日は夕方からお菓子系を開けて、明日が本番開始、と。こんなん見ると年末商戦はもう始まっとるんやなって思うなぁ。カニ蟹かに、イクラにホタテにカズノコと。北海道のハマチハウマッチ。物見なわからんけどこれっていつもうまそうに写真撮ったるよな。店きてもらってそこで印象付けて年末までうまく繋いでバーンと大晦日に正月や。え、なんや。明日のこの上海蟹と藻屑蟹食べ比べって」
「ああ、吉田さん。それね、今年は上海蟹も藻屑蟹も味がいいんですって。この秋の間が食べごろでしょう?たまには変わったカニもええんちゃうかってことで今年は一日限定でやるらしいですわ。数量も限られてるみたいですし。一応最終日もゲリラ的にやる方向で調整してるみたいですけど」
「に、西田!明日誰や?」
「明日?どうしたんですか急にあたふたして。明日はわたしのワンオペですわ」
「しもたぁ!」
「吉田さん!?」
「しもたぁ…しもたぁ…なんでや、生鮮にあれだけ催事の際は相談するようにって念を押しといたのになんで先に相談してくれなかったんや…これ、明日大変なことになるかもしれんで!」
 二人のやりとりを遠目で見ていたお抹茶チャチャチャがちょいとまわってきますと声をかけ外出していった。

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「なんだかんで朝から夕方までぎょうさん入っとるわ」
「吉田さんほんま助かりました。臨時で出てもらって。15日は満月の後ですしお抹茶さん一人で大丈夫でしょうからしっかり代休とってください」
「西田くんそんな気使わんでもええのに。まあとにかくなんもなく終わりそうでよかったわ。上海蟹も藻屑蟹も売り切れたし去年の記憶がまだ残っててむこうもやめとこってなったんちゃうかな。もうすぐ催事もおしまいや、また明日気引き締めて頑張りや。あ、あと西田くんな、もっと先輩に頼ったらええ。気使わんと。ほら、わしらみたいなんは口ではいろいろ言いよるけど実際は頼りにされて嫌な気はせんから。まあ、今日は一緒に働けて楽しかった」
「吉田さん。ほんまありがとうございます」
 ガニ股気味にガシガシと歩く風神吉田の後ろ姿を見送りながら西田はもう一度その背中に頭を下げた。催事場からは1日の繁盛を労い合う声が聞こえてきて、艶やかに炊かれた北海炊き込みごはんから昇る湯気とよく煮えたイカ飯の甘辛い香りが漂ってくる。催事場入り口付近で店を出していた蒸かしたての特大じゃがバターも甘い香りを立ててよく売れていて、平和で幸せ溢れるイベントだった。
 せっかくなので夕食を買って帰ろうか、そんな気持ちで催事場を見て回る。プラスチックの蓋が催事場の明かりを反射して海鮮丼やカニとイクラとウニののったちらし寿司が宝石のように輝いている。蒸しウニのホツホツとした食感とご飯の相性を思い浮かべると胃が大きくなりだした。日持ちのする味噌漬けの豚肉も真空パックの中でマリネされたジンギスカンもよく売れているようだ。北海道の食材は多彩でその一つ一つが見事である。

 西田は今日の働きを満足しながらまずはイカ飯を買い求めた。このむっちりとした組み合わせに目がないのだ。茹でて生姜醤油でいただくイカもいい。懐かしいイカ焼きは歳を重ねてもいつまでもうまい。イカのその万能さに思いを巡らせては喉を鳴らす。西田の幼少期、夏といえばあぐらをかいた父が和室で小さなブラウン管に映る野球を観てはブツブツ言いながら瓶入りのビールをガラスのコップに注ぐ姿を思い出す。そのアテによく並んでいたのが茹でたイカで、時折鉄道関係の仕事の取引先からイカ飯をもらってくることもあった。しっかりと甘辛くなるまで煮詰められたタレが木造の家屋の色合いとリンクして記憶にある。そのタレがイカ飯の断面からご飯に深く沁みていく様子は何度見ても見飽きなかった。家での時間が料理に交わっていくような幻想的な様子であった。それを一口もらった時の感動と言ったら今も忘れられないもので、イカの風味をもっちりとしたご飯が受け止めながらともにモチモチと合わさっていき、最後には雪解けのように喉を通りなくなっていくという不思議な感覚であったのを覚えている。
 家の食材の在庫状況を思い出す。ビールは冷蔵庫にまだ残っているはずだ。冷凍庫にはピロシキがあったはずだがそれは今度食べることにする。このピロシキが西田の長年の大好物で、好きが過ぎて今となってはその店名を勝手に借りて自分の名に使わせてもらっているほどだ。よし、と小さく声を出しもう一つか二つ惣菜を買うつもりで物色していたところ売り切れていた上海蟹と藻屑蟹のコーナーで催事を仕切っている岡本という男がこっちを手招きしているのを見つけた。「西田さん!夕食は決まりましたか?」
「おつかれさんです。イカ飯とりあえず確保しましたわ」
 イカめしのパックの入った袋を軽く持ち上げる。
「そこのイカ飯は大正解やわ。他に何か気になってるもんありますん?イカ飯だけじゃ足りまへんやろ、そのお腹」
 長い付き合いである。
「いやあ、今年も大きなりましたわ。自粛自粛で部屋で呑んでもてこれです。なんだかんだで大きなりよりますわ。ねえ岡本さん、あっこの北海道の豚と小芋の煮っころがし、あれ評判どないです?」
「あれな、他の店舗でも後半追い上げタイプですわ。地味やけど食べてみたら止まらん。そんで数日間の催事中にリピーターついて後は通信販売でも新鮮そのままお届けしますよってようできたる。実際おいしいで。あれとな、あっちの隅で売ってる蝦夷のつぶ貝の松前漬け。この2つや、今回のワシのイチオシ。厚手のええ昆布をちょうどええサイズに刻んだんねん。あの松前漬けはちょっとちゃうわ。あれあの会社の最高傑作とちゃうか。でも西田さん相変わらず鼻がききまんな」
「職業柄ですわ。ビールにも合いますやろか?」
「一口やって、こうすぐにまたグビリやわ。それとおすすめは常温かぬる燗。キリッとしまってよう合います。でね、実は取っときました。西田さん、この上海蟹と藻屑蟹の食べ比べセット食べてよ。もうね、うまみが流れ出んように上手に蒸したるから家で割って蟹味噌みっちり入ったるのをね、こちらと一緒に楽しんで!」
「うわ、ちょっとそれ!剣菱の山廃ですやん!」
「そや。今回無理言って急に対応してもろたから。蟹味噌にはこれ。ちょっとね、変わった風味というか、若干紹興酒を思わせるような癖があってうちは蟹味噌にはこれって決めてますわ。今くらいの気温やったらこのままの温度でもいいしぬる燗も味が広がるし。どうぞ楽しんで」
「ええんでっか?ありがとうございます。これは嬉しいサプライズやわ」
「ほな、また明日お願いします。今日はもう閉めますわ。大繁盛大繁盛!」

 岡本が現場に閉店準備を始めるよう伝え始めた。安堵のため息が胃の方から塊となって弾かれるように出た。明日からもしんどい日々が続くだろう。それでもなんとかやり切れるはずだ。気を引き締めて西田が売り場を後にしようとしたその時であった。
「お久しぶりですね。西田さん。否、モンパルナス西田さん」
 ハンチング帽を目深に被った紳士が近づいてきた。左手には何か買い物をしたのだろうか、袋をぶら下げている。その歩き方と口調は西田の脳裏を掻き乱した。
「ロワイヤル!ロワイヤル村井!」
「一年振り、ですかな」
「来てたんか!手薄になるのを待ってたんか!卑劣な!」
「まあ、落ち着きたまえ。今現在のわたしはそっち側の人間だ」
「は?」
「わたしはあっちの事情に精通しているからね。よりいい待遇で引き抜かれたというわけだよ、モンパルナス西田さん。安心してくれ、わたしは君の味方だ。今のところは、ね」
「わざわざなにしとるんですか、ここで」
「まあそういきりたつな。実はある情報を掴んでね。こちらの部隊も警戒体制に入っているんだ。それに中長期的な視野でみると君たちのバイオリズムは低迷期だ。正直昨年のような動きはできないと考えてる。そのサポートも兼ねている」
「あ、アホいいなはれ!」
「痛いところを突いてしまったのならすまない。が、事実だ。若手のエースの増田de炭酸はどうした?故障中だろう。常に人員は不足しているしかつては名を馳せたお抹茶チャチャチャはもう引退間近で外回りをしては噂話ばかり追いかけている。そして本業としてオツキヤンに所属する者がいったい何人いる?モンパルナス西田くん、君一人だけだよ」
「でも変身後の熱意はまだまだ冷めてへん!」
「どうかな。主力の風神吉田ですら鳩探し程度の職務に変身せねばならない。そんな状況下なんだろう?これを低迷期と呼ばずして何と呼ぶのかね。全てお見通しだよ」
 くやしさのあまり西田は俯く。言い返す言葉がなく、昨年の大手柄以来気分を高揚させて業務を疎かにし始めた人員をうまくまとめてこれなかった自分を責めた。ここや、今年のこの催事を転機にするんや。拳をギュッと握ったその時、ロワイヤル村井のぶら下げていた買い物袋からなにかの液体が垂れつつあることに気づいた。
「ロワイヤルはん、その袋何入ってまんのんや?なんか汁垂れてまっせ。ほら、フロアがドボドボですやんか」
「な、なんだと!これは、夕方に買い求めた上海蟹と藻屑蟹の食べ比べセットだ!品質的にこの程度の時間でドリップが出るとは考えられない!」
「パンシェ……」
「ん、なんです、パンシェって。ロワイヤルはん」
「違う。その声はわたしではない!は、西田さん!君のその袋も汁が出ているぞ!中身はなんだ!」
「うわっ、ほんまや!ドボドボやっ!あーあ、せっかく貰った上海蟹も藻屑蟹も殻割れて中のうまい汁全部出てもうたるがな!スラックスも汁ついてもうたる!クリーニング出したばっかやのにくっさいくっさいがなこれ!」
「パンシェ……」
「まただ!まさか、やはり来ていたか!西田さん!わたしは周囲を警戒する!君は今すぐその蟹の中の蟹味噌の有無を確認してくれ!はやく!」
「なんでっか、なにが起きとるんや!くさっ、汁出てもうたるがな、あわわ!あらへんっ!蟹味噌あらへんっ!ロワイヤルはん!蟹味噌入ってへん!蟹味噌あらへんっ!」
「くそっ!やはり来ていたか!気をつけろ!奴はすぐそこまで来ているぞ!」
 西田の視界を塞ぐように影がよこから通り過ぎた。そして店内の明かりが消えた。
「はなせっ!」
「パンシェ…」
「ノンッ!」 
 ロワイヤル村井が叫ぶ。
「ノン!ノン!ノン!」
 ロワイヤル村井の声が高い位置へ昇っていくのがわかった。事態は急遽深刻な局面にあることを理解した西田は意を決してベルトのスイッチを押した。両足を踏みしめて、蟹の入った袋を肘にかけてから力を放出するように両の腕を内角から捻るように前に伸ばす。

 催事場を満たしていた美味しい空気が一瞬張り詰めて弾け、西田が叫ぶ!



「変身!満ち欠け戦隊!オツキヤン!!」














 声が真っ暗な催事場フロアに響いただけだった。
「アホな!変身できへん!!」
「パンシェ…パンシェ…」
「西田さん!聞け!」
 ロワイヤル村井の声が天井から降りてきた。窓から見える月は満月に近づいている。
「聞け!こいつは蟹味噌ウィルキンソンだ!蟹味噌ウィルキンソンの変わり果てた姿だ!こいつはあいつらに買収された!わたしが追っていたのはこの男だ!」
「パンシェ…パンシェ…」
「満月の夜、この催事の最終日だ!こいつは必ずまた現れる!頼む!」
「ロワイヤルはん!」
「蟹を!蟹の季節を!君たちの手で!頼むっ!」
「パンシェ…パンシェ…」
「ロワイヤルはんっ!!」


♋︎ ♋︎ ♋︎


 真っ暗な店内に人々の声が響く。意識を失っていたのだろうか、背中から感じるフロアの冷たさが体に入ってくる。天井近くの窓から見えるほぼ丸く形を保った月が滲む。西田は目を数度開け閉めしてはっきりとしてくる意識の中で思った。自分たちは今見えるあの月だ。満たされたようでいて何かがまだ足りていなくて。それは足りていないものなのかそれとも既に過ぎていってしまったものなのか、それすらも進んでみなければわからないのだ。
 膝を立てゆっくりと立ち上がり背中と腰の埃を払う。蟹味噌を抜かれた上海蟹と藻屑蟹の食べ比べセットの入った袋を手に取り、ふらつく足取りで一歩目を踏みしめた。家でピロシキを温めて、食べる。まずはそれからだ。もう一度見上げた月はこれから満たされていくのだ、そんな気がした。








【完】













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