見出し画像

「急変しても、人工呼吸器をつけたり心臓マッサージを行わないでください」

抗原検査で父の陽性が分かったと連絡があったのは、発熱してから4日目のことだ。
この時、父と同居している母は、無症状で陰性。けれど翌日のPCR検査で、両親ともに陽性が判明した。その時、私が真っ先に思ったことは、「入院するよう母を説得しないと」だったー。

この話をする前に、少し父について話しておきたい。

父は控えめに言って「はちゃめちゃな」教師だった。
金八先生を左派の武闘派にして、思い切りだらしなくした人物を想像して欲しい。

それが父だ。

まだ私が保育園児だった頃から、校長、教頭先生と激しい喧嘩する父を、卒業式などの式典で日の丸を段上から引きずり下ろす姿を、真近で見て育った。

家には当時、「落ちこぼれ」や「ツッパリ」と呼ばれていた生徒さん達、DV夫から逃げて来た母子、在日朝鮮人のおじいちゃんおばあちゃん。さらに、生徒さんが拾って教室で育てた後、連れ帰った多種多様な動物たち。

そんな人達が自由に出入り(当時うちは鍵をかけない主義だった)していて、賑やかだった。

さらに、父は仕事以外はだいたい酔っていて、なぜかいつも、ズボンがずれてお尻がチラ見えしていた(笑)。
「半ケツ先生!」私が生徒ならそんなあだ名をつけただろう。実際の生徒さん達からは「おっちゃん」と呼ばれ親しまれていたが…。

そんな無頼漢な父なのだが、教師引退の年に認知症を発症し、15年ほど認知症を患うことになる。介護は母が、デイサービスも利用しつつ、自宅で行ってきた。

私は3人きょうだいの末っ子で、実家からは1時間程度の距離に住んでいる。遠方に暮らす兄、姉に比べると近いのだが、ライターの仕事と子育てで日々てんやわんやで、なかなか介護のサポートに回れない。

だから、母には以前から父の入居型介護施設へ入居を薦めており、実際に何度も決まりかけた。だが、母には「可能な限り自分が介護したい」という強いこだわりがあり、断っていたのだ。

これは父が認知症になってから、30年以上に渡る浮気が発覚したからかも知れない。
(なんと認知症になって、「愛人の家の鍵を探し続ける」という症状が出て発覚。その後、昼ドラも真っ青な展開が待っていたのだが…それはまた別の話だろう)

父が発熱してからも、母は「離れ離れになりたくない」と、なにかと理由をつけて病院に連絡しなかったのだが、陽性となれば、もう黙ってはいられない。

電話でなんとか説得(というか説教)して保健所に電話させた。ここでも、「二人一緒の病室でなければ行かない」とごねたという母にはあきれるが、奇跡的に、少し遠方の病院に二人同室で入院できたのには驚いた。この時、発熱から7日目。

入院すぐの血液検査で、父は血中酸素量が少なく肺炎になっていることが分かった。すぐに酸素吸入を開始し、コロナの新薬レムデシビルと解熱剤、栄養剤点滴での治療が始まる。

だが、ほとんど効果はなく、熱は37〜39度代を行ったり来たり。酸素量も少ないまま。入院2日目からは食事も取れなくなってしまう。

一方で母にも微熱が出はじめ、身体がだるいという症状が見られるようになった。私はこの時はじめて、「二人を失う覚悟を決めなければ いけないのかも」と感じた。

入院3日目。取材に向かう途中で突然電話が鳴り、「今日来てください」と担当医師に告げられた。ここまで病室への立ち入りはおろか、病院に行くことさえ許されていなかったのに、だ。嫌な予感がした。

というのも当時、実家のある兵庫県の感染者数は400人。隣で私が住む大阪府のコロナ感染者数は2000人越えで、病床がひっ迫。まさに医療崩壊のまっただ中だった。

その病院ではコロナ患者を入院可能な数以上に受け入れて、医師は科に関係なく全員で分担して受け持たれている状況…。父の担当医は内科、母の担当医は産婦人科医だった。(意外に感じたのだが、コロナは本来、外科の担当だそうだ。)

ものすごく疲れた顔で、けれどテキパキ働かれていた医師、看護師、医療スタッフのみなさんには、今でも本当に心から感謝している。

そんな社会情勢の最中で、私が病院で話されたのはこんな内容だった。

「うちの病院に集中治療室はありますが、24時間付きっ切りで診られる人手がありません。ですから万一お父様が急変しても、人工呼吸器やエクモ(人工肺)を装着する治療はできません。他の病院への転院も、今は若い方が優先されるため、65歳以上の方は不可能です。その同意書にサインを」

そんなことが起こっているとメディアでは知っていたが、家族の立場で聞くと衝撃だった。命の選択というものに、初めて直面した気がした。

65歳って、なんやねん。ほんで、なんで入院する前にそれ教えへんねん。

モヤっとした怒りが湧いてきたものの、医療崩壊の現状で他に選択肢はない。だから、「急変しても、人工呼吸器をつけたり心臓マッサージを行わないでください」と書かれた同意書にサインした。(LINEのテレビ電話でこの面談に参加していた兄姉の同意の下で)

私が父の死に同意した、と感じたと言ったらおおげさだろうか。

またこの時、「点滴の量を増やさないと衰弱死してしまうから」ということで、より心臓に近い、太い静脈にカテーテールを入れて点滴をしたい、という提案にも同意した。

父は認知症のため、点滴を刺す痛みや違和感で暴れて抜けしまい、点滴が抜けて大量出血したり、他の感染症にかかる危険もあるとのことだった。
だから躊躇したのだが、「このままでは弱っていくだけだろう」ときょうだいで相談して決めた。

この点滴は、案の定暴れる父を看護師さん達数人で押さえつけてくださり、なんとか成功したそうだ。

だが、その後も父の症状はこう着状態。
入院5日目からは、父は意識はあるものの目を開けないようになる。
母も微熱とだるさがずっと続き、時々38度台に熱が上がった。 

父の血中酸素量ががくんと下がった…と連絡があったのは入院9日目の午前4時。人工呼吸器までの効力はないが、酸素チューブを鼻から挿入された。

この時、姉は眠っていてつながらず、兄と、母のスマホのテレビ電話ではじめて父の顔を見ることができた。その顔は青白く、とても苦しそうだった。(隔離病棟のため、ここまで母とのやりとりは電話のみ。見かねた看護師さんが母のスマホにLINEをインストールしてくださったのだ)

私はそんな父を見て正直、「もう楽にしてあげてほしい」と思った。

管だらけで、食事もとれない。意識も朦朧としている。なのに苦しい。
そんな状態で生きながらえることを、あの父が望むはずがないからだ。

人の言うことなんか絶対聞かない。権威を嫌う。弱い人の見方ばかりして万年平教師。
そんな「半ケツ先生」が、今の状態を果たして望むのだろうか…。

そんなことをぐるぐる考える時間は、しかし短かった。

翌日から父の酸素量はどんどん減っていき、入院10日目の早朝、息を引きとったからだ。教育と喧嘩とお酒に明け暮れた、79歳の生涯だった。

遺体はまだ感染の危険性があるということで、その日のうちに火葬され、夕方にはお骨と対面した。丈夫そうな、とても太い骨だった。
息子がその中でも太いものを狙って拾ったため、骨壺からはみだしたくらいだ。

 
生きている父の顔を見たのは、あの亡くなる前日の、母のスマホを使ったビデオ通話が最後。

その時は苦しそうだったが、亡くなった直後もビデオ通話で顔を見せてもらい、その顔はどこがほっとしたような表情で。「苦しさから自由になれたんだな」と、こちらもなんだかほっとした。

ちなみに母は幸いにも介抱に向かい、父が亡くなった翌々日には退院。その後1ヵ月程度の自主隔離の後、今はすっかり元気に過ごしている。

これが、あの時私に起こったことのだいたいのことだ。今振り返って一の番心残りは、父には、管につながれたベッドでの最期以外に方法は無かったのか、ということ。

感染症だったので他に打つ手はなかったのかも知れないが、父が意思を伝えられたなら、そうまでしても延命したかったのか?それとも、早く楽になりたかったのか?

「もしも」の時の話を、元気なうちに聞いておけば良かったが、聞いたら怒られていたような気もする。結局、聞く前に認知症になってしまい、私達家族は「生きながらえる」ことを最優先にせざるをえなかったけれど。

先日、たまたま仕事でお話を聞いた在宅医療専門の医師によれば、「自宅でのおだやかな死」を選ぶことも、少しずつ可能な世の中になっていっているという。

管につながれても、生を永らえることを求めるのか。
延命治療はせず、慣れ親しんだ自宅で死ぬのか。

自分の最期を決めておくことは、「もしも」の時、家族への大切な道標となるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?