ノートを開いて
音楽を消し、窓をあけて、リビングで一心に作業に集中していると、すべての音が、遥か遠方まで波及していくような気がします。窓の下で作業する人々の音が、町を越えて海の向こうまで届き、町の果てで生まれた音が、わたしの元までやってくるかのような。あたかも地上に溢れる大小すべての音が、ひとつのざわめきのなかに収斂していくかのような。
作業の合間に、以前買った睡蓮のノートを開きました。そこに、断片的な日記や、好きなセリフの一節などを書き記していたのですが(過去形です)、すっかりご無沙汰していて、中身を眺めたのは一年ぶりくらいでした。
これは、「馬医」という韓国ドラマで、主人公であるペク・クァンヒョンが、病人の女性に向かって掛けた言葉です。ドラマを見ていた当時は、まるで、自分のことを言い当てられているようだと思いました。今でも、同じように感じます。わたしは、生きたいと願うことを、恥ずかしいことだと思っているのかもしれません。
ノートの一番はじめのページには、ヘッセの小説『クヌルプ』の最後のシーンを書いています。いつでも読み返せるように。
以前、『青白い炎』で「難解な未完の詩への註釈としての人間の生涯」という一節と、キンボート氏の「人間の生涯は膨大で晦渋な未完の傑作に付された一連の脚註にほかならない」という解釈を読んでひどく感銘を受けました。小説を読んで、こんなに胸を打たれたことがあっただろうか、と。
ノートを読み返して、思いだします。そうだ。わたしは、このクヌルプと神とのやりとりに励まされたのだと。
これまで、学校の内外に関わらず、色んな人と出会いました。それぞれが、それぞれの悲しみのなかを生きているのだと知りました。地獄、という言葉をつかうと陳腐に聞こえるかもしれませんが、地獄の中を生きてきた人もいます。わたしの苦労なんて、微々たるものだけれども、あまりにも人生がつらい。生きて、生きて、生きて、使い古された雑巾のように、擦り切れていく。
『クヌルプ』は、そんな生の延長線で出会った、一冊の本でした。そうか、何もかもがあるべき通りだった。わたしが欲したものは、わたしが得ることのできないものだった、これまでに得たすべての苦しみは、わたしが受けるべき苦しみだった、悲しみだった。たとえ、人からみればありきたりな苦労であったとしても。
ノートには他にも、親しい人がかけてくれた言葉や、他愛ない会話で笑い合ったこと、ネットで頂いたうれしいコメントなども書き留めてあります。
たまに見返すのは、いいものだなあと思いました。そして、やっぱり、こういう習慣は続けていかないとなあ、とも。
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