人生に三島由紀夫が現れたとき

わたしの人生に三島由紀夫が現れたのは確か、小学校高学年くらいだったように思う。

当時わたしははやみねかおるさんの『名探偵夢水清志郎シリーズ』と『怪盗クイーンシリーズ』が大好きであった。本を開いて布団にねそべりながら読みふけり、お腹がよじれるほど笑らわせてもらったものだ。だが、既刊本を全て読み終えると他にもう読むものがなくなって手持ち無沙汰になった。

この二つの作品は「青い鳥文庫」という児童向けのレーベルから刊行されていたので、次第にわたしは同じ青い鳥文庫の他作品に手を出すようになった。色々と手を出したがある日たまたま母の目に留まったのが芥川龍之介を読むわたしだった。

たぶん『蜘蛛の糸』とかそのへんだったと記憶しているのだが、母は大層喜んだ。彼女は、芥川龍之介の『地獄変』という短編が好きらしく、わたしに熱く語ってみせた。それと同時に、母の口から出てきた作家の名前が三島由紀夫であった。母は三島由紀夫を愛読していた。

一方で、蛇蝎ごとく毛嫌いしていたのは太宰治である。特に『人間失格』は大嫌いだったみたいで、到底ここには書けないような罵詈雑言を並べ立てていたように思う。母は、いかに三島由紀夫が素晴らしいかということと、いかに太宰治が嫌いであるかということを、長々とわたしに聞かせたものだった。そのせいで、わたしは今も本屋で太宰治の名前を見かけると、あの当時の母の顔を思い出してしまう。

そんなに熱心に読んだわけでもなく、まだ理解力も乏しかった少女時代の読書なので、内容はほとんど覚えていないが、太宰治の短編は面白かった記憶がある。芥川龍之介は、「魔術」が印象的だったのも覚えている。母は『地獄変』の他に『河童』も好きだったようでその感動も熱く語っていた。

さて、母が薦めた作家の中で、わたしがもっとも好きになったのは三島由紀夫であった。好き、というよりかは「読まずにはいられない何か」が三島由紀夫にはあった。それはありきたりな言葉でいえば「共感」になると思う。

初めて三島由紀夫に感動したのは高校の図書館にあった『春の雪』であった。当時は素直に恋愛小説として読んでいたが(今は恋愛小説だとは思わない)、主人公である松枝清顕が物語の途中から一変して輝き始めるのには胸を打つ何かがあった。

最近読んでいる作家にナボコフがいるのだが、この二人はどこかしら似通っている点があるように思う。わたしは三島由紀夫のどこに惹かれていたのかというと、「ここではないどこか」に文学で到達しようとしている心意気を作品に見出すためである。「ここではないどこか」というのは決して現実逃避という意味ではなく、いわば「理想」に近いもの、自分が崇める境地のようなものである。そこに到達する手段として、言葉や文字、文章の限界に挑んでいる、かなり主観的だがそんな雰囲気を、なんとなく両者に感じるのであった。

似ているとは言っても決定的に違うな、と感じるのは、三島由紀夫はその文章の熱さの裏側に「虚しさ」がある。わたしはその「虚しさ」にこれまで癒されてきたわけだが、ナボコフにそれは見当たらない。誰しもが多かれ少なかれ「虚しさ」を抱えて生きているものだと思うが、三島由紀夫はそれが大きすぎる。ナボコフの作品にはそういう致命的な「虚しさ」がない。わたしはそこがナボコフの素敵なところだと思う。

他、両者の類似点として「美に対する憧れ」があるが、これも視覚的な美しさはもちろんのこと、さてどう言ったらいいんだろう、「視覚的な美しさではない美」を「視覚的な美しさ」の中に感じるのである。わたしは自分が持つこの感覚をどう言葉で表現したらいいのか分からないが、文字を追うごとに不思議な心の動きがある。日常生活では使わない心のある一部分、ふだんは埃を被って無きものとして扱われている心の一部分が目を覚ます。それは読書の愉しみでもあるが、とりわけ両者は人の心を動かすことに優れているとわたしは思う。


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