ガールズバーで働いていたエミさんの話

ガールズバーで働いていたエミさんの話

 エミさんはガールズバーで働いていた。私はそのバーで大学生の時、皿洗いをしていた。夜の時間帯のバイトは時給が高い。親元から離れたあとだった私にはとにかくお金が必要だった。本当は、男性相手の接客のバイトの方が割がいいのはわかっていたのだけれど、自分には、女を売れるだけの容姿が備わっていないことも、同時に認識していた。それで、若さと体力という武器を、長時間働く夜間のバイトに充てることにした。

一浪してやっと入ったのは、親が借金したお金で通う田舎の国立大学。学生の半数は、地元で生まれ育って地元で死ぬ人だった。

 エミさんは中肉中背の女の人で、真顔よりも笑った顔のほうがずっとかわいい人だった。栗色の瞳と、にっこり笑うと八重歯がのぞく大きな口が特徴的で、いつもグロスをキラキラさせた唇で、周りの誰よりもたくさん笑う。

 その当時、ガールズバーに勤めているのは、AKBみたいな黒髪ロングの女の子が圧倒的に多かった。そんななかでエミさんは、今は休刊している『Zipper』という雑誌の表紙のような古着の重ね着をしていた。どう考えても、客受けが悪そうなのに、笑顔がとてつもなくかわいいから、ガールバーにはエミさん目当てに通ってくるおじさんがたくさんいた。

 エミさんは、はじめは私のことは眼中になかったと思う。私がエミさんにとって、顔をよく見る人から、見かけたら話しかける人に昇格したきっかけは他愛もないことだった。

 その日、明け方にバイトを終えて、近くの公園のベンチでぼんやりしていた。夜明けの公園で夜と朝の境目を見るのが好きだった。すると、少し酔っ払ったエミさんが「火、もってない?」と話しかけてきた。慌ててポケットからチャッカマンを渡したら、なぜか大笑いされた。

バーでは、お客さんの誕生日を聞き出して、蝋燭を差したスイーツで祝う。今日は誕生日のお客さんが3人ほどいて、たまたまパンツのポケットに入れっぱなしだった予備のチャッカマンを差し出したのだ。

これで火をつけるのなんてはじめてって言いながら、エミさんは美味しそうにタバコを吸った。私は、お店に来るエミさん目当てのおじさんたちの気持ちが少しわかった。この顔を見たいからおじさんたちはお酒を沢山注文するのだろうな。
 こうして、エミさんはようやく私の存在を認識した。それ以来、私たちは見かけるたびに公園で短く会話を交わすようになった。

 エミさんと何度朝焼けを見たらだろう。その日も、二人で公園のベンチに座っていた。私が天気の話をしようが、バイトの話をしようが、エミさんはニコニコと笑ってくれるのはわかっていたけど、いつもうまく気持ちを言葉にできない。

ベンチに投げ出されたエミさんの左手には、革のバングルが巻かれていた。それを見た私は「そのレザー、素敵ですね」とだけ言った。エミさんは右手に持っていたタバコを消した。そして、右手でバングルをゆっくりと外して「見る?」と差し出した。

ありがとうございますと、今は私の手の中にある、バングルをじっと見つめた。それは、一見なんてことはないものだったけれど、新しい季節が来ると爪の色も髪の毛の色すら変わってしまうエミさんの外見の中で、唯一変わらないパーツだった。レザーは経年変化した檜色で、エミさんの根元だけ黒い髪と同じ色をしていた。バングルを再度ほめると、エミさんは、うつむき「これは自分で作ったんだよね。私の好きなイギリスの、バンドのボーカルがしているのと同じ」それから一呼吸おいて「私はイギリスに行くことなんてないけど」と吐き捨てた。

私がなんだか気まずくなって、「今日は朝から一限に行くんです」と大学の話をして、その場を切り上げようとした。するとエミさんは細く長いため息をつき、「選ばれたんだね」と言った。大学はただ行っているだけで、と言って私が言葉に詰まると、エミさんは頭を斜めにして、「目指せるじゃないか」と言った。「勉強できますって、そこで過ごせるって、もう選ばれているよ、あなたは。」と言って、次のタバコに火をつけた。そしてベンチから立ち上がって行ってしまった。エミさんが全く笑わなかったのは、後にも先にもあの時だけだと思う。

 次の日は給料日だった。だるいバイトもこの日だけは別で、なんとなく気持ちが前向きになる。店長にいつもより少しだけ大きな声で挨拶をする。まだ女の子たちは来ていない。ガールズバーの雇われ店長は、私の通う大学のOBだった。俺もあの大学出ているんだよねー、が口ぐせだった。店長はOASISとThe Beatlesが好きで、店内はいつもその曲が流れていた。店長なりの曲をかける順番があるらしい。店長の趣味でガールズバーはレコードプレーヤーが置かれていた。レコードを取りかえる間、曲と曲の間にしばしの静寂が流れる。店長はその場にいない女の子の話を出す。今日はエミさんのことだった。あの子は飛びぬけて頭がいいんだよね、気がきくし。お客さんがふってくる時事ネタにも強い。そうやって、ひとしきりエミさんを褒めた後に、でも大学は出てないんだよねって必ず店長は最後に言う。そして脈絡なく、うちはキャバクラじゃないから、女の子にお酒を作らせたりはしないからと、誰かに言い聞かせるように呟く。
 
 深夜酒類提供飲食店の届出済って緑色のステッカーがバックヤードの見えないところに貼ってある。キャバクラは「風俗営業の接待飲食等営業」ガールズバーは「深夜酒類提供飲食店」と店長が何度も言っていた。バーでは、女の子たちはカウンター越しでしか、接客をしない。隣に座ることもない。

そんなわけで、このバーは指名制ではない。でも、きっとこのお店で一番売り上げに貢献しているのはエミさんだ。お客さんの飲み物がなくなった瞬間に、ニコニコ笑いながら「次、どうです?」と聞く瞬間の笑顔といったらない。

 エミさんは店長が紙袋に入れた給料を渡す時の目線で自分がどう見られているか、多分気がついていた。でも、私にも誰にも、店長のことを何も言わなかった。お店のスタッフは、みんな20歳そこそこに見えた。エミさんはきっとそれよりは少し上だ。エミさんは、自分のことをよくわかっていた。ガールズバーっていう見えない制限がある場が、自分には妥当だと。

 私は、大学を卒業して、ガールズバーのバイトを辞めた。就職活動はとても厳しかったけど、大学のOBのつてで、東京の企業に私は就職した。
 エミさんからは時折連絡がくる。強盗が出たと嘘をついて、店長が売上を持ち逃げしたあとにガールズバーはなくなったこと。次の働き先がなく、親の介護が必要になったエミさんは、その後、町工場で事務をしていること。そんなことがあっけらかんと書かれていた。でも会いたいとも会おうともお互いに言わない。

あの街から旅立つ時、エミさんは見送りに来てくれた。電車のホームで、エミさんが「これ、あげる」と唐突に私にこぶしをつきだした。茶色の包み紙を開けると、私が褒めた茶色のバングルが入っていた。 
私は、エミさんとバングルをかわるがわる見た。「いつかエミさんとイギリスに行きたい」との私の問いかけに、
「そうだね」とだけエミさんは頷いた。振り向かないで帰っていったエミさんの唇はもう光っていなかった。外は雨が降りだしていて、彼女は傘を持っているのかなと私は心配になったけど、エミさんの姿はあっという間に見えなくなってしまった。

今もそのバングルは私の手元にある。バングルも色は檜色のままだ。変わらないものなんてどこにもない。でもバングルを見つめながら、エミさんの笑顔だけは変わらないでいてほしい、と私は身勝手に思っている。

Fin

この作品、↓のイベントで書き上げた小説を改稿したものです。



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