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ひきこもりの僕は苦悩する、川崎殺傷事件の記事を書くことについて

ひきこもり当事者雑誌「ひきポス」で何人ものひきこもり当事者・経験者が川崎殺傷事件に関する記事を書いている。

自分も書くかと思いきやちょっとしんどい……。まず、仕事のほうを張り切りすぎてダウンしちゃったこと。これで頭があまり回らない。

もう一つは、このようなシリアスでセンシティブなことについて書くのは、僕のスタイルとものすごく相性が悪い。

自分のことならば、好き勝手に書ける。だって僕自身のことだから、どう言おうとどう思おうとどう書こうとだれも文句は言えない。

だけど、川崎の事件に関してはいろんな要素が絡んでいる。一番大きいのは、犠牲者やその遺族の方々がいること。

つぎは、ひきこもりへの偏見について。

8050問題と言われるように高齢ひきこもりが増えて犯罪者予備軍のようにされる向きもあるが、警察庁が発表している犯罪統計によると、殺人や強盗などの重要犯罪はどんどん減少している。

だから、高齢ひきこもりが犯罪者予備軍という推論はこの犯罪統計と反する。だけど、人々はわかりやすい物語を欲してしまう。自分たちとはちがう、異質で、おかしい人間があのような残虐なことを冒したんだと。

もう一つは、このような物語を欲する人の気持ちもわからなくもないということ。

僕には、まだ小学生低学年の姪と甥がいる。彼らの近所のなにをしているのかよくわからない中年男性がいたとして何と言えるだろうか? やはり心配になると思う。

犯罪を犯した人たちの更正は大事だと誰もが思うだろう。しかし、その人たちが隣人であることを好まない人が大半だと思う。自分の幼い子どもたちを、その人たちから離したいというのは善意である。偏見とは必ずしも悪意から生まれているわけではない。

偏見はよくない。でも、我が身にふりかかると別になる。一貫性を保てるほど、人は強くない。だけど、その人たちを差別していると責められるのだろうか。

そして、最後に。僕はひきこもり当事者の立場でいろいろ記事を書かせてもらったり、マスメディアに取り上げてもらうことも多いほうだと思う。でも、それをこころよく思わない人間も多い。

「あんなのはひきこもりじゃない」、「ひきこもりの定義がおかしい」と。

世間からは犯罪者予備軍とされ、真のひきこもりを自認する者からはフェイクだと敵視される。まさに前門の虎に後門の狼だ。得することなんてなにもない。

これが最後の最後になるけれど、今回の事件でひきこもり関係の団体が社会にメッセージを発した。20年前にひきこもりとされていた人が冒した「新潟少女監禁事件」や「西鉄バスジャック事件」とはそこがちがう。非常に大事な声明だった。

僕は、さらに一歩踏み込みたい。ひきこもる人たちから社会に歩み寄る勇気をもつことを。人々にわからなさを持たれることが偏見の温床につながる。だからこそ、そこを打破しよう。それができないからひきこもりだって? それこそ偏見だ。

記事の内容がよかったぜという方だけでなく、喜捨して徳を積みたいという方にも喜んでいただけるシステムになっております。この機会にぜひ(^_^)v