見出し画像

5-2 日常はデフォルトでドラマチック、のはず (インプットってなんだってんだ 後半)

(『1.君に俳優を志すのをやめさせたい』の連作ですが単独でも完結しています)

 全表現者のインプットと役者のインプットの話は何も違うところがありません。それなのに、役者にそういう意識の人がとても少ない。
 日常をどうやって生きていますか。あなた自身が生きてきた人生で誰かに大きな影響を与えられたり与えて来た実感がありますか。あなたは、ヒーローですか、稀代の悪ですか、とは問うてません。正直にやってれば、大波小波があって当然と言いたいのです。
 自分の周りはずっと平和でドラマみたいなドラマが起こる事はない、と言う人もいます。本当ですか。ちゃんと見て、聞いてますか。伝えてますか。それで本当にドラマが起こらないなら、どっかの別世界にいるのか、天国にいるのかもしれません。統計の取り方は知りませんが、平均的な大人が3人集まって内心を隠さず1時もすごせば1回くらい争いになるもんだと思います。でも瞬間のリスクを恐れて、皆、我慢します。だから、表面化しないだけですね。

 私の最初のテレビ番組制作会社は20人にも満たない小さな会社でしたが、鬼の住処みたいな場所でした。暴力、セクハラ、盗難、詐欺、不倫、ラブホテル、いやがらせ、全身入れ墨、夜逃げ、最後には空請求で国税局の登場、テレビ局からの出禁(これをきっかけに会社が傾きました)、強姦未遂で起訴された後輩もいました。本当です。盛るどころか、書けない事をふせにふせてます。
 「エッチしたーい」と叫びながら編集するディレクターは女性とすれ違う時はブラジャーの紐を引っ張るのが習慣でした。女の私でも上司にタバコを押し付けようとする女の先輩の手から煙草を奪い取ったり、ディレクターからAD顔面への拳の連続殴打を止めました。改めて書いてみると冗談みたいですが4年で私も体調をくずしました。20代だから耐えられました。そんな人達にまともな仕事ができるのか、と思われるかもしれませんが、できなきゃ会社は存在していません。
 先の変態ディレクター1人と当時24歳ADの私と二人だけで、半年で作った大家族2時間ものはゴールデンで17.3%を記録しました。ロケ現場で、取材対象を巻き込み、励ます力が圧倒的でした。テレビはお断りだ!という頑固なラーメン店の店主まで軽やかに説得するのです。暴力を受けても学ぶ事が多かったので一緒にやれました。その変態に足首をなめられながらテロップを量産しました。
 社長は猫背でも185センチくらいあって、背中の毛がはみ出している超強面で、1ミリのモラルもありませんでした。ポスプロとケンカのし過ぎで出禁の場所だらけ、ロケ現場に来ても取材者に対して「脅し」になってしまい、社長は「使えない」人でした。一方で編集の奇才でした。凡人の手の中で終わっている素材も編集だけで蘇らせました。局の人間は制作会社の人間を基本、ゴミ扱いですが編集の腕だけで彼には頭を下げました。

 その後、脚本を書く傍ら、パートとして、環境省や経産省が顧客のコンサル2社で働きました。制作会社は中卒でも入れるような実力だけの世界でしたが、こちらは2社とも東大卒、工学系の優秀な大学の人達ばかりでした。実際、チームの上司も東大卒(奥さんはJAXA)でした。

 私は運よく繁忙期に面接で入れてもらったのですが(2社目は1社目のコネ)、私以外のパートの多くは社員との繋がりで入ってくるようで、一級建築士の主婦、東大卒でアメリカで博士号を取っている主婦(ご主人も東大)、親が文科省の三役で赤坂の議員宿舎から通っている学生など、それまで縁のない人種ばかりでした。たくさん人がいてもケンカのないオフィスは私にとって大きな違和感がありました。結局3年ほど過ごした中で先のスーパー野性的な制作会社とあまりかわらない「人間」を見る事になりました。気色の悪いセクハラ、第二子が生まれたばかりの上司の失踪、SMも不倫も、陰湿ないじめも絵にかいたような嫉妬も。違いは表面的な暴力や、日常的な下品さがない事だけです。隠されている分、より激しく、気色の悪いものに感じました。

 何が言いたいか。結局人は学歴も地位も名誉も関係なく「人間」なのだと思います。どこにいても生きているだけで必ず何かが起きます。
 こんな多様な人達に会うなんて、私が運が「良い」だけでしょうか。それも少しあるかもしれません。でもそれだけではありません。例えば兄は私が4歳の時から知っていた両親の不仲を大学生になって私に言われてやっと「知り」ました。同じ屋根の下にいても興味がなければ、気づく事はありません。制作会社の暴力ディレクターの片方の足が極端に短い理由を知っていたのは、私だけでした。何年も前からいる強面の先輩ディレクターに「(それを知っているなんて)おまえすげーな!!」と爆笑されて気が付きました。誰もその理由に興味もなく、腫物扱いの人物だったので、10年一緒に働いている人も障害の理由を知らなかったのです。ちなみに彼が志茂田景樹さんのような恰好をしている理由も私しか知らない自信があります。みんな、彼のプライベートに興味ありませんでした。
 たくさんの人を浅く知るより、少し誰かを深く知る事の方が難しいかもしれません。自分自身も開く必要があり、切られるリスクも増えますから。でも知れば知るほど、他の知らない誰かも当然、複雑に違いない、と畏敬の念から入れます軽んじないでいられます。新たな誰かに出会う事によって昔の誰かを新しい側面から見る事ができるようにもなります。
 例えば、いつも真面目そうな髭プロデュサーが酔うと実際先輩のおっぱいを掴むような輩でした。それに対しシラフで散々背中のブラジャーの紐を引っ張り歩いていた変態ディレクターは決して乳そのものには手を触れない「紳士」な面がある、というような事です。自分の娘(当時小学生)と初めてヤルのは俺だと豪語するような人物でしたので、これを書いている今、やっと「紳士面」に気が付きました。
 役者になりたい人はどんな風に「見える」人でも理解しようとする気持ちがなければならないと思います。そうでなければ様々な役を真実味を持って演じられませんし、愛せません。
 そして、傍観者では不十分です。渦中できちんと痛みを持って自分を表現できる人でなければならないと思います。普通に生きているだけでリスクを負わなきゃならない時が少なからずあるからです。懸命にやればやるほど当たり前に何かにぶち当たります。葛藤があります。でもたいていは、問題が起きないように、自分も誰かも傷つかないように、我慢して問題が忘れ去られるのを待ちます。痛みを覚悟して自分を開いて動いた時、世界が確実に変わる瞬間があります。良くも悪くも、です。善悪の事はここでは言いません。

 日常をネチネチ我慢している人の方が大半だ、そういう役がやりたいんだ。フィクションだからこそ、違う自分になりたい、日常隠された自分を発見できるかもしれない、だから役者になりたいんだ、というのも聞いた事があります。悪いと思いません。
 「自分探し」という言葉、私はそもそも実体が存在しない語彙だと私は思っています。言葉が先にあると、そのものがあるように見えますが。そうとは限らない。(そういう言葉は結構あります。語彙の存在自体を疑うべきものが。生きる意味、とか)自分を探すのではなく、あなたの「行動」があなたを作ると考えてみてはどうですか。その中で自分の中にある自分の知らない自分に出会う事もあるかもしれません。そうだ、「自分」は探すのでなく、ある経験に偶発的に付帯的に出会うものです。「恋」はするものでなく「落ちる」もの、と誰かが言ったのと似てるような。
 やるべき事を知っていて、それをしないのならば、いい演技につながる可能性を自ら流れ続ける傍らの側溝に捨て続けているのと同じです。そういう人は早い段階で壁が越えられなくなる可能性があります。

 正直な人は「馬鹿正直」のイメージがありますが(実際、そんな人もいるかもしれませんが)最初からそんな風だった人の方が少ないと思います。人の気持ちに敏感でありながら、正直であるには、圧倒的にパワーが必要です。燃費が悪いのです。燃費が悪いという事は、誰かに、何かに、たくさん助けて貰う必要があります。(金がない時は人にしか頼れません)正直に生きていく事はそれだけで多くの犠牲を払っていく事かもしれません。それでも得るものは失うものの等価以上だと、私は思います。精神的絶景を見る機会も増えます。もちろん、忘れたい景色を見てしまう事があるかもしれません。
 「正直」である事は善人である事でなく、周りの大半から見て「自分勝手」に映る事も多くなるかもしれません。考えてみれば当たり前です。魅力的な役者の素行がイメージと違うな、変な人だな、と思う事は珍しくありません。
 覆い隠していた表面をさらった時、ある程度の人が去るかもしれません。それぐらい我慢してください。もし必要な人まで去ってしまったら、追いかけてあなたが必要だ、と言ってください
 さっき、昼飯を食べながらテレビを眺めていたらウズベキスタンのボクシングコーチが「自分の可能性を全て出し切る人には必ずいい出会いがある」と話していました。まさにそんな感じ。いい言葉です。

とは言っても、限度があります。自分と、関わる他者が精神を病まずに生きていける事が第一条件です。ギリギリのエッジを歩けばいいと思います。

 若い役者さんに「ブンザイさんみたいに、正直に色々言うようにしていたら周りに誰もいなくなって孤独になった」と言われた事があります。笑ってしまいましたが。段取りを間違えると、そうなります。周りをよく知った上で「正直」をやってください。そうでなければ意味がありません。
 相手を傷つける事になるかもしれない言葉なら自分も同時に切って初めて相手に届く可能性が残ります。最もわかりやすいリスク、それはとても好きな相手にモノ申す時です。正直に伝えたことで、自分が大切にしたい関係を壊すかもしれない、恐ろしいです。自分が嫌われても言うしかなさそうだ、そんな時です。間違えたら、取り返しがつかない事もあるかもしれません。私自身、あります。思い出すだけで消耗するクズみたいな失敗が。そして、私に向けて、よく言ってくれたな、と思った事も。
 自分だけは安全な場所にいて、誰かに何かを変えてもらうなんて虫が良すぎますね。そんなものを素直に受け取れる心の広い人はなかなかいません。いい気なもんだ、と思われておしまいです。「リスクを負って」と軽く書いていますが、「リスクを負う」前に、そもそも大事にしているものがなければ「リスクを負う」事さえできませんね。

 何事もやりすぎると立ち上がれないくらいによぼよぼになります。持てるパワーも限られています。心の体力の差は、表現にも影響を及ぼすと思います。他からのインプットが自分の経験以外にあるとしたら、「聞く」ことです。身近な人が持つ物語(物語を持っていない人はいません、語りが上手でない人がいるだけです)映画でなくドキュメンタリー、なるべく「素材」に近い方を選んでください。身近な人の話は質問もできるので最高です。収穫が多いと思います。あなたの耐えられるギリギリのやり方を編み出すのもよいかもしれません。

 こんな人がいました。先に出てきたコンサルタント会社の社員のおじさんが趣味で演技を探求していました。(ピュアおじさん3。どうでもいい事ですが、映画、ドラマ業界でこういった役に立たない欲求を持ってる人に会えなかったのは残念です。私の実力不足で、上の方の方々にお会いできなかったからですね。そうでない人達は地位や名誉を大事にしてる人が多いので、ファッション業界になれなかった、フィクション業界と勝手にここでだけ名付けてます)おじさんが大きなプーさんを持っておしゃれ吉祥寺を歩いてみたら、周りはどんな反応をするか、みたいな実験を1人でしていました。役者修業だそうです。私だったら相当なガッツを必要としますが、彼はむしろ楽しそうでした。自分にとってハイリスクか、によって得るものの大きさも変わりますね。

 たくさんの感情の「実感」があなたの知る「素材」でその実感までの道筋が「料理法」に例えられるかもしれません。音楽であれば「実感」は実際に演奏してみた曲です。下済み時代のビートルズのように。できるだけたくさんの曲の経験があるといい。日本の童謡しか演奏した事のない人と、多様な国の音楽を演奏した事がある人と単純にどちらが表現者として、可能性があるか、という事です。演技は、知っている曲の再演ではないからです。料理で言えば、知っている料理の調理の再現でなく、新しく、人工ゆえに不完全かもしれない食品サンプルだけを与えられて、それを自分の経験を元に本物で作りなおす、というような事だからです。食えるものにする。つまり心動かせるものにする、つらく楽しい作業ですね。

 役者になってからも生涯インプットは必要です。さあ、いよいよ面倒臭いなあ、という感じがしてきたでしょうか。「本当にそんな所から必要なのかよ」と。それとも「それほど自分そのものを生かせるのか、わくわくするなあ」でしょうか。物語に描かれるキャラクターのほとんどが、リスクや葛藤を負っています。それが脚本の基礎中の基礎だからです。それがなければ「ドラマ」が生まれないからです。いくら自分を晒す勇気があっても、晒した中身が空っぽでは、何も伝わりません。だれかの真似はできないのです。(初心者の人はここにハテナ、となる人もいるかもしれません、後に触れます。)これは演技だけでなく、全ての表現者に言える事だと思います。

 表現者として、今から2時間映画を見るよりも、今、あなたのお母さんに、友人に、恋人に、愛する人に、嫌いな人に、本当にいわなきゃならない事を言った方が、何よりの価値がある、という事です。

 次回から(やっと)役者の専門的な所に触れていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?