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ASDが分かるまでの話(うつ病だったとき)その2

一度目の自殺未遂

平成28年の11月のことです。最後の一般雇用での就職をしたのですが、数日出社したところで会社を休んでしまいました。その休んだ日、「もう人生終わりにしたい」と決意じみた感情が湧き出してきました。処方されていた薬の致死量をネットで調べており、その情報によると十分な量でした。そして大量の薬を一気に飲んだところまでは覚えています。目覚めたら病院にいました。妻が仕事から帰ってきて異変に気付き救急車を呼んだとのことです。本当に、本当に妻には大変な迷惑を掛けてしまいました。
妻に迷惑を掛けておきながら思ったのは「死ねなかった」ということでした。

障害者手帳を取得

退院して「健常者としては生きていけない」と障害者手帳の申請をして、当時の主治医の協力もあって、障害者手帳を取得することができました。
障害者としてこれから生きることになった私にも一緒にいてくれている妻には感謝しかありません。しかし、精神的不調、「働かなければ」という焦りに変わりはありませんでした。

障害者雇用で働く

障害者手帳を取得し、それから障害者雇用で働くことになります。しかし、一般雇用でも障害者雇用でも働くことは同じ。一年続いたこともありましたが、結局二社を退職することになってしまいました。もう自信なんて皆無です。「本当にどうしよう」という思いでした。

二度目の自殺未遂

平成最後の31年4月のことでした。障害者雇用三社目に入社して初出勤日で、「もうダメだ働けない」と感じてしまいました。この頃はもう以前にも増して働けるような心ではなかったんだと思います。そして翌日欠勤して、「今度こそ人生終わらせよう」。突然考えてしまいました。一度目の自殺未遂のときよりも薬のストックが多く、これだけの量を飲めばと気付いたら全部の薬を一気に飲んでいました。今度は妻に薬を飲んだことが分からないように薬のパッケージも隠しました。薬を飲んでベッドに入るとき、「今度こそ死ねる」と思ったことを覚えています。
でも、気付いたらまた病院に私はいました。今考えれば、なんて自分勝手な、無責任な、妻のことを考えない愚かな行動をしてしまったんだろうと思います。退院する頃には時代は令和に。

現在の主治医に出会いASDと診断を受ける

退院してからは働くことは諦め、療養生活を送ることにしました。もちろん働くことへの焦りはありましたが、退院してから障害年金に詳しい社労士さんと出会い、今までの障害年金額が三級から二級になり、金銭的に余裕ができたことは本当に救いになっていました。
その社労士さんから現在通院している病院を紹介してもらいました。今の病院は今までの病院とは違い、詳しい心理検査ができる環境のある病院でした。そこで何時間にも及ぶ心理検査をした結果、今までの精神的不調の背景に「ASD(自閉症スペクトラム)」の障害があることが判明しました。今までは正しいとはいえない薬の処方を受けていたわけです。

現在もこの病院に通院し、体調は徐々に徐々に良くなってきています。結局は体調がついていかず辞めてはしまいましたが、この間に一度障害者雇用で一年間働いたりもしました。働いてる期間中の勤怠は今までより全然良いもので、体調回復を実感できました。辞めてはしまったんですけどね汗会社の悪口は言いたくないので。
二度目の自殺未遂の後、社労士さんとの出会い、主治医との出会い。他にもミニマリズムを実践したり、たくさん歩くようになったり…何より妻の私への理解。人生が良い方向に行っていると思います。働くことへの焦りもいい意味であまりありません。働いていない現状に賛否はあると思いますが、今は働くことが自分にとっていいことなのか、違う生活の仕方はないか等いろいろ人生を見つめ直しているところです。noteもその一つとして、あとはX(Twitter)を今年の四月から初めて約390人のフォロワーさんに恵まれています。今まではSNSを毛嫌いしていたのに笑
もしよければXも覗いてみてくださいね!
同じアイコンで同じブン太郎という名前でやっているので!

次の記事からはもう少し明るい内容を公開していきたいと思っています。最後まで見ていただき、ありがとうございました。

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