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ポップアートへの考察


はじめに

 2023年1月、アンディ・ウォーホル展に行ってきた時に抱いた、ポップアートに対する理解を自分用にまとめたものを供養するものです。

「花」「牛」

メモ


ポップアート
これまで↔ポップアート
一点物↔複写複製(ファクトリー)
表象↔象徴
宗教↔最新
モデル↔現在のアメリカの象徴・記号(レディメイド・有名人をモチーフにする)
普通の生産普通の消費↔大量生産大量消費

・ブリロの箱は大量に作られたから一つ一つは安いらしい

スープ缶はそれぞれが違う柄
→柄を変えると物自体別のものになる

同じモチーフのバージョン違い
→バージョン違いだとモチーフは同じまま違うものを作れる。

ポップアート総論


 ポップアートは、ある概念(X)の象徴・記号としての存在(Y)を作り、YとXを重ね合わせる。その重ね合わせのギャップはおもしろい。ダダ的にも見える。Xになりうるものは少ないが、Yになりうるものは無数に考えられる。Xが一般的抽象的概念であるのに対して、Yは個別具体的な人、物である。

 上記の通り、YはXの象徴である。ここで、ハトは平和の象徴であるように、Yは常に具体的かつ有名なものである必要がある。ただ、具体的で有名なYを描いているからといって、Yに関心があるのではなく、真に関心があるのはその背後のXである。

 YはXの記号である。宗教画にイエスが2人出てくることはありえない。イエスは1人しかいないからだ。でもポップアートではYは記号にすぎない。(たとえ1枚の絵の中でも)複数のYが出てくることがある。記号はいくらあっても良いし、沢山あるからこそ記号と言える。

 以上から、Yについて話をすることにはあまり意味がないことがわかる。それでは、アンディ・ウォーホルのポップアートにおけるXとは何か。これは「大量生産大量消費」に集約されるだろう。大量生産大量消費の象徴・記号として具体的Yが現前する。

 ここで、「Yの描かれた絵」自体も大量生産して、一般人に大量消費させることが出来れば、作品そのものが、大量生産大量消費を象徴するものとなる。二重の象徴構造があるのではないか。

「最後の晩餐」


ポップアート各論1


 スープ缶はスーパーに並んで消費される存在。有名人は写真、映画、テレビなどで消費される存在。大衆がみんな消費したがる価値ある存在。そんなトマト缶、有名人は現代アメリカの象徴・記号となる。

 スープ缶の絵は、1つのスープ缶を写し出す。その描き方は中立的に見える。 画家の個性すらも失い、スープ缶という内容だけではなく、絵自体が大量に生産されるものの象徴となる。

 同じよう、だけどよく見ると文字だけが異なる大量のスープ缶はコンセプチュアル・アートのようにも見え(時期的にもちょうど重なる)、複数の作品が集合することでその意味合いが変わるように思える。

 「3つのマリリン」には、シルクスクリーンの最新技法が用いられる。ひとつの絵の中に鮮やかにマリリン・モンローが量産される。複製したはずなのにそれぞれに個性の出るマリリン・モンローは、作者を意識させる。今度は、強く記号を意識させつつ、個性を残す。

 毛沢東はアメリカ人ではない。だが、中国の至る所で写真が掲揚されており、中国の象徴・記号である。社会主義の象徴が個性的に描かれているのはアイロニカルでおもしろい。

「3つのマリリン」


ポップアート各論2


 ウォーホルの作品では、死と惨事シリーズに限らず、具体的な死のイメージを象徴・記号として使用・反復することが多くある。死や惨事といった出来事も報道によって大衆に消費されている点で各論1との共通点がある。死や惨事も大衆は好む。

 ツナ缶では、身体に害を及ぼす恐れのあるツナ缶が(キャプションまで付いた)記事の形で、1枚の中に7回反復されている。記事は客観的に死を見つめつつも、死の象徴としてのツナ缶は記号と化す。死の記号は7つあることで、7倍の力で訴えかける。

 死者5人や電気椅子は、死を想像させ、鮮やかに制作される点で共通している。これがもしただの写真ならば、冷静に死のイメージを伝えただけだ。これに特定の色が着くことで、白黒の写真以上に見るものを惹き付けるし、一気に色んなバージョンを生み出せる。

 ジャッキーの場合はケネディ大統領の死が連想される。豊かなアメリカの象徴のなっていた大統領夫妻。大統領の死と未亡人の行く末は報道によって大衆に消費されただろう。ジャッキーは、アメリカの象徴でもあり、死や惨事の象徴でもある。複数制作されたジャッキーの絵は、様々な媒体でジャッキーが取材されていたことを表しているのか。

 80年代に入るとアメリカではエイズやガンが蔓延し、ベトナム戦争も激化する。お金でなんでも買える豊かな社会でも、死が身近になる。最後の晩餐では、バイクは物質的に豊かな現代アメリカの象徴・記号となり、イエスと使徒には値札が貼られる。古くからの救世主イエスはこの世を救う象徴・記号と化す。The Big Cは癌、つまり死を表すと同時に救世主をも表す。

「病院」


その他


 スープ缶やツナ缶など、ポップアートの騎手としてのウォーホル初期の作品では個性を消したように制作されたものがある。これは、世間に物議を醸し、衝撃を与え、有名になるための戦略のためだろう。ビジネスとしてアートをやるための戦略なのだろう。この目的を達するためにデュシャンのダダやレディメイドを参考にしたと思われる。

 大量生産社会における量産(社会的量産)と、ファクトリーにおける美術作品の量産(美術的量産)と、記号としての象徴の反復。これらは似ているが、別次元の活動であって区別されなければならない。区別した上で、社会的量産の象徴として美術的量産・反復がなされているのだとすれば、これまでの⑵や⑶で見た美術的量産・反復は再理解されるかもしれない。

 ブリロの箱は大量に作られたから、一つ一つの箱の価格はウォーホルの作品の中ではかなり安い方らしい。ということは、バージョン違いならそれなりの価格になるということになる。バージョン違いを多く作ったのは、ビジネスとしての観点から考えることができるのかもしれない。

 ウォーホルについて真剣に考えるだけ無駄かもしれない。精神性がダダイスムすぎる。

 有名人や死や惨事は、大衆に消費される。このことをウォーホルは悪だとしていない。むしろ、大衆がこぞって消費したがるものには、ウォーホルもその価値を認めている。ポップアートが大量生産大量消費の社会へのアンチテーゼかというと実はそうでもない。ウォーホルは大衆のうちの1人として喜んで消費に参加するアメリカ人である。

 ポップアートは、記号がテーマのひとつであるので、商品化と相性がすこぶる良い。今日でもフェルメールやミュシャなどの展覧会では、ポストカードを買う人が少しいる程度だが、ウォーホルの場合、スープ缶のお土産を買うことへの抵抗が少ない。記号的な反復を認めたウォーホルの前ではお土産も本物たりえるように思えるからだ。他の一点物系アーティストは作品一つ一つにオリジナルの価値を求められるが、ウォーホルの作品は反復するだけでも価値があるように見える。僕はそんな単純な問題ではないと思う。多分ウォーホルも否定するだろうが、金になるので承知するのかもしれない。


 終わり


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