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<無為フェス#2>絵本の読み聞かせ会

 東京はるかにという団体を主宰しております、植村朔也と申します。普段は批評家として批評を書いている身ですが、今回の無為フェスでは、2022年5月に予定している絵本の読み聞かせ会のための稽古場としてBUoYを利用いたしました。

 上演としての読み聞かせに注目し始めたのは2020年の春のことでした。みんなが家から出られなくなり、劇場に集まることを前提しないさまざまなかたちの演劇が試みられました。多くの「上演」は一般的な上演の消極的な代替物としてあったのが実情でしたが、それでも、上演行為の持つポテンシャルを示してくれる優れた実践は数多く生まれていきました。しかし一方で、私にとって、それはすでに出され続けていた一つの答えに注目するよい機会となったのです。読み聞かせという、いくつもの家庭で自然発生的に命脈を保ち続けてきた上演行為のすばらしさに思いをはせざるを得なかったのです。絵本とは家庭のための最良の舞台であり戯曲でした。

 かつて人は家庭で語り聞かされる口承の物語りに抱きかかえられていたのだと思います。むかし、母方の祖母は遊びに行くとよく「日光遠山のブス」という物語で私を寝かしつけてくれました。検索してもまったくひっかかりません。しかし祖母ひとりの創作ではないことはたしかだと思います。祖母の家は日光にはありません。そういう、どこから来たのかもわからない物語が繰り返し家族の口からやってくる。その時、家庭の時間は文字通り別の時間に移行します。しかし、このような時間性は、いまほとんど失われているのではないでしょうか。知人に話を聞いてみると、こうした物語を親族に聞かされた経験は、出身地を問わず希薄であるようです。ざっくばらんに、そういう時間性を廃絶していくことが近代だったとすれば、絵本はその最後の砦ということになるでしょうか。

 ごく乱暴な話をこのまま続けると、この別の時間性への移行は、当然演劇が本来的に?持つ機能でもあるはずでした。俳優の演技が持つ美学的な強度もそのための要請であるはずでした。それはいわゆる「いま・ここ」を越えていく経験ですが、こうしたロマンティックな二元論は危険でもあります。絵本の読み聞かせ行為が日々の家庭の営みを基礎にして、かつこの営みを一層強固にするのに対し、公共性が期待されるはずの劇場では、いまどのような「いま・ここ」を基礎に、どのような時間性に向けて上演が行われうるのでしょうか。

 そこで、私は試みに劇場で絵本の読み聞かせを行ってみることにしました。もちろん、以上の問題意識を持ったうえで、舞台に家庭ではなく劇場を選ぶ以上、その上演形態は一定の「翻訳」を蒙らざるを得ません。結果的に、上演は通常劇場で行われる上演行為からも、家庭での読み聞かせ行為からも遠く隔たったものになると思われます。

 これ以上私たちの読み聞かせ会について語ることは控えて、今回BUoYをどのように利用したかお話ししたいと思います。今回の無為フェスでは朝10時から夜10時までの長い尺をいただきました。ところで、私はBUoYという空間の一ファンでもありました。なので、この空間のことをもっとよく知りたいという衝動が抑えられませんでした。そこで試みたのが、劇場の照明をすべて落としたかくれんぼでした。照明を落としているので、普通のかくれんぼとはルールが全く変わってきます。空間の全座標が隠れがになるからです。探すには、視界を奪われながら、とにかく歩き、普段とは別の仕方で空間を構造化していくほかありません。ですので、異様に時間もかかります。が、照明をつけた時、BUoYという空間に対する私の解像度は一変していました。空間が持つ見えない質まで見えるようになった気がしたのです。これは、絵本の読み聞かせに直接関係してくるかはわかりません(そもそも劇場はBUoYではないので)し、かくれんぼばかりしていたわけでももちろんないのですが、それでも、成果を急がず空間を利用できる今回の無為フェス故にこそ可能となった実験、というか遊びとして、ここに記しておきます。

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※ BUoYスタッフより※
「無為フェス」詳細については以下の記事をご参照下さい。


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