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往来オーライ ─2023/03/03


もしかしてダジャレってこと?!?????

森美術館で開催中の「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」を観てきた。16時過ぎに入ったから観覧客はまばらで、ストレスフリーな鑑賞体験ができた。

ぎゅうぎゅう詰めで観るのと周囲の空間に余裕をもって観るのでは、作品への"思考"がまた変わってくるのではないかと思う。
つまり、特にこういった現代芸術によくみられるインスタレーションなどは特にそうなのだけど、その作品の周囲をぐるぐる回って、多面的に鑑賞した上で何かに気づくことが多い。製作者の主義・主張・思惑に寄り添っているかどうかは別だが、前述のように根を張って様々な面から鑑賞することで、その作品に対して自分なりの解釈を下すことも、余裕があればできる。


結果として自分なりの解釈が的外れ、あるいは芯を捉えていないことなんてままある。それはそれで、付属しているキャプションなどから作者の意図を読み取ったうえでもう一度観てみる、ということができるようになるので、あながち無駄な時間だったわけでもない。

まあ、結果として何が分かったとか、そもそも分かったと自分が判断したことそのものが芯を食っているのかイコール「本当に作品を分かっているのか」が分からないので、なんとも言えないのだけれど…。


もはや現代芸術はキャプションを使った理解ありきでの作品ばかりになってきている気がする。「読んで理解を深める」のではなく、「作品を見て、かつキャプションを読んだ上で理解する」というような鑑賞スタイル。
しかしながら、キャプションなんて読まずに作品だけを見てさっさと行ってしまう人たちも少なくないわけで…そういう人らとの折り合いをつけるにはどのようにすべきなのだろうか。最近だとほとんどの芸術は自己表現をしているものだから、工夫をするというのも変な話ではあるが。



友人に会った。約1年ぶり。
1年間といっても特に人生の進展はなかった(少なくとも自分にとってはそうだった)ゆえ、最近のこれが良いとか嫌とか共通の誰かの話とか、そういう話題に終始した。

その友達はバイタリティーに満ち溢れたようなタイプで、これは僕の勝手な推測だけれど「何事もやってみてから考える」ような人だ。「なんか違う」と就活にそこまで熱心に取り組まず、かといって自堕落に過ごしていたわけでもなく色々なことに取り組み、かつ趣味になりそうなことをどんどん試している。

今は派遣社員のようなことをしているらしいが、この春からは大学の恩師から紹介を受けてまったく今とは別の業種(大学時代に専攻していたこと)で正規の職員になるらしい。
大学時代に努力して結局叶わなかった夢らしいんだけど、偶然とは言え手元に転がり込んできたって事はそれだけ実力があるということだろう。本当にすごいし、尊敬している。



他方では、自分の進歩しなさにほとほと嫌気がする。全くもってダメダメだ。みんなを見習って、なんてことができれば今頃こんな状態にはなってないのだけれど、とにかく行動するべきというか、しないとね。頑張ろ。




(終)

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