私を私たらしめるもの
「Mademoiselle O(マドモアゼル・O)」は、ナボコフ自伝の『記憶よ、語れ』や『ナボコフ全短編集』に挿入されている、ノンフィクションの短い読み物です。
自伝の中には様々な家庭教師たちとのエピソードが出てきますが、このマドモアゼルとの思い出は、その他の教師たちよりもたくさんの文字数を割いて懐古されています。(特別な思い入れがあるのでしょうか。)
かつてナボコフ兄弟の家庭教師であったマドモアゼルは、体が大きく、過激で、暗く、傷つきやすい性格の持ち主です。反抗的で、気難しい性格の幼いナボコフにとっては、あまり親しみが持てない類いの人のようでした。
彼女との出会い、別れ、そして、亡命後に果たした再会。死の報せ。ーー彼女にまつわる一連のエピソードを記したあと、ナボコフは過去を反芻しながらこのような独り言を漏らしています。
わたしは、このマドモアゼルの話がとても好きで、『ナボコフ全短編集』を買うやいなや、大津栄一郎さんの翻訳とはちがう諫早勇一さんの「Mademoiselle O」を読みました。
内容は同じですが、文章を読んで受ける印象はずいぶん異なります。わたしは、初めて読んだのが大津さんの訳でよかった、と思いました。諫早さんの訳は頭で理解しやすく、大津さんの訳は心で理解しやすいものでした。
「彼女自身であるなにか」
「その人をその人たらしめているなにか」
仏教では通常、「その人をその人たらしめているなにか」を定義することはありません。
この世の現象はすべて「縁起」によって成り立つ(=「空」)からです。
「空」は、むなしい、という意味ではありません。人間も含めたすべてのものは、縁と因によって成り立っており、それ自体で独立しているものは何ひとつないという考え方を指します。
また「空」は、「無自性」とも言われます。自性がないということです。「自性」とは、本来備えている性質や、本体となるもの。そんなものはありません、と断言するのが「無自性」であり「空」なのです。
ナボコフ風に言い換えれば、
「すべては組み合わせによって成り立つ」
「調和している」
といったところでしょうか。
わたしは仏教を信仰していますから、物を見るときにこの考え方がちらちらと頭の片隅をよぎります。
かつてお釈迦さんは、王子として幸福な暮らしを送る中で、生老病死(四苦)を見出しました。
お釈迦さんだけでなく、誰であったとしても、人はいつか気づくものなのだと思います。
永遠などないということ。
今はいつか終わってしまうのだということ。
隣にいる人はいつか死ぬのだということ。
いずれ自分は用済みになるのだということ。
そして、マドモアゼルの話でいうなら、「その人をその人たらしめるもの」などないのだということ。
そうして理想をすべて失ったときに、人間はその摂理に抗おうとする。愛するものに永遠性を見出そうとする。何か本質があるに違いない、と思いこもうとする。
そんな悪あがきの一つが、「文学」なのかもしれない。または、「芸術」なのかもしれない。もしそうであるならば、人間とはなんと尊い生き物なのだろう。
そんなふうに、思ったのでした。
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