52週Something New week26_高野山訪問
ずっと行ってみたいな、と思っていた高野山に訪問しました。
高野山
弘法大師(空海)が中国に渡り密教の奥義を会得した後、日本で開山した真言密教の聖地。
エリア全体が大きな寺院であり、その中には117の寺(かつては1,000を超える施設があったという)が存在する。標高千メートルほどに位置して静謐な空気が流れ、街には小さなゴミ一つない。道行くひとはすれ違うたびに気持ちよく挨拶をしてくれるなんとも言えない良い空気が流れている。
開山1250年を数え、弘法大師は今も奥之院の御廟で衆生を救う永遠の瞑想をされていると伝えられている。
高野山会議
今回高野山を訪問する機会を得たのは、東大先端研が企業との産学連携を行う目的で運営するアートデザインセンターの社会連携部門のパートナーシッププログラムに企業側として参画しており、同センター主催の高野山会議に出席したからです。
サイエンス、テクノロジーにアート、デザインの要素をとりいえ、自然と共生することを目的として運営され、そこで仏教の智慧も活用すべく、さまざまな議論が展開されました。
高野山開山1200年に因み、今後1200年後の継続性を、人の本質、次世代育成、地球環境、テクノロジーと宗教、ビジネスの観点などから考えることとなり、とても良い刺激を受けました。
人には本能と理性があります。理性によって科学技術を進化させ、生物学的観点では生息領域の拡大と個体数の増加という繁栄を達成してきました。一方で同じ理性によって、戦争や差別、化石燃料資源の濫用による環境負荷の増大、それによる自身の生息域である地球環境への不可逆的な変化など、多くの課題を生み出してきているのもまた事実です。
また、それらの議論を通じて論理的な脳をフル回転させる傍ら、金剛峯寺や霊園でのコンサートや、宿坊での読経と供に行う瞑想、森林セラピーなどの感覚的な体験をするプログラムを通じて、感性的な部分も大いに刺激を受けました。
お経を聴きながらする瞑想と、目の前で発せられる音を感じるコンサート、森の中で鳥のさえずりや太陽の光を感じながらハンモックでうたた寝する体験には全て共通する感覚があり、いずれも考えずに感じている自分を自覚しました。
これらの体験を通じ、アートの定義が自分の中で少しはっきりしてきました。人間の感覚的なもの、感性的なものは言葉で表現し切る事は難しく、それを表現する手段が、音楽や絵画、彫刻などの芸術、アートだと思います。つまり感性と理性の架け橋。理性による進化の良い面、悪い面の両義性を人間本来の感覚的な自然への帰属させ、調和させることにも、このアートの力は活用出来るのでは、と思いました。
また、感性と理性の両方を使いながら、それらを世の中により浸透させていくためには、継続性を担保するエコシステムとしてのビジネスの要素も大事になってくるとも思いました。
感じた事
百聞は一見にしかず、とはよく言ったもので、今回zoomで数時間を供にしたメンバーと初の対面での議論だったのですが、圧倒的な情報量の差を感じました。現状のweb会議では限定的な視覚、聴覚偏重のコミュニケーションとなり、その他の多くの情報を人は感覚的に受信しているのだな、と改めて思い知らされました。
リモートワーク、リモートコミュニケーションは便利でもっと活用したいと思う傍ら、大事な事はやっぱりお会いして、というのをあらためて感じました。
五感で感じ、理性でも考える、というのが大事だな、と。
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