音楽の贈り物
人から教えてもらった音楽というのは、みずから探して好きになった音楽とは別種の特別感があるように思う。
わたしがこれまでに、人から教えて頂いたアルバムは二つあり、その一つが「アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ」というピアニストが演奏したショパンのマズルカである。
匂いさえ立ち込めていそうな暗闇の、奥の方からリンゴのように赤みがかった音の玉がコロン、と転がりながら、こちらに向かってやってくる。
熟した果物の匂いがする。
舞台には私一人きりだ。
うまく言葉にはできないが、そんな感じの始まり方である。13曲収録されているアルバムを通じて、繰り返される主題があり、その間を縫って、音が燃え上がったり、逆に沈静化したりする。
昨日、夕方にトンカツを揚げながらアルバムを聴いていると、ふと人生のようだな、という感慨に襲われた。こんなふうに始まり、こんなふうに終わりを迎えるのだろう、きっと。
CDをくれた人は、私の母より十ほど歳上だった。実質、親子ほどの歳の差があったわけだが、若者に対して、同じ目線に立ち、平易なことばで対話し、寄り添ってくださっていたように思う。
とはいえ、クレイジーな方だった。
先輩は、いっそ潔いよいと感心さえするほど、他者への迷惑を顧みなかったので、周囲の人々をことごとく激怒させていたのだが、私はそんなところも含めて先輩を慕っていたのだった。
先輩からは音楽だけでなく、言葉の贈り物を頂いたこともある。夜だった。当時わたしは、目の前の道を決めかねていた。進みたい道があるけれど、今の自分にはまだ早いのではないか、未熟なのではないか。そんな考えに囚われていて、そのときたまたま目の前にいた先輩に悩みを打ち明けたのだった。先輩は、すこし黙りこんだあと、おもむろに口を開いてこう言った。
「きみは、五年前の自分をどう思う?」
「子どもだったな、と思います」
「なら、十年後の自分は、今の君をみてどう思うとおもう?」
「未熟だな、と思うとおもいます」
「人間はね、未熟でないときなんてないんだ。だから、やりたい時にやりたい事をやりなさい」
言葉では言い表せないほどに感動した。
ふだん朗らかで、人に迷惑をかけて楽しんでさえいる明るい先輩の、根っこの部分が透けて見えた気がした。
ミケランジェリのショパンを聴きながら、このCDをくれた先輩のことを思い、懐かしくなる。時間が流れ振り返ると、人の温かさ、有り難さに気づく。
CDの一件も、思い返すたびに私の心は温かさで満たされる。
音楽はちまたに溢れている。けれど音楽を聴く人にとっては、その音と共に過ごした歴史がある。その音と共に深めた感情がある。その人の核に近い部分へと寄り添えるものが音楽や文学であり、いわば、みずからの心臓に近いそれを赤の他人に薦めるのは、ある種の親愛の証なのだと、私は勝手に解釈している。
私に与えてくださった温かさが、めぐりめぐって、先輩のもとまで帰っていきますように、願わくば、その道中でたくさんの愛という土産や、優しさを伴って、その人の元へと帰っていきますように。
先輩はいまなお、唯我独尊のご自身の性格を貫かれていることだろう。
いつまでもほがらかで明るく、そして長生きしてくださることを、この田舎の片隅で心から願っている。
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