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<無為フェス#8>駝鳥人と無頭人

記事を担当するのは荒川弘憲です。東京芸術大学の修士に在籍しています。
一人称視点の映像表現などを中心に制作と研究をしています。最近は「ヤギの目」という大学敷地内でヤギを飼育するプロジェクトにも関わっています。自分のやりたいことでなくても、ヤギの鳴き声にこたえるように、ヤギ小屋のなかのイバラを刈りとったり、フンをひろいあつめて掃除するのが、ヤギのためになっているようでうれしくもあり、屈辱的でもあり、それらの感情が交互に押し寄せてくるような、はたまた一緒くたになって感じられるような気持ちにさせられます。     

さて今回の「無為フェス」。     
参加したのは私と、大学の同期で中国からの留学生、弓墨翰です。弓(ゆみ)くんと呼んでいます。お酒が好きで、竹で筆をつくったり、人の顔をトラッキングして、バーチャルな人面を動かしてみたりと、いろいろなことができる人です。     
無為フェスに参加するために、申請した企画タイトルは「駝鳥人と無頭人という二つの人体イメージを軸に、表現の実験をしたい」というものでした。
「駝鳥人」は地面のなかに頭を隠している人体。「無頭人」というのは、頭がない、あるいは頭がみえていない人体。弓は「駝鳥人」を、荒川は「無頭人」を独自の表現におけるモティーフとして扱うことがあります。ここには、どちらも頭がない人体イメージという偶然がありますね。その偶然をふたりでおもしろがったことをきっかけに、今回の「BUoY(ブイ)地下・無為開放プロジェクト」でなにかしてみたいということになりました。   

そして2022年4月8日の当日にやったことはふたつ。   

1.ディスプレイに首を突っ込む     

テレビに穴をあけて、そこに頭をつっこむ。今回は事前にモニターのなかの金属部分をとりのぞいた上で、孔をあける作業をしました。モニターの表面は最初に孔を開けるときは硬かったですが、ひとつ孔があくと、つぎからはさくさくと孔をあけることができました。ものを破壊しているのをみるだけでも面白いですね。弓は破壊するのが素早くて、パワーも感じられて、破壊の様子を見ているだけでも、破壊音やパワーの炸裂のたびに胃がぎゅっと縮むようでした。

 いつかは金属部分もとりはずさず、強力な工具をとっかえひっかえしながら大型のテレビやモニターに孔をあけて、そこに首を突っ込んで終わる1時間程度のパフォーマンスを実演できたらいいなと思っています。ご覧の通りの駝鳥人でもあり無頭人でもあるような人体が表現されています。


2.駝鳥人と無頭人の巨大な絵をかく 

   3mx3.6mの白い布に、墨や黒のスプレーで駝鳥人と無頭人の絵をかきました。

 
 
こんなに大きなサイズで、しかも即興で絵をかくのははじめてのことでしたが、BUoYの地下環境のなかで集中してかくことができました。空間に装飾的な形や色がなかったので、墨の濃淡や、黒いスプレーに含まれている青みの差異が丁寧に鑑賞することができました。また広い空間があり、照明を当てたところが浮かびあがると同時に、照明を落としている周りの空間には深遠な奥行きがうまれるので、たとえば巨大な駝鳥人の絵と無頭人の絵とが厳かに対峙しているような、滑稽なほどに神話的な空間演出も可能になりました。 

最後にもうすこしこの「駝鳥人」、「無頭人」というモティーフの背景を語りながら、わたしの関心に近づいていくと次のようなものになるでしょう。     
駝鳥人は弓と、怖いことがあると地面に頭を埋めようとする習性をもつという一説がある駝鳥とを重ね合わせたものです。弓は働くことから逃れ続けて、日本の大学に留学してまでも親から仕送りしてもらいながら、現実にもあまり関心をむけずにゲームやネット、あるいは闇雲のなかにおぼれる自分自身を駝鳥人として捉えているといいます。そこには「臆病」とでもいえるものがあります。
いっぽうの無頭人は一人称視点の映像にうつる身体には頭が写っていないところから着想を得ています。その映像の動きに、巻き込まれて同調してしまうわたしの(けして私だけに特有ではない)体内感覚があり、それはつまり映像の中の頭のない身体の内臓と私の内臓がつながる感覚でもあります。映像のなかの他者の身体に私がのっとられているのか、私の身体がその感覚を生み出しているのか、そのどちらなのかという問いかけはあまり意味がないのかもしれません。ただ、それを見ている私はあまり動くことはない。そのような「受動性」をみてとることができます。     
このふたつの精神は自虐的にみえるし、もちろん自虐でもあるとは思いますが「もっと現実に対して挑戦してみないといけない」や「主体性やアイデンティティをたしかにもとう」というような指摘のまえにすぐ破れてしまいそうなギリギリの薄さの、しかしながらなかなかに実感のある気分でもあります。このある意味で自虐的な気分をそのままに、そこに踏みとどまって思考や制作をひろげていけないだろうか。つまり肯定も否定もこばみながら「臆病」と「受動性」を引き伸ばしながら関わってみたい。     
以上のことをプロトタイプ的に表現してみることで、語れることや考えられることを増やしていくというのがタイトルの一部にもある「表現の実験」という言葉のニュアンスにふくまれています。


荒川弘憲 twitter: @ArakawaKoken

弓墨翰Instagram: https://instagram.com/gononononononononon?igshid=YmMyMTA2M2Y=

撮影: HAO QI


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※ BUoYスタッフより※
「無為フェス」詳細については以下の記事をご参照下さい。


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