見出し画像

「志村けん」はお父さんより家にいた

 志村けんさんが亡くなった衝撃、それはもう、どうして、と言うくらいのものだった。「志村けんが死んじゃった」と人と話をするだけで何かがぐっとこみ上げる。2年たった今もなお。なんだこれは。正直言うと、ごめんなさい、ほとんど会わなかったけど、たった一人しかいない親戚のおじさん亡くなった時と比較にならない悲しい。こんな事になるとは。亡くなって2年以上、ずっと整理したいと思っていた。亡くなるまで気づかなかったその存在について改めて考えてみる。
 
 話はやっぱり、母から始まる。私の母の事は一言で言い表せないし、堂々と言える事も少ないけれど、それなりに書いてみる。盛るどころか削ぎまくっても噓くさいのが母の話。私の夫にさえ、最初はそこまでじゃないでしょ、と思われたが、最近も55歳年下の孫(兄の子)に女として嫉妬心を燃やしているのを聞いて「ただもんじゃねえ」とつぶやいた。
 母が苦労したのは知っている。昔はそんなに珍しくもないのもしれないけれど、認知されていなかった。27歳くらいで認知してもらう事になったけれど、それまではみなしごだった。祖母は手芸店をやっていて、そこで同棲をしていた。相手は完全にアッチの世界の人だった。服役していた事もある。母はこの人に虐められたと、ずっと深く恨んでいる。私は子供の頃から母がおじいちゃんにいじめられた、イヤだった詳細をBGMのように聞かされてきた。おじいちゃんは阪神淡路大震災の少し前に亡くなったけれど、亡くなってもなお言い続けた。母が70過ぎて祖母も亡くなり、今やっと、少し静かになったかな、くらいだ。私は「おじいちゃん」と呼んでいたけれど、幼い頃から一度も血がつながってると思った事がないのが、今思い返しても不思議だ。父が「おじいさん」と言っていたのも大きかったのかな。おじいさん、て、ずいぶん響きが違う。
 
 そして、そんな家で育った母は高校を卒業した瞬間に大都会東京に逃げ出して、金持ちの高学歴のいい男を探すべく立ち回った。バニーガールやら、テレビで「ちょっと映るギャル」ようなお仕事をやりながら。賃金は良くても、昭和のその界隈、今と変わらないのかどうか、クスリもとても身近だったらしい。母は怖くてやらなかった、と、言っている。からここは信じよう。そんな中、母は女性の武器をぶんぶん振り回し続けた挙句、色々やらかしたせいで最後は結局アッチの世界の人に追われて田舎に逃げ帰る事になる。その逃亡を祖母に頼まれ手伝ったのが父である。ただの祖母の手芸店に出入りしていた問屋だっただけなのに。父、21歳。
 
 田舎に逃げてきたくらいでアッチの世界の人は気が済まない。複数人連れて田舎まで母を〇〇しに来るという。母のやらからしを思うと。またしても人のいい父はおじいさんに唆されて一緒に戦うように指示される。お店の古物の十手の使い方をインスタントに習い、問屋の就業時間の17時まで店で待った。生きた心地がしなかった、と。そりゃそうだよな。漫画みたいだけど漫画ではない。17時になったのでおじいさんに帰ってよい、と言われ、帰ったら、その10分後に奴らが来た、と言うのは笑い話。父さん、携帯電話とかなくてよかったね。でも、そこはおじいさん、父には知らされてなかったけれど、てきやの世界の仲間を数十人、知り合いの事務所に集めていたので事が済んだ。東京からやってきたのは3人だけだったから。
 
 さて、そんな風だったので、行くところがない母は勇敢に戦った“はずだった”父と結婚し、二人の子供を産んで幸せに、なるはずがない。結婚生活は何もかも、ちぐはぐだった。母は金持ちの、高学歴の、顔がいい東京のおぼっちゃまを狙っていたのに、こんな事情で仕方なく、貧乏で、高卒の、地味な顔の男と結婚したんだから。父と母は早々に、完全に終わっていた。でもよく考えてみれば、始まってもいなかったんだな。自営業の父は正月と時々のお昼くらいしか家にいなかった。
 
 父は結婚当時貧乏だったけれど、バブルの時代で一時的にバカみたいにお金を手にした。私はブランドの子供服を着た。でも母には絵本を読んで貰った事も歯を磨いてもらった事も一度もない。もちろん、絵本を読んで貰ったり、歯を磨いてもらうのが普通だと知ったのは私自身が親になってからだけど。それでも母にしてもらった素晴らしい事は忘れない。それは子供を大人のように扱った事。馬鹿にしたりしない。ただ、自分が子を持ってわかったのは、哀しいかな、母は一度も私や兄をかわいいと思った事はなかったんだな、という事。さぞ、ずっと苦しかったんだろう、と思う。
 
 そんな母には男はできても「友達」はいない。できない。なにせ、相手が心の底から傷つく事を平気で言ってしまう。できてもすぐに去られてしまう。あれでは本人もずっと生きにくかったろうと同情もするけど、一緒にいる人はただただたまらない。母が私に「どうしてお友達がいるの?」と聞く時はどうやったら幽霊を見れるの? というテンションと同じ。正月にお肉料理を持っていけば「だから(お肉料理を作るから)友達がいるんだね」と納得した顔をしている。違うんだよ、お母さん。
 
 母はいつも頭が痛いと言っていた。いつも不機嫌だった。父との格闘で父のスウェットを真ん中から割くのを見た。Tシャツじゃないよ、スウェットよ。兄が言う事を聞かないとヒステリックにわめいた。「ヒステリックな人」という表現が映画やドラマなんかできちんと再現されているのを見た事がない。ホンモノは声色も変わるし顔も変わる。しゃべり方も変わる。小さい子だったら一瞬で失禁するくらい身の毛のよだつもの。実際、私はスウェットを割くのを目の前にした時はおしっこをもらした。当時、思春期だった私が「ただ我慢できずにもらした」と最近まで思いこんでいたけれど、冷静に考えたら、びびって失禁したに違いない。「がまんできなかった」のは人生それ一度だから。
 定期でキレながら、スーパーミラクル不機嫌を非常に安定した状態で長時間保つ母。彼女が日常生活で穏やかに微笑んでいるのを思い出すのは、まだ貧乏だった日曜日のある朝と、恋人(等)とすごす時。
 そんな母が涙を流して大爆笑する時間があった。それは「志村けん」がテレビに出ている時。
 今でも覚えている一場面。コントで女装した志村けんが足を組みながら「JJ読む? それともMORE?」と他のギャルに雑誌を勧めている場面。その仕草がとても自然。ファッション誌を溺愛する母は涙を流して笑っていた。志村けんは天才!って。
 
 「志村けん」というと、コミカルな仕草や変な顔を思い浮かべる人も多いと思う。もちろんオモシロ企画もたくさんあった。でも、例えば、母が笑ったこんなほぼ普通の女性の表現を思い出す。構成作家がいたとしても、それを「表現」にしたのは紛れもなく彼だ。「女性」で笑いをとる素敵な才能ある女性芸人もいる。でも、本人が女性である分「いるいるこういう人!」「本当にいたらおもしろい」という具合の、見てる側からすれば「自分じゃない女」の表現にどうしても寄っていく。男性だからこそ「普通の女性」の表現に挑戦できるかもしれない。でも多くの男性芸人が女性を表現するとき、どうしてもかわいくなろう、という要素が強くなりがちになる。なんとなく見てる方もそれをふんわり期待しているのかもしれない。でも志村けんはそうしなかった。女が「これあたしだわ」って笑える女性を表現してくれた。
 他にない感受性と感覚で生み出された表現はとってものびやかで、受け手がどんな年齢だろうが性別だろうが、学があろうがなかろうが、誠実であろうが不誠実であろうが、心の芯まで届いたんだろうなあ、と思う。
 
 「子供の頃、私達を笑わせてくれてありがとう」なんてものじゃない。私にとっては「一番笑って欲しかった人を、でも子供の私では決して笑わす事が出来なかった人を、たくさん、何度も笑わせてくれてありがとう」なんだな。だから彼がいなくなってこんなに時間がたってもなお、泣けてくるんだな。「志村けん」は父より家にいてくれた。家の中で母親が笑っている事が、涙を流して笑い転げている事が子供にとってどれほどの一大事だったか。彼がいなかったら、私達の生活はもう一段、暗いところにあったはず。そしてこんな子供は他にもたくさんいたんじゃないかと想像する。
 
 志村けんさんご自身も厳格なお父様がテレビを見て笑う事に衝撃を受けてその道を選んだ、とドキュメンタリーで見た。すごいなあ。「志村けん」は、あの頃の日本中の普段ほとんど笑わないような人達をたくさん笑わせてくれたんだろうな。私の母もその一人。素晴らしい、天才的な芸人さんはたくさんいる。父が時々楽しそうに見ていた新喜劇だって大好きだ。比較しているわけじゃない。でも、あの頃の病的に張り詰めていた母を涙が出るほど笑わせてくれたのは確かに「志村けん」ただ一人で、私と兄のスパーウルトラヒーローで、私はきっと、ずっと、死ぬまで、ことあるごとに思いだし続ける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?