ドラァグクイーンの主張力

「さりいの好きな写真家ヨシダナギさんが、ぱたぱたの好きなドラァグクイーンを撮っている!」

ということで、2人でその写真展に行ってきた。タイトルは「DRAG QUEEN -No Light, No Queen-」公式のキャプションは以下の通り。

フォトグラファー ヨシダナギの審美眼を刺激した〝ドラァグクイーン〟。
女性の性をモチーフとして、自己表現へと昇華するその存在はカルチャーという枠を超え、次世代の生き方を世の中へ示すほどの影響力を持ちつつあります。
そんな魅力あふれる彼女たちにスポットライトを当てたヨシダナギの次なる人間賛美をご覧ください。

ヨシダナギさんと言えばアフリカを中心とした少数民族の作品が有名。裸で過ごす人たちを自身も裸になって撮るという、徹底して入り込むタイプの方だ。

ドラァグクイーンは、調べたところ「女性の性」を誇張した装いや振る舞いをすることらしい。ゲイ文化の一環として始まったのが、今はより多様化して当人の性も表現方法も広がりが生まれている様子(あってる?)


そんな感じの写真展に行ってきたので、そんな感じの諸々から色々書いてみようと思う。

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ぱたぱたへ

クイーンについてはあんま語れないので、写真から始めてみる。

ポートレートって背景ぼかすのが定石よね。メイン被写体にバチっとピントを合わせて他はボケさせて、なめらかな背景をつくることで被写体を際立たせる。それができると一気にプロっぽい垢ぬけた写真になる。しかし、ナギさんの写真は違った。もちろんクイーンがメインなんだけど、その背景も、ポスターが読めるくらいの線がある。それでもなお、クイーンは際立って主張している。

(読者の皆さんには一旦先程のURLを覗いて作品を見てほしい…!)

「クイーン、つよっ!」って第一印象でも思ったのだけど、そこでさらに思った。背景をなめらかにしなくても際立っている!強い!そしてごちゃごちゃしても垢ぬけている。ぜんぜん芋っぽくない。言うなればサニーレタス、いや、なんならドラゴンフルーツ。巧みな色合わせの為せる技なのか、主張が上手い。それが今回のドラァグクイーンの写真から私が受け取ったものでした。

それからもう一つ「強いな」と思ったのは、写真展の後にぱたぱたから聞いたドラァグクイーンの他人にダメ出しする文化。クイーンに対しては「なりたい自分になれ」みたいなスタンスを勝手に(とても勝手に)想像していたから、他人に意見するとは驚きだった(それもパフォーマンスのうちなのかもしれないけれど)。

とかく、他人に否定的なことを言うのは難しい。だから椎名林檎は歌った。
「何かを悪いと云うのはとても難しい 僕には簡単じゃないことだよ」『透明人間』

野田洋次郎も歌った。
「何か嫌いというには 何も知らないから」『透明人間18号』

言わない透明な存在。それは上手くはたらくこともあれば、とっても、もどかしいこともあると、思う。

たとえば「こうしたい」「こうしてほしい」と、
自分の価値観に相手を照らしてそれを伝えることは、わがままになりかねない。
でも「これは良くない」「こうした方が良い」と、
改善のための主張なら、ちょっと相手のためかもしれない。

もっといえば、「これは嫌だ」「これはやめて」
その主張が正当な場面もあるし、仲間を守る場面もある。

でも、やっぱり「こうしたい」「こうしてほしい」みたいなわがままも、伝えないとやってけないことがある。相手のためでも仲間のためでもない、自分のための主張。クイーンたちはそれを全力で肯定して全力で実行している人たちだった。


ドラァグクイーンの世界は主張を是とする文化だからそれができるんだ、私たちの生きている世界とは訳が違う、と思う部分もある。でもその文化や世界だって、現役クイーンたちが作ってきたもの、今まさに作っているもの、なのよね?

そして相手を想定しない自分の解放のための自己表現に、それを気に入った人がついてきてムーブメントになる。そういう順番で主張をするの、いいなって思った。冒頭に載せたキャプション、「(クイーンは)次世代の生き方を世の中へ示すほどの影響力を持ちつつあります」、今改めて読むと一層うなずける。

ドラァグクイーン、強い。おもしろい。

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まずは読者の皆さんに説明をば…。わたしがドラァグクイーンを好きになったきっかけは『ル・ポールのドラァグレース』というアメリカ発のリアリティーショーです。

この番組は、14人くらいのドラァグクイーンが集まって、次世代のドラァグスーパースターを決めるために、毎回課題が出ては、1人ずつ脱落し、1番を決めるという、ちょっとアイドル番組とかとも似てる形式。
課題は、演技の課題があったり、テレビ番組を仕切る力を見られたり、笑いのセンスやらキャラ立ちの良さを確認されるようなものと、圧倒的クイーンの主戦場ランウェイ課題の2つで構成されていて、そのどちらもめちゃくちゃアツいという番組な訳です。
ランウェイでクイーンが出てくる瞬間にどんな装いで出てくるかな…、とドキドキする時間がたまらないので永遠に見てしまいます。
というわけで交換ノート本編へ。

さりいへ

ドラァグクイーンの写真展、わたしは写真より各々のクイーンのインタビュー動画の方を楽しんじゃったな笑
インタビューもまた作品の一部だと思うけど(ヨシダさんが写真の背景として必要に思ってやっていることなので)、やっぱり動いて、喋って、パフォーマンスをしているドラァグクイーンが好きなんだなぁって思った。

でも、展示後とかにさりいに説明しながら、よく考えるとドラァグクイーンが好きと言いつつ、この文化がどういうところから、どういう形で、どんなふうに育っていったのかってこと、詳しくは知らないなぁっておもって、いろいろ調べてみて、ちょっと勉強になったわ(でも、そもそも読むもの探すと日本語の文献少なさそうで、あまり詳しくなれてないんだけど)。

それで思ったんだけどね、わたしが知ってるドラァグクイーンは、あくまでこの番組に出ているクイーンだけじゃんって気づいた。
テラハが恋愛の全てじゃないように、ドラァグレースがドラァグクイーンの全てでもないよね。
リアリティーショーとして、脚色されている部分があるし、みんなテレビに出ているからパフォーマンス盛り気味な部分も沢山あるはずなので、知らないことも沢山だな〜と思った次第でした。

それで、今回はドラァグクイーンと主張ってテーマでバトンパスを受け取ったと思ったので、それについて書くね。
まず、そもそもドラァグクイーンに対して主張強いなって感じたことがなかったんだけど、確かに言われてみたらつよつよだね。
よく考えると、わたしは好きなものを好きと思う瞬間、つよい!!!!って心の中でよく叫ぶから、強いものが好きなのかもしれない笑

わたしが知ってるクイーンは、ドラァグレース出場者がほとんどで、レース上では個性が強くて主張がはっきりしているクイーンが求められる傾向にあると思うから、必然的にわたしの知っているクイーンはみんな主張強め、だとは思う。そういう偏りが多分ある。
でも、彼女たちはこれが私のスタイル、というプライドを持っているな、と常々感じていて、それがすごくかっこいいし好きだな〜って思っております。

でも、ドラァグの受け取り方は、クイーンによって千差万別だし、「なりたい自分になる!!」って思ってドラァグしている人はいっぱいいそうだなって思うけど、「ドラァグは誰でもなんにでもなれるもの」と思っている人がどれくらいいるかはまた別の話かなと思う。わたしの推しはそう考えている人で、わたしもその考えを支持しているんだけど。

ディスる文化に驚いたってさりいは書いてたけど、ディスる文化はクイーンのパフォーマンスの一つでもある、し、そういうコミュニケーションでもあるのかなぁと思ってる(パフォーマンスなんだろな的なことさりいも書いてたね)。
もちろん本音の批判の時もあるけど、パフォーマンスとしてやる時は本気で否定してないという前提はあるかも。本気さが滲み出てる時とか、うまくディスれないと、すごく場の空気が凍るので結構クイーンの力量が求められるな……とみながら毎回思ってる。

ディスりによって、わたしはこうじゃないけどあなたはこう、ということを逆説的に受け入れるというか、ディスるけどコミュニケーションはするっていう受け入れ方の側面もあるんだと思う。
だから、ドラァグの主張と、ディスは両立するのかな〜。

ちなみにわたしの主張は、ドラァグクイーンは自分で家族を選べるとか、自分になりたいものになれるっていう素晴らしさがあってもちろんそういうところも好きだけど、見たことない強烈でファンタスティックなものを表現していたり、下品な話でゲラゲラ笑っていたりするところも好き笑
もっともっと、いろんな側面があって、それぞれに好きなところがあるな〜って思ってる。

是非皆さんも、クイーンのメイク動画見たり、SNSフォローしたり、ドラァグレース視聴してみたりしてみてくださいね!

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