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約20年ほど前、石垣島への移住に失敗した理由。そして2度目の移住チャレンジが成功しやすい説

最近、疎に暮らすことについて、多角的かつ俯瞰的に考えています。僕自身は都市部で生まれ育っているのですが、子供のころから田舎願望といいますか、北海道や沖縄に憧れていたのです。

21歳(1995年)に大学を休んで石垣島へ

この時は、30人乗りのカタマランヨットの乗組員兼シュノーケリングのインストラクターとして、リゾートバイト的に長期ステイしました。約8か月くらいだったと思います。都市部で息苦しかったのと、自分が大学で行っている研究が労働法学であるにもかかわらず、勤務経験がないということに違和感を覚え、最初は知床のホテルの皿洗いの仕事で内定をもらっていました。そのあとanというアルバイト雑誌に石垣島の求人が乗っていたので、慌てて応募したのを覚えています。

某宗教の信者と間違えられた

海の仕事ということで、白いウインドブレーカーのような光沢のあるジャンパーを持っていきました。あとは銀縁のメガネをかけていたんですね。この時期ファッションに無頓着で21歳なのにジーンズも半ズボンも恥ずかしくて履けない、そんな学生だったので、島に降りてすぐ某宗教から逃げてきたと勘繰られました。仲良くなってからも「本当のことそろそろ言っていいんだぞ」とか「本当はそうなんだろ」って結構言われて、ちょうど事件直後だったので致し方ないのかなと感じていました。内定は事件前にいただいてました。

天国だと感じた8か月

好天のときは、デイクルーズとサンセットクルーズと1日2便。昼はシュノーケリングのガイドで夜はサンセットクルーズです。悪天や時化の時はホテルのプールの監視員でした。とにかく船の上が素晴らしい。ヨットはエンジンを切ると無音で航行します。本当に自分は天国にいるのかもしれないなと感じました。素潜りは苦手な方ですが、調子のいいときは12mくらいは潜れました。が、となりのダイビングショップの若者は、素潜りで30m行けるものもいました。GWと夏休み以外は本当にお客さまがいなくて欠航なんて日もありました。

日本だけど日本じゃない

当時は民放開局2年目で、あるとき先輩に久米宏氏の話をしたんですね。そしたら知らないというんですよ。ニュースステーションがOAされていないんです。或いは、文字の読み書きができないシニアも沢山いて道端で突然お手伝いが始まったりしました。離島にいくとさらに衝撃が走ります。あまりにも島が美しすぎるので、自分が穢れているように感じたこともあります。

2回目の石垣島行きは永住覚悟だった

大学に戻り卒業し少しだけ東京で働くのですが、やっぱり石垣島での体験が強烈で全く仕事に身が入りません。で、再度石垣島に行きます。ホテルで働いていたのですが、その後石垣島のケーブルテレビ局で働くことになります。

空回りの連続

2回目は天国とはならなかったのです。短期のアルバイトとは全く別で、生計を立てようとするとそれはそれは大変でした。まだ若かったということもありますが、仕事がとにかく空回りします。周囲からは頑張っているという声も頂戴しました。CM営業もここ10年で一番の成績だと言われて…。とはいえ、今から思うと浅はかでした。勢いだけで何とかなると思っていたし、だけど何も動かない。結局自分のことしか考えて居なかった。島の人たちが何に困っていて、何を望んでいてとかそういうことを考えず、独りよがりだったのかなとも思います。

石垣島移住のデメリット(今は違うかも)

1)食べ物が合わない方は全く合わない

野菜の揃いが悪かったし、レタスなんて高くて買えませんでした。島野菜と言われる野菜も当時は葉っぱみたいに思えたし、ゴーヤも食べなれたとはいえ、飽きます。魚も緩くて、臭みもあります。

2)夏が長いし、意外と湿度も高い

常夏と言えば聞こえはいいのですが、2年目、3年目にもなると、夏が3月下旬から10月まで続きます。5月上旬からの雨季(梅雨)も1か月以上続くのです。日陰に行けば涼しいというのも1年目、人間の体というのは恐ろしいもので、2年目以降は暑いものは暑いのです。春夏秋冬がだんだんと恋しくなってきてしまいます。湿度は無茶苦茶高くて洗濯物が乾きませんでした。

3)冬の寒さ

今度は冬の乾燥期間です。これもキツい。北風は冷たいですし1年目にこたつを使っていると聞いて、嘘でしょって思ったのですが2年目以降はこたつが欲しくなってしまいます。11月~3月は当時シニアツアーばかりで、本当に退屈してしまったことを覚えています。

4)家賃や物価が高い

よく、色んなものが安いと聞かれましたが、とんでもないです。特に野菜が高かったですね。今はどうかわかりませんが。家賃は今とんでもないことになっているんじゃないでしょうか?

というわけで東京が恋しくなって帰ってきてしまったヘタレです。とはいえ、石垣島の素晴らしさを語れと言われれば、山ほど挙げられます。今なら暮らしていけるんじゃないかなって思います。ただ今の石垣島と20年前の石垣島は別世界になっているようなので、また今は今で別の課題はありそうです。守るべき文化は徹底的に守る。大切な営みはヨソ者には触らせないというマインドも凄かったです。これは、僕は逆に素晴らしいと思いました。

この島で暮らしていけなかったら世界中どこにも暮らせる場所がない

当時の石垣島は、とても貧しかったです。が、上の言葉は当時の島の人たちは口癖のように僕に語ったセリフです。島の人たちが、その島を愛するということができるのが羨ましかったです。東京、埼玉を転々として育った僕に、そこまでの郷土愛のようなものは芽生えませんでした。

今北海道の新冠町に移住して思うこと

一度移住に失敗していると二度目の移住はうまくいくんじゃないか説が、僕の中では、かなり有力説です。一度移住してみると国内とはいえ異文化、その土地の気候風土や食文化、或いは想定外の慣習などが存在することに気がつきます。そんな経験を経て、例えば元居た土地に戻ってきたとします。そうすると次また、どこかに移住すると、また辛い思いをするんじゃないかとか、また失敗するんじゃないかと思いがちです。移住リトライしづらくなってしまうのです。僕もそうで、もっと早く北海道に来ればよかったのですが、5年くらい悩んでしまいました。

移住の失敗経験は次の移住に生きる

って思います。より移住先のコミュニティのことを深く知ろうとします。どう関わったらよいか。或いは自分が持っている価値観なり世界観を移住先の営みに押し付けようというマインドが消えていきます。そういうマインドを持ってしまいがちだからこそ、持たないように気を付けるようになります。その土地が持っている価値や営みにまずは自分を合わせてみることで、得られることが多いからです。

だからといって僕が移住成功者とは言えません

成功者とはとてもじゃないけど、言えませんが、新冠という町に移住して心底良かったなって思える自分がいますし、今、この町を出てどこかで暮らそうなんて本当に思えない。それくらい好きです。そういう意味では成功といいますか、自分はラッキーだったなと思います。出会いにも恵まれました。町の人たちと同じ悩みや課題を共有しながら、自分も何か役に立てればいいなって思います。いい人ぶってんじゃねえよ!って声も聞こえてきそうですが、それはそれで甘んじて受けます。まだまだ至らない自分がいるということは、自覚していますので、まだまだこれからです。

したっけ、また。


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