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【逆さカレーの1週間】 フィクション #また乾杯しよう








巡り合えたら何かがはじまる










プロローグ


早朝、ガラスの音に目を覚ます。部屋にはいくつものガラスがあって、視線を動かせばその透明な先の世界が朧げに現実よりも大きくスライドする。

陽、テラスの窓の向こうの鳥たちの輪。それぞれの羽の反射する光の輪、ポツポツと地面に降りてきてわたしを見つめる目が愛くるしい。

なんの日だったかな、今日は何かのための1日であったはずで大きめの夏用のブランケットのクリームの色がまだひんやりとした木目のフローリングに落ちた。そうだ、カレーを作る日だ。籠からポテトやキャロットに玉ねぎを手に取る。お肉は買いに行かなきゃ。寝ぼけてた!そうそう、夫が久しぶりに帰ってくる!


天井が壊れた日のカレー


天井がコツコツと音を立てていた。そして突然穴があいた。

ザバァァァァァ

「えええっ、ど、どなた様でしょうか……ひいぃ」

キッチンで夕飯の支度を終えたばかりのころ、天井から落ちてきた男が転がっていた。

「はて、はて、ここは?ここはどこですかな?」

シルクハットを被り、タキシードを着込んだその男は上体を起こし口髭をさすりながらそう語りかけてきた。

「ご、ご、ご………52Aです。」

「は、左様。紹介遅れました、62Aの佐々木幸男、と申します。どうぞお見知りおきを…」

「は、はあ…」

右手を差し出す佐々木を横目に、天井にポッカリと空いた穴が気になる。

「覗き見…ですな。」

佐々木は右手を引っ込め、そう呟いた。

「はい?覗き?」

「左様、奥様は今、62Aの幸男の部屋を天井の穴越しに覗いてらっしゃる。立派な覗きでございますぞ。」

「そんな、勝手に穴から落ちてきて、何をいうんですか!早く出ていってください!警察呼びますよ!」

「おやおや、警察だなんて物騒な…ん、あれは。あれはカレーですな。ははぁ、カレーをもって夕食とするわけですな…なるほどなるほど。」

佐々木は右の人差し指をピンと立て、鍋の中にたっぷりと作られたカレーをひとすくいした。

ちゅこっ

佐々木は愛おしそうにカレーを舐め、その指を台所にかかったタオルで拭いた。そして台所に置いてあったカレーのルウの箱を手に取った。

「良いカレーのルウをお買い求めだ。新商品でしたな。肉は、牛肉、ですな。うん、スネ肉とスジ、良い組み合わせです。味や食べ応えの面で実に理にかなっている。」

「何してるんですか!すいません、帰っていただけませんか!」

「奥様、もし私が今部屋に帰ったとする。マンションの階段をのぼり、部屋についた私を想像してみてください。その束の間に私はこのカレーの美味を思い出して今天井に見えている穴の存在を忘れるかもしれない。するとどうなりますか?わたしはもう一度この部屋に落ちてくることになります。ここまではいいですか?」

「はぁ……」

「なのであの天井の穴が塞がるまで私はここにいた方がいい。そう考えることはできませんか?」

「それは…違うと思います。すぐに管理会社に頼んでなんとかしてもらうべきです。」

「よろしい。では一度ここは奥様の仰るとおりに行動してみましょう。一度私は部屋へ戻ります。」

そう言い残し佐々木は部屋から出て行った。少し経った後、天井の穴から生活音(それはゆっくりと穏やかなものであった)が聴こえてきた。最初は気になったものの特に穴から覗かれている様子もないので次第に気にならなくなってきた頃に夫から連絡があり、今日は遅くなるとのことだった。せっかく美味しくできたのに。

煮込まれた牛スネ肉の繊維のニチニチとほぐれる感じにスジのムチッとした旨味がいい。そういえばあの上の階の人もいい組み合わせだって言ってたな。なんて名前だっけ、そんなことを思ったその時、

「佐々木と申します。佐々木、幸男です」

そんな声が聞こえた気がしたので穴の方を見るもあの男の気配はない。そういえば部屋から物音が聞こえなくなっている。もしや、部屋を見渡したが再びあの佐々木と名乗る男が落ちてきた形跡はない。気を取り戻しつつカレーを食べ進める。にんじんの香りを楽しむために厚めに切ったのは正解だった。

「いよっ!!」

まただ、声が聞こえた。だがどこにも男は見当たらなかった。あまりにも気になったので上の階へあがりインターホンを押してみるもののどうやら留守のようだった。気配がないのだ。

部屋に戻り、再度室内を見わたしてみるも自分以外の誰もいない。気のせいだ。カレーを食べすすめる。彩りに入れたインゲンの緑が鮮やかだ。一緒に煮込まずに最後に加えたのだ。プチュりと弾けると共に青い香りが広がる。

「いきますよぉぉぉ!」

明確に音を捉えた気がする。この声はキッチンから聞こえている。胸がチリチリする。冷蔵庫から冷えたビールを取り出す。ぱしゅっと音がして酸味のある香りが上ったその後に喉の入り口に苦味がしみる。カラッとカレーの箱が地面に落ちて普段は見ないパッケージの裏側に目が釘付けになった。

【付属のスパイスを入れて逆さカレーも楽しめるよ!】

なんだ、逆さカレーって。よく見るとパッケージに書かれた男性のキャラは佐々木さんに似ている気がした。箱の中を見てみると確かに小さな銀の袋があった。つまんで破いて、粉が出てきた。藤色の粉。熱を発しているように生き生きとした粉。怖くなって粉をカレーの満ちた鍋へ放り込んだ。



逆さカレーの1週間



Monday


不思議な休日だった。天井の穴は1週間もあれば直るとのことだった。仕事をしている間に業者さんが埋めていってくれるようだ。安全のためにしばらく上の階の部屋は使わないことになったとのこと。あの佐々木さんはきっとどこかの仮住まいでしばらく暮らすのだろう。

電車は今日もそこそこ混んでいて会社の最寄りの駅までの数駅の間揺られる。変なものをみた。乗客のひとり、背の高い紳士が腕時計のついた何かを舐めている。前足を目を細めて丁寧に舐めるロシアンブルーの猫のように、その腕時計を舐めている。茶色い何か。大福ほどの大きさだろうか。腕時計に固定されたように落下しない茶色い何か。

会社に着きデスクの間の透明な敷居越しに隣の愛菜に話しかける。

「あのさ、今日変なのみたんだ。電車の中で腕時計に茶色い何かがついててね、男の人がそれを舐めてたんだよね。美味しそうにさ。なんだろあれ。」

「あ、それ知ってる!最近出たカレーのルーよ。茶色いんでしょ?なんでも逆さにしても落ちないんですって。逆さカレーみたいな名前で呼ばれてるの。まだみたことないんだけど。それじゃない?」

逆さカレー。こけて打ったみたいに鼻がツンとした。わたしの知ってるカレー。昨日作ったカレー。気になって仕方なく、早退して部屋に戻る。カレーは冷蔵庫の中に小分けにして入れてあるのでチンしてすぐに検証できるはずだ。

天井業者の男性が部屋にいて、驚くことに既に天井は埋められていた。

「すごい。もう塞がってるんですね。」声をかけた。

「ええ、穴を塞ぐのは簡単なんですよ。時間かかるのはこれからね。ちょっとづつ隙間に埋めてかなきゃいけないの。もうしばらくお邪魔することになるけれど。今日はもう終わりだね。また明日だね。」

男は天井を見上げ何度かうなづいた。満足できる仕事をしたのだろう。ひょうっと部屋から出て行った。

カレーを温める。折角なので手鍋でゆっくり加熱してみた。ごく普通のカレーに見えるけれど、きっと今までの概念を変えるカレーなのだろう。ご飯をレンジでチンする。お皿にこんもりと盛り、カレーをかける。ご飯は左側、ルーは右側、いつも通り。いつも通りのカレー。ひと口。おいしい。寝かせた分旨みの層が厚い。最初に牛の脂の甘味とアロマがぼんやりときて、その間を玉ねぎとじゃがいもの優しさが埋めていく。清涼な香りは人参から来るもの。鞣革のようにオイリーでナッティーな牛の筋のコクが舌を包んだころ、スパイスの高揚がやってくる。おいしい。この新しいルーはよくできている。ご飯の粒を丁寧に咀嚼していくとその世界にクリエイティブな甘みが広がり、うっとりとする。でもその時はきた。このカレーののったお皿を逆さにするのだ。そうっと、逆さに。


Tuesday


空は晴れて、小さなテラスに出てほくそ笑んだ。わたしはなにかの特別を手にしていた。

簡単なお化粧をして、お気に入りのワンピースを着て2時間早く会社へ向かう。焼けたアスファルトも気にならないほどに足取りは軽い。今日はお弁当を持っている。中身はもちろん例のアレだ。タイミングの問題、そうだ、会社でどのタイミングでこのカレーを食べるのか。こっそり目立たずわたしだけ知ってる世界。このカレーはこぼれない。その事実がわたしの心に芯のようなものを育んでいた。

愛菜のデスクとの間にある敷居、透明なボードにカップを入れるハンガーを取り付ける。こっそりと、でも彼女には気付いて欲しい。そこにはカップに入った例のカレーが入っていて、しかも一向に下方向へ垂れてくる様子がない。満足。世界はわたしの思うように進んでいるように思えた。その時、カップから一欠片の肉が落ちた。親指と人差し指でつまみあげる。スネ肉だ。親指と中指に器用に持ちかえてみる。

2時間早く出社したので2時間早く退社した。天井の修理はまだ続いていた。長い竿のようなもので天井の一部をゆっくりと触れてまわっていた。

「わたしはね、好きなんですよ。こうやって足りたものと足りていないものを聞くのが好きでずっとこの仕事から離れられんのです。」

男は中路という名前だと知った。まだまだ陽が高い夕暮れ。紅茶をゆっくり煮出してたっぷりの豆乳を注ぎ夕食の代わりとした。Jacob種のラグのしっかりとした肌触りが良い。外のまだ明るく熱された世界は遠くの国のように感じられて、窓を開けて体温を馴染ませた。夫は今日も遅い。


Wednesday


空に大きな高い白い雲が見えて、水分の多い湿度が地面から湧いてくるような朝だった。出社して今日のランチも例のカレーだ。カップに入れて吊るしておいたが今日はスネ肉が落ちてくることはなかった。3日経ってやっと馴染んだということだろうか。牛スネ肉とスジのカレーは今日やっと逆さカレーとなったということなのだろう。吊るされたカップに収まったカレーのルーをパン食い競争のようにそっと舐めてみる。よくこなれてきた全体の統一感。牛の強い主張を感じさせぬほどに調和している。それでいて牛の持つミルキーな脂の甘味も十分に蓄えたそのカップが愛おしい。その様子を見ていた愛菜はペンをくるっと回して目の合ったわたしに微笑んだ。

今日も早く出勤したので早く家に着いた。中路さんは今日は作業をしないようだ。天井の中の水分を落ち着かせるために今日一日触らずにおいてください、と置き手紙があった。いちごのキャンディを重しがわりに。


Thursday


通常の時間に出社した。電車の中には例の腕時計とカレーの男性がいて、今日も森林の泉の鹿のように清らかにそのカレーを舐めていた。

わたしはと言うと今日は実はカレーを持ってきていない。もう全部食べ切ってしまったのもあるし、愛菜と久しぶりに外でランチをする約束をしていた。よく協議を重ねた結果ちょっと上等な焼肉屋さんのランチを食べにいくことにした。

十分に煙を吸う空調なのだろう、オフィス街のお昼時には嬉しい作りのお店で、最初に供されるサラダのハリのある食感が胃袋に心地よいリズムを伝えていく。それにご飯と飲み物とワカメのスープ、肝心のお肉はいくつかある中から好きなものを2つ選ぶシステム。愛菜はタンとハラミ、わたしはシンタマとカルビを頼んだ。肉の吐く蒸気が天井に向かう。

「ねえ、わたしさ、今のままでいいのかなって思うと気持ちが塞がっちゃって最近ちょっと心が整理できないんだ。」

何か話したいことがあるんだとは思っていたが、愛菜の言葉は意外だった。いつも明るい彼女の感情がどこかで詰まってしまっているのだろう。ひとしきり話をして、わたしはそれを聞いて、彼女は心なしかスッキリしたような表情になった。

なりたい姿、それに向かってやってきたことの全てが報われるわけではない。そんなことはわかっているけれど、それでも彼女の話はわたしのどこかに、例えば肋骨の間とかに染み込んでいっていつかわたしの中に消化されてなくなるかもしれない。ひょっとしたらわたしの中にも同じものを見つけるきっかけになるのかもしれない。知ると言うことは時にそういったことなのだろう。

半休をもらって家に着いた。中路さんは例の竿のようなもので天井をゆっくりと突き、感触を確かめていった。

「良い感じで水分が落ち着いてきてますから。いい仕上がり。こうやって、ほら、聞こえるでしょう。乾いてるわけでない、歯切れの良い水滴みたいに響くような音。」

よくわからなかったけれど、その音はなんとなく言われた通りに響いているように聞こえた。

中路さんが帰り、例のカレーをまた作った。牛のスネ肉とスジ。8時ごろに帰ってこれた夫はそれを美味しく食べて、残りの一部を翌日のお弁当用にカップに詰めた。


Friday


金曜日の街はこんなご時世でも少しだけ特別だった。みんな急ぎ足なのは変わらないけど、確実に週末はやってくることはよくわかった。急な雨が強く降ってきて地面が鏡のように濡れてわたしは脚を滑らせて転倒した。強い雨が顔に落ちてきて急ぎ足の中1人だけ別の角度に存在しているわたしは急いで立ち上がった。幸いにもカレーはこぼれなかった。まだカレーに溶け込めないスネ肉が数個バッグの中に転がっていたくらい。

足首を捻ったようなので病院に行く旨を会社に伝えた。今日はこのまま休みをとっていいとのことだったのでそのまま部屋へ戻ることにした。

10時ごろに戻るとちょうど中路さんのバンが到着したところだった。わたしは急いで濡れた衣類を楽なワンピースに着替えて玄関を開けた。冷たい麦茶を注いで、中路さんはそれを美味しそうに飲み干した。ふうっと一息吐いて彼はまた例の竿で天井を触れていく。確実に、必要な場所から必要な音を聞き出していく。

「いい音がするね。明日はまたね、中の水分をたっぷり休ませて、日曜にまた来るよ。」

そう言って帰っていった。

夫は遅くなるようだ。ほとんど休みなしでこの数ヶ月働いている。


Saturday


本社との時差の関係上、4週間に一度交代で土曜日に出勤する日だった。だいぶ人の少ない電車の中で腕時計の男性を見かけた。例の腕時計のカレーをまるで現金一括で手にしたはじめての愛車のように愛おしく舐める姿。そのきらめく時間の隙間からひとつの肉のようなものが転がった。

「あっ」

思わず声に出してしまった。腕時計の男がこっちに気づいた。

「すいません、カレー、落としましたよ。」

肉を拾い上げ、男に差し出す。男は最初なんのことだかわからなそうにしていたが、わたしの親指と人差し指の間にあるものにピントが合った時、すべてを察したようだった。

「あ、ああ、ありがとうございます。すいません、わたしとしたことが、肉を……」

遮るように、自分でも意外だったけれど、肉という言葉を遮るようにわたしは話しかけた。

「カレー、たまに落ちることありますよね。」

わたしはそう言って、微笑んだと思う。よく覚えてない。


Sunday



日曜日も早朝から夫は仕事に出かけていった。そろそろ体調が心配になってくるけれど、言ったところでどうなることでもないこともわかる。

10時ごろに中路さんが最終チェックにやってきて、軽い点検を行った後に上の階へ上がっていった。

天井からコンコンといい音が聞こえてきて、そのリズムが心地よい。そうだ、せっかくだからカレーを食べていってもらおう。そう思いつきご飯を急いで炊いてカレーを鍋ごと温め直した。その間も天井からは音が続いていて、外の眩しすぎるくらいに晴れた日差しがその音に合わせて揺れている。カーテンもエアコンも炊飯器の立てる音も全部そこに乗って部屋を巡っていく。歌詞のないメロディーを口ずさみながら。

いつのまにか天井からは音が聞こえなくなっていた。そして中路さんは部屋に戻ってくることはなく、ただ色んな音の流れる空間が残った。寂しさは不思議となかった。なるべき姿に部屋はなり、彼は仕事を全うして去ったのだと思う。

愛菜に電話した。

「ねえ、どうしたの?いきなり日曜日にかけてくるなんて珍しい。」

「あのさ、こないだの焼肉屋さんで話したことなんだけど。」

「え?ああ、その話。あの時はありがとう。でももう平気だよ。気にしてくれてありがとう。」

「ううん、そんなことじゃないの。ただね、もう大丈夫だと思う。」

「なにそれ、変なの!さっちゃんちょっと変だよ。どうしたのいきなり?あ、ひょっとして昼間から飲んでるな!旦那さん仕事でいないから暇で飲み始めてるんでしょ!」

「まだ飲んでないよ!ねえ、よかったら来週どこかで時間作って仕事の後一杯つきあって。久しぶりにさ!きっと楽しいよ!」

「うん、ありがとう。ライムもミントも氷もぎっしりのモヒート飲みたい!」


夏の暑い季節の出来事。思っていたよりも早く夫が帰ってきて、窓から入る風に乗ったまだ熱と騒々しさの残る音に包まれて、夕陽が明日を告げるために降りていく。来週末は仕事を休めるようだって話を聞いて、たまらなくなって彼の頭をギュッとした。みんなよく耐えたって、そう思って涙が出てきて、きっと大丈夫、そんな言葉をまた声にした。








【おしまい】











本日も【スナック・クリオネ】にお越しいただいき、ありがとうございます。 席料、乾き物、氷、水道水、全て有料でございます(うふふッ) またのご来店、お待ちしております。