【Posters】
僕の住む場所、それはとても静かな場所で、車で少し走ると小さなダムがある。そのダムは山の中にあって、まあ大抵のダムは山のどこかにあるのだけれど、とにかくそのダムは山の中にある。僕は時々、簡単なお弁当に、水筒に入れたコーヒーなんかを持ってそこに出かける。
近所にあるパン屋のしっかりとした生地のサワー・ドゥを薄く切り、しっかりと両面を焼いて、粗熱をとってから山の向こうの牧場の隣で作って売っているチーズと庭で採れた野菜を挟んで持っていく。もちろん前の晩の食事の残りを詰めて持っていくこともある。
ダムの畔へ行く日はよく晴れた日が多い。この場所に数本ある遅咲きの花桃の木立の影になった場所に腰を下ろして、ダムの湛える水を見ながら持ってきた食事を摂る。水筒の蓋の部分がコップ代わりになって、浅煎りのコーヒーをゆっくりと、温かく飲める分だけいれて飲む。どこかで鳥の音が聞こえる。鳴く声、草木を分けて動く音。耳をすませばその一つ一つを聞き分けることもできる。複雑な音の重なりを山とダムの奏でる音として受け入れることもできる。そうしていると普段とは違う軸を中心に空がまわっていくような感覚にとらわれる。
手頃な入れ物がなかったので、サワー・ドゥのサンドイッチをコピー紙に包んできた。自分で試し読みするためのものだから薄めでちょうどいい厚さだった。
トーストされてザクリと乾燥したサワー・ドゥと、その対局にある瑞々しくハリハリとした葉野菜を、しっとりとしたチーズが繋ぎ合わせていく。南オーストラリアのガリガリとした太陽と潮風で育ったオリーブオイルの容赦ない青臭さが背中の木々の香りと共に鼻腔を通り抜ける。
大小様々なパンくずの残ったその紙を中心で折った。そのまま地面に背をつけるように横になり、葉や枝の間の光の中に腕を伸ばしてもう一度その紙を折った。その紙越しの光は影になって、その先の空を想像した。そこにはどんな空の色があって、どんな形の雲が浮かんでいるんだろう。僕はもう小一時間はこの場所にいるだろう。でも空や雲について何の関心も持たずに過ごしていた。
思い浮かべる。梅雨が明けて間もない空を。水分を空高くまで持ち上げるタフな雲を。1、2、3。僕は折り畳んだコピー紙を視界からずらした。目を閉じる。瞼越しに眩しい。だんだんと瞼の裏が温かくなってくるのを感じた。ゆっくりと目を開けた。花桃の香り。今年も夏が来たのだ。
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バスはもう二十分程走っている。どこかに停車する様子はない。わたしは不安になり窓の外を見るも、そこは何の変哲もない台東区の風景が続いていた。ドライバーさんは相変わらずの様子で、安全に走行してゆっくりとなだらかなブレーキを踏む。
思い出したように耳のそばに揺れては消える町の音。信号に停車すれば近くの工場の音が聞こえたり印刷屋さんからバイクが出ていく音が聞こえる。バスが動いている間は景色と共に音も流れていく。ほとんどの音はその中心を掴めないまま通り過ぎていく。
お昼の前に入った喫茶店のクリームソーダの写真を見返す。そのお店はいろんな年代の人がいて、ブラックのコーヒーを飲む人やサンドイッチやかき氷を食べている人もいた。その様子を見ていると浅草って楽しいなと思う。
想像してみる。そのお店の出しているコーヒーもお料理やお菓子もおそらく何十年とあまり変わらず提供され続けていて、浅草の近くで暮らしてきた人たちにとってはずっと変わらない味としてくつろぐ時間を提供している。
一方で若い世代の人にとってはレトロですごくおいしいものばかりのお店。以前このあたりに住んでいた人がどこかへ引っ越して、何年か何十年かの後に東京へ遊びにくる。そしてこのお店はずっとここにあって、変わらない味もここにある。同じ時間の同じお店の中に行く層もの時間が同時に存在している。
どこを走っているのだろう。バスはいまだに停車する様子がない。それどころか町の景色は台東区とは少し違っているように見えた。最初から予定なんかなかったので、まあいいかという気持ちでバスに揺られる。
遠くにあったスカイツリーが随分と近づいていることに気がついた。ドライバーさんとバックミラー越しに目が合った。なんとなく楽しそうに運転しているような。
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ぽとり、ぽとり。水面にパンくずを落としてみる。鯉とかナマズとかがぬぅっと浮いてきてはぬるっと水の中の深いところへ帰っていく。
稀によくわからないものもパンくずを目当てにやってくる。そのよくわからないものはおそらく図鑑にも学術的な文献の中にもまだ表れていないもので、分布的のはこのダムだけの限定的なものなのだと思う。
もう何年もこのダムに通ってはこうしてパンくずを落としてその様子を眺めているけれど、僕以外の人間がそうしているのを見たことがないし、第一に僕以外の人間が一体どれだけこの場所を訪れるだろう。冬は寒いし夏はもっと見どころのある場所が周りにはある。
ダムの畔、コンクリートの造りの水際をゆっくりと歩くと、そのよくわからないものもゆったりと移動してくる。本当はもっと早く泳ぐことができるのだろうけれど、そのなにかが僕の歩く速度に合わせていることはわかる。
近くの水面にパンくずを落とす。一瞬でそれを捕食した。目が合う。遠くに飛ぶように、とっておいたサワー・ドゥの柔らかめの生地の部分を丸くして投げた。そのよくわからないものは放物線を眺めて軌道を読み、その方向へ向かって移動した。太陽の光を眩しそうにしながら泳ぎ、無事にパンを捕食する。
びゅっと尾を捻り水の中へ消える。その後にその方向から声が聞こえた。
「おーい、そこの方。ちょっとこれを見ていただけませんか」
人だ。作業着を着た男が手招きをしている。おそらくダムの作業員だろう。僕は左手をあげてそれに応えた。とにかくその男はこのダムで出会った最初の人間だ。
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バス停でバスを待っていたら、見慣れない番号のバスが目の前に停車した。私の待っていたバスとは違うバス。前方のドアが開いてドライバーさんと目が合った。「どうぞ」そうドライバーさんが小さく言って、なんとなくわたしはそのバスに乗りこんだ。
やや癖のある髪のドライバーさんは前方を見つめたままハンドルを握っていた。わたしがICカードを取り出すと「今日はカードは結構です。お席にどうぞ」とドライバーさんが言った。
車内には前方に窓を背にしたロングシートがあって、わたしは向かって右手側のシートに腰をかけた。
一分ほど他の乗客を待った後、誰も乗ってこないままバスが発車した。
バスは浅草周辺の見慣れた風景の中を走る。時折前方の窓から景色を見るとバックミラーにドライバーさんの様子が映った。白い運転用の手袋がキリッとしていて、どことなく浅草を舞台にした映画のようでもあった。ただどうにも映画にはならなそうな点といえば、わたしのベージュと青のトートバッグにはついさっき巻いてもらった細巻きのお寿司が何本か入っていること。浅草を舞台にした映画ならきっとおいしい天ぷらののったお蕎麦やレトロなバーなんかが合いそうなもので、お腹が空いてバスの中で巻き寿司を食べるなんてことはないだろうな。そんなことを考えているとますますお腹が鳴り始めた。
そういえば昨日の夜も何も食べていなかった。随分と長くこんな生活が続いている。いろんなことが歯車の速度を上げて回り始めて、いつのまにか一年位が経っただろうか。とにかくわたしは自分のリズムを掴めないまま足の重心の定まらないような生活をしている。踏み込めばその分地面が沈み、自分の力以上の反動でその足が跳ね上がる。無理をすれば体調も崩すし怪我もする。そしてわたしは今、バスの中にいる。
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その男は清野と名乗った。東京でそら豆の栽培をしているとのことだった。なんでもこの辺りに来るのは初めてらしく、しかも変なものを見つけたらしい。ついさっきまですぐそばにいたのに僕が到着する寸前に消えてしまったということだ。
その変なものを実は僕も見たんですと言って、僕の知っているわけのわからないものの容姿を説明すると、清野さんの見た変なものはどうもまた違うものであることがわかった。それは何年もここに通っている僕の見たことのないものであることは確かだった。
それから二人で畔のそばでその変なものを待つ間にそら豆についての話を聞いた。収穫は大体五月から六月にかけて行われること、清野さんの畑は不思議なことに梅雨の明ける頃までたっぷりと収穫できること、収穫するとおいしく食べれる期間が短いので一気に買い取ってもらうことがとても大事なことなど今まで知らなかったそら豆の一面を知ることができた。
清野さんは僕に最近どういったそら豆の料理を食べたか聞いた。しばらく想いを巡らせた後に、そら豆を食べた記憶がほとんどないことを正直に打ち明けた。そうすると清野さんは頷きながら「そうでしょう、そうでしょう」と言った。と言うのも収穫後の鮮度劣化の速さと調理に手間のかかる面が足枷となってそら豆の本当の魅力に気づいてもらえんのですよ、とのことだった。料理屋ぐらいしかなかなか買ってくれないから余ってしまうことも多々あるらしい。それでも清野さんのそら豆を楽しみにしてくれているお店は多いようで、なにかの縁か、清野さんがそら豆の魅力に気づいたのはロンドンのレストランでシェフ修行をしている時であったことを話してくれた。
清野さんはこういった手のかかるおいしい野菜が好きらしく、そら豆の季節が終わるとその他の野菜は従業員に任せて沖縄へ向かって、その土地特有の地野菜を学んでいる。そんな話を楽しそうに目を細めながら。らっきょうや太陽を燦々と浴びて育った葉野菜や瓜科の野菜をある程度食べやすい状態にして店に並べる、その過程が好きなんですと教えてくれた。薄い皮を剥いて、傷まないように丁寧に葉を取り分ける。そういった野菜は強いんですよ。自分で生きるために食べづらいようになっているんです。清野さんはそう言って水面に目をやった。
考えてみる。確かにナッツ類も美味しく食べるには殻を割らなければならないし、豆だってヘタを取ったりさやから外さないといけなかったりで確かに手がかかる。おいしいものを食べるってことは本来は手間も時間もかかるものだと思うとハッとするものがあった。
「来ましたよ、あれです」清野さんがダムの水に向けて指をさした。
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墨田区のあたりを走る。町にはいくつかの川が流れていて、随分と前は江戸の重要な農地として知られていたという。それが関東大震災ののちに住宅地になり、今となっては緑を探すことが難しい町でもある。
遠くにある太陽が灰色に霞む。上野とはまた違った色の空を
檸檬色の太陽が灰色に霞む。浅草とはまた違った空を。
バスはトンネルの中を走っていた。トンネル?バスでトンネルの中を何分も?墨田区で?
フロントガラスからはずっと続くトンネルが見える。バックミラーにはポルッとした目でこっちをチラリとみるドライバーさんが映っていた。
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清野さんが指を刺した方向に何かを見つけることができなかった。それでも清野さんの目には映っているようで、その変なもののいるであろう位置を目で追っていた。清野さんにとっての変なものと僕にとってのよくわからないもの。それらは同じものなのかもしれないし違うものであるかもしれない。僕は試しにまだ紙の中に残っていたパンくずを投げてみた。
清野さんの見ている変なものはそれに反応することはなかった。それどころかパンくずが着水すると同時にどこかへ行ってしまったようだ。畔の木々の下に清野さんが腰をかける。その木には桜のような花が咲いていた。今まで気づかなかったがそれはおそらく花桃で、この地域では桜よりちょっと後に咲くものの、通常は桜より早く咲く花であったと思う。
「ああ、この花はとても綺麗ですね。なんて言うんでしょう。そう、ゴージャス。すごくゴージャスですがその中に繊細さがある。なんだか月並みな表現になってしまいますが」清野さんはにっこりとした笑顔になった。
花桃に気づくと、ささやかな風の中にも甘い香りが含まれているように感じた。ダムを挟んで反対側にある、僕がいつも座っているあたりにも同じように花桃の木が何本かあるのを見つけた。
「ゴージャス。今まで気がつかなかった」僕は小さな声でそう呟いた。
「そう。ゴージャスです」清野さんもそう言って頷いた。
対岸の花桃を眺めながら、僕は水筒のコーヒーを飲んだ。こんな気温の日でも蓄えられていた熱が少しずつ失われている。そんな温度のコーヒーだった。水筒の中の世界、僕のいる世界、ダム、そのすべてはひょっとしたら違うものなのかもしれないな、そんなことを思った。そこでは天気も気温も時間の流れかたも少しずつ違っていて、ダムですら僕の見るものと清野さんの見るものでは異なるのだ。
清野さんは小さめの使い古されたカーキ色のボストンバッグからペットボトルの麦茶を取り出してそれを飲んだ。幾分ぬるくなっであろう麦茶。熱かった僕の水筒の中のコーヒーもいずれその麦茶と同じような温度に落ち着くのだろう。もう一口分を注いで飲む。すると清野さんがボストンバッグからいくつかの桃を取り出した。
「よかったら食べてもらえませんか。おいしい桃です」
バッグから取り出しただけでその芳香があたりに満ちた。
「この桃を僕に?」
「ええ。この桃をあなたに食べて頂きたいんです」
「とてもおいしそうですね。でもなぜこんなに上等な桃を出会ったばかりの僕に?」
「わたしはここであなたを待っていたんですよ。そしてこの桃はあなたに食べてもらいたくて、その一心で育てられた桃だからです」
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「あの。お腹が空いたので車内で食事をしてもいいでしょうか」
相変わらずバスはトンネルの中を走っている。すれ違う車はまばらで、トンネル内の電灯が等間隔で車内を照らす。
「ええ、もちろんです」
ドライバーさんは小さく応えた。わたしはトートバッグから浅草の立ち食いのお寿司屋さんで巻いてもらった干瓢巻きを一切れつまんで口に放り込んだ。砂糖の控えめのシャリに干瓢の甘みが馴染んでなんともおいしい。立て続けにもう一切れを頬張ると、バックミラー越しのドライバーさんの視線に気がついた。
「あの、ドライバーさんも食べますか?干瓢巻きと梅きゅう巻きとかっぱ巻き。あれ、かっぱ巻き買ったっけ。まあいいや、もしお腹が空いていれば」
一瞬トンネルから外の景色が見えた気がした。ズズっと何かがずれるように。
「梅きゅう巻きは持っています。干瓢巻きをもらえますか」
ズズっ。まただ。トンネルとどこかのんびりとした風景が交錯する。わたしはゆっくりと立ち上がり何切れかの細巻きのお寿司を渡した。
「梅きゅう巻きのしょっぱみに干瓢巻きのお醤油と炊いた甘み。こうして交互に食べると元気が出ます。ありがとう」
再び電灯の灯りが同じリズムで車内を照らす。電灯が訪れる度に車内のロングシートに座るわたしが向かいの窓ガラスに映る。まるで水族館の水槽を覗いているようだった。
「ラジオをかけます」ドライバーさんがそういってラジオをつけた。
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「何このラジオ、もうめちゃくちゃじゃない」
「ブルース・スプリングスティーン。僕も好きですよ。良いライブの音源です。優れた演奏は心のどこかに残り続けて、人生のどこかでまた鳴り始める。これはそんな音楽です」
バスがトンネルを抜けた。
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「この桃は僕のために?よくわからない」
「あなたのためというよりも、あなたの分け与えたもの。その上に実った桃です」
「甘いです。よく熟れてる」
「ええ、とても良い桃です。何人もの人がそれぞれの木を大切に育てて、やっと実った桃です」
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「着きましたよ」
ドライバーさんはそういってバス停の前にバスを停めた。どこか新しい町のように見えた。でもそこはこのバスに乗った場所だった。
「ありがとうございました」
わたしはバスを降りて小さく手を振った。ありがとう。ありがとう。きっとあの時のドライバーさん。
バスが遠ざかっていく。浅草の夕方の中に溶けていくように、オレンジ色の光を映しながら。
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予定されていた数量を販売することができた。その上にさらなる付加価値を加えた値段で。これもきっとこのギプスのおかげに違いない。そう思いながら僕はシャワー室の前でやっとギプスを取ることができた。電話の受話器をとる左手の上腕が想像以上に仕上がっている。きっとお客様も喜んでくれるに違いない。
いつもより長めに時間をかけてシャワーを浴び、丁寧に髭を剃り、リビングに戻って熱いコーヒーを淹れた。その後に冷蔵庫の残り物で簡単な夕食を作り、瓶入りのビールを開けてからそれを食べた。ジャガイモを小さく切って茹で、薄く刻んだハムとオリーブオイルで和えたものに、潰したキウリに醤油と胡麻油を馴染ませて白胡麻と刻み海苔を乗せてもの。
それらを平らげた後もまだビールが残っていたので、炒ったピーナッツをつまみにそれを飲み干した。そしてビールを飲み干すと何もやることがなくなった。
しばらくの間僕は空になったビールの瓶を眺めていた。「まったくどうしたっていうのよ」彼女が言った。「かっこう」僕が言った。夕方のことだ。
暗くなった空を照らそうとする街の光。窓を開けると涼しい風が迷い込んできた。その風は音楽を乗せてやってきた。チャック・ベリーの『You never can tell』だ。複数の弦を巧みに弾き、ダック・ウォークと呼ばれる独特のフォームで曲を奏でた。僕はもう一本のビールを開けることにした。
冷蔵庫はよく冷えていて、中に入っているビールの瓶を照らしていた。その中の一本を掴む。冷蔵庫を閉める。僕は真っ暗な闇の中にいた。
窓のある方向を見てもなんの光も見当たらなかった。もちろん部屋の中も。僕はすうっと大きく息を吸い込んでゆっくりと吐いた。やれやれ、あれがまたきたのだ。そして僕はここから自分の力で出なきゃいけない。できる限りエレガントに。
完全な闇だ。それにとても寒かった。日本の七月とは思えない寒さだった。リビングで素足だった僕の足は地面に張り付きそうになりながらも一歩を踏み出した。その先の地面も冷たかった。リビングのフローリングではない、コンクリートやアスファルトのような冷たさ。
「誰か!」
僕は思い切って声を出してみた。でもそれは反響しながら遠くへ流れていった。トンネル的な何かなのだろうか。そうだとしたら今回はかなり時間を必要とするかもしれない。
次の一歩を踏み出した。完全の闇の中で僕の体はバランスを失い、凍えた脚が縺れながら冷たい地面に倒れ込んだ。涙が出た。いつもそうだ。どれだけ普通の暮らしをしていても、僕は突然シャッターを閉じたような世界に迷い込む。そして体を冷やし、感覚を失いながら生きることになるのだ。僕は人生の何分の一かをそうしながら生きることになるのだ。
僕はいつのまにか声を出して泣いていた。でもそれはトンネルのような空間に反響せず、ただどこかへ消えてしまう。僕は完全な闇の中で肉体的にも精神的にも一人だった。
寒さで気を失っていたのか、僕は地面の上でうずくまりながら目を覚ました。相変わらず何も見ることができない。何も聞こえない。ただチャック・ベリーの『You never can tell』を除いては。チャック・ベリー?僕は目を凝らした。遠くからいくつかのライトがこっちへ向かって近づいてきている。それに合わせて音楽も大きくなりながら。バスだ。
バスは僕のそばでなだらかに停車し、扉がゆっくりと開いた。
「乗りますか」
ドライバーの男がそう尋ねる。僕は急いでバスに乗り込み、入り口ドアの先のロングシートに座り込んだ。座席が暖かい。バスが動き出すとトンネルの中の電灯が灯った。
運転手の方を見る。自分で思っていた以上に寒さで体力を失っていたのか、視界が霞んだ。バックミラー越しに運転手の男と目が合った。僕が小さく手をあげると運転手の男も小さく手をあげた。
c'est la vie!c'est la vie!バスの中に繰り返される歌。僕はアマンダさんに会いたくなった。
c'est la vie!c'est la vie!こんなものさ。十分じゃないか。
c'est la vie!c'est la vie!僕の人生、これ以外なんてない、僕の人生!
【完】
本日も【スナック・クリオネ】にお越しいただいき、ありがとうございます。 席料、乾き物、氷、水道水、全て有料でございます(うふふッ) またのご来店、お待ちしております。