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SNSでやりがちなセコイ論法~貧乏根性という価値観~

■はじめに
反体制に立つということは、現在権力を牛耳る人たちに反意を示すと言う事。現代で言うなら経営者や政権政党、人気者等が主である。
そして、そこには「セコい攻撃」が多い。「金返せ」や「余計に金よこせ」、或いは「金のあるやつは勝手だ」「世の中がこんな状態なのにこんな事をするか」など。
しかし経営者や政治家の各個人の思想でその状態になっているのだから、その思想をなぜ崩さないのかと、疑問が残る。
それどころか正義の名のもとに、自分らが損失もないのに、損失のように語り、その補填を要求するのだ。
なぜなんだろうか。

1.人がケチくさい発想をし始めた原因
平成26年、第二次安倍内閣が誕生し、アベノミクスという名でデフレ経済対策をした。金融緩和により、経済は成長、物価も上昇し、GDPを押し上げた。

しかし、景気対策としてはあくまで「トリクルダウン」という効果があてであり、具体的な個別世帯の可処分所得を伸ばす政策は打たれなかった。また経済成長を理由に消費税や保健料は軒並み上がり、一方で給料は現状維持になったので、むしろ、世帯ごとの可処分所得は圧迫されていった。
下請け企業にすら大元の企業からあまり落ちて来なかったのも大きい。

つまり「少しばかり貧乏」になったのだ。

その結果、一般の生活者は政府が景気がいいと言う言葉を聞いて、そこに違和感と不信感が生まれ、「大企業だけ優遇されてる」もしくは「大企業が懐を肥やしている」という論評が生まれ、それが「政府は大企業しか見ていない」「仲良しの大企業にだけ利益誘導している」となって行ったのだ。

実際、政権が大企業やお友達に利益誘導しているのではないかと疑われる事案も沢山表に出てきた。
いわゆるモリカケ問題なんていうのは、その真骨頂である。

そして、世論の論評は、「与党がやっていることに信用性がない」と言う事から、「国会でやってることに意味がない」と、政治活動全否定型思考を生み始め、そのうち「議員はこの程度の仕事しかしていない」という論評と「我々の税金で賄う歳費をいくらもらっているか」という論評が合わさってくる。

また一方でそうした「政治や権力者」に怒るのではなく「諦める」人達も増えた。顕著な例が、投票率減少。結果、強い組織票を持つ与党が再当選。
さらにこの論評が広く蔓延していくのであった。

2.賠償請求との違い
憲法には国家賠償と言う項目があり、それは多くの人が国や公務員がバカやれば誰もが請求できると勘違いするが、賠償とは損失の補填であり、その損失とは具体的な実体のあることに限って用いられる。つまり、賠償請求する側は、具体的に損失を証明しなくてはならない。

それは一般でも同様である。

例えば経営者に対して、「これだけ労働契約以上に働いているのに金が貰えなかった」と言うことを、きっちりと記録や証言で証明しなくてはいけないのだ。

「うちは毎日のように残業しているから、あの経営者はブラックで、ブラックを今すぐ是正し、金銭で慰謝料を払え」と言うだけでは、損失が証明されていないので、賠償請求は通じないとなる。

「あの議員が議会を休んでるから給料を返納しろ」というのも同じだ。

議員が休んだ事による具体的な実体化した損失を証明しなくてはならない。例えば採決に必要な人数に達しなかったや、質疑を中断しなくてはならなかった等だ。

しかし、この論法で批判している人の殆どは、その証明ができないし、していない。

稀に市民オンブズマンが、その証明に必死でチャレンジして、懸命に探してようやく一個見つけて請求をするのが関の山で、その証明も多くは裁判で覆される。

3.セコイ論法の生まれる理由
セコイ論法の外見は「正義のため」を装っている。

何故かと言えば、そこに「保身」という心理があり、そのためにいかに他人に足を救われないように物を言うかというテクニックや補強を加えるからだ。

補強をしないと、ここに個人の憤懣だけしかないと、けして他人に共感されないからだ。

一方で「正義のため」という鎧で補強するから、「批判」の域を越えて簡単に「誹謗中傷」もできてしまう。

裁判されたら簡単にその鎧ははがされ負けてしまうのだが。

まあ主たる論拠は「相手は権力を持つのだから、持たない自分が声を上げるのは正義だ」というロジックだ。
無論、ある意味では正しい。

ただし、それは相手の思想や思考を是正しないとならないことと、それにより一般の生活者が具体的な損失を喰らってしまうという事に絞られなくてはならない。

わかりやすく言えば「社長が昨日の夜、某キャバクラに言ってたから、社長の資格はない」と論じてはならないと言う事だ。

この場合論点を絞るべきである。

例えば、会社の経費を不正に流用してキャバクラに使っていたのか。これは明らかに会社と言う組織に対して、その穴埋めを社長や本人以外が誤魔化していることになり、会社の利益を損ねている。帳簿があれば立証でき、社員に対する賠償が成立する。

また、社長個人が以前から社員に「キャバクラ」を否定し、その抑制を強制していたのであれば、自己都合の解釈として権力の濫用が起きており、社員の精神的損害が発生する。録音などあると更に明確になる。

しかし、前出のように正義感表出のようなセコイ論法では、翻すポイントが多い。

例えば会社の就業規則や理事会規則として社長の「キャバクラ通い」は、資格剥奪の要件になっていない場合である。

恐らく発言者はこうした事実背景を手元に持っていないだろうし、証明の苦悩を知らない。

従って現実には対抗できない。
よって、名前も匿名性が高いSNSで発言するのだ。

セコイ論法は簡単に言えば「貧乏根性による妬み」なのだ。

4.批判の必要性とセコイ論法の不必要性
批判は大切である。批判することにより、どこかで誰かが行動に移し、結果として世論を形成し、強権を止める事がある。批判しなければ、近い未来に損失を与えてしまう事もある。

政権の信頼性がないならば、その批判が広がって政権を交代させることもある。

しかし、セコイ論法は、真に社会正義等ではない。

例えば「コロナ禍なのに五輪をやるな」というのは、一見、医療逼迫を理由に、その悲惨さを背景にしているように見えるが、けしてデータ的にも因果関係を証明できない。感染拡大時期と五輪開催が重なっただけである。無論、五輪が感染拡大に影響していないとも言えない

更にこの論法が広がった背景には、「コロナ感染による恐怖」という個人の思想的背景もある。

これを裁判して争えば、感染拡大抑止策を懸命に費用を投じて実施している五輪開催側が勝利してしまうだろう。

本当に五輪をコロナ感染拡大で中止させたいのなら、裁判を起こすまでやって正当性を主張すればいい。
裁判でそこに開催側の齟齬が認められれば、開催側は中止するか、その損失を穴埋めするかしかなくなる。

まあ裁判にしなくても、第三者による強制停止命令ぐらい申し立てて見ればわかる。

つまりセコイ論法は「抗えない事へのイラダチ」を表出した個人的な主観でしか実はない。

つまりこれもまた「満足」という自己利益から発生するのだ。

その大元が、1.で語った「可処分所得の減少」なのである。
簡単に言えば、みんな貧乏になったのだ。

批判するなら、未来に、確実な、物質的或いは精神的な損害が発生するという、自己利益の満足に起因しない批判をすべきである。

5.批判の正しい具体例
わかりやすいのは、今回の交通事故を起こした都議の批判の仕方であろう。
セコイ論法で言えば「事故を起こして非難されている元都ファの都議が、政党は離脱したものの議席を維持しており、しかし都議会も議員活動も休んで雲隠れしているので、都議の給料月132万円を返上すべきだ」となる。

正しい批判は「交通事故を選挙活動中に起こし、投票した有権者に言葉による謝罪をし施頭も離脱したがその後雲隠れし、都議としての活動はおろか都議会も出席しないので、都議という責任感と自覚に欠けると判断できるので、都議を辞任すべきだ」となる。

違いがわかるであろうか?

問題はお金じゃないのだ。都議としての資質と言う事。
問題をお金にして批判する事は、逆に言うとお金を払えば解決してしまう。

しかし、実際には批判者の満足はそれで治まるはずもない。
治まるはずもないが手続き上、批判を修正したので、批判者の利益は満たされたことになり、仕方なく批判者は次の批判対象を探す。

そしてまた誰かをセコイ論法で批判する。

いずれ誰もが気づくであろう。この批判者は、最初は正義で言っていたように思えるが、単なる批判したがりなんだと。

6.謝罪をお金で行おうとする人たち
お金になぜセコくなることを否定するかは、実は、このロジックの蔓延により、なにかけしからん事態を起こした場合に、お金を払う、または収入を閉ざすと言う事で反省をする例が増えた事だ。

直近で言えば、河村たかしの「市長給与3が月返納」やメンタリストくんの「動画収入の全額寄付」、少し前なら吉本の一部芸人による反社パーティー参加に伴う吉本退社や番組出演の停止等である。

正確な「被害当事者」からの賠償請求に基づいたものなら別にいい。

しかし、それが誠意だ或いは社会的制裁だとする事でイメージだけを良くしようと図り、当事者も損失は補填されないし、またけしからん事態を招いた根本の思想や思考にはなんら影響していない。そして、その後、もし戦力として認めてくれるのであるならば、また使ってもらおうという姑息な発想とも言える。

現にそれでその世界に使ってもらえる人もいる。本人がどこまで改めたのかはわからない。再度同じ事をするバカまでいる。

これはセコイ論法の蔓延が生んだ、セコイ謝罪法なのだ。

欧米等でこれを免罪符にしたら、ボコボコに世論やマスコミにやられる。
彼らは思想については、とことん追い詰める。日本との違いだ。

欧米で数多く「失敗をした権力者」が寄付をしているケースを見かけると思うが、日本の例とよく見比べて欲しい。
その後世間に認められる人達は、「当事者の補填」を最優先にし、充分に行った上で、思想レベルできちんと改め、その上で長期的に当事者らの支援団体等に寄付をしている。謝罪としてではなく自己反省と改善の上でやっている。

つまりセコイ論法での批判とそれに対抗する謝罪法は、単に日本を批判大国にしてしまうだけで、全く持って未来への寄与にはならないのだ。

■さいごに
多くの人がセコイ論法に使う最も常套手段は、「生命の危機を懸念」「医療資源の枯渇を心配」「国民を上級と下級にわける」である。

これにより見過ごされる多数の問題がある。例えば生命の危機に抗う為のより積極的な体制や法律もしくは広い支援者関係づくり、医療資源と呼ぶ対象に入っていない人たちの頑張り、高齢や不健康でも自動車を使わざるを得ない現実等である。

セコイ論法の影で消えてしまうこうした事実を着目し、なんとか表面化させ改善させてこそ真の批判である。


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