国体2021~其の壱~

残念ながら国民体育大会のことではない。

国の根本的な在り方のことである。

明治維新を契機に打ち立てられた「家族国家思想(発案者は旧水戸藩士の会沢安)」は、この2021年現在も未だに強く残存していると私は考える。

その思想を簡潔に述べると、すなわち、国家国民たちは無条件的に仲間関係にあり、国民同士は家族のように「自らすすんで唱和しなければならないのだ」というものである。

とはいえこの思想も、打ち立てられた明治の頃にはあまり国民たちに浸透することはなかったであろう。

そこで政府は天皇を国家の家父長に据えることによって、国民たちにその思想を押しつけたわけである。

しかし、敗戦を契機に昭和天皇が人間宣言をしたことによって天皇は徐々に「家父長」と見立てられることはなくなり、そして平成天皇が自ら退位したことで名実ともに「家父長」ではなくなった。

なぜなら、もし天皇が家族的な意味で父親に見立てられているとすれば、たとえその健康面に問題があるとしても「自らその地位を退く」ということが論理的に成立しえないからだ。

たとえば、ある家族の父が家族たちを集めて「俺、体調悪いから父ちゃん辞めるわ」というのは成立しないだろう。

要するに、日本的な家族観における家族同士のあるべき唱和とは、家庭内のある成員に何がしかの「否定性=病気・障害・性格異常・奇行など」が認められるとしても、その否定性を「否定的なもの」として他の成員たちが認識することを「抑圧」や「否認」あるいは「棄却」することで成立するものであるはずだ。いわば、唱和が成立している家族内の関係性および諸活動に「否定的なもの」は存在論的に一切成立しえないはずであり、一言でいえば「(お互いに)何も気にしなくていい」という関係こそが「家族のような関係」のはずだ。

だとすれば、天皇が健康面を理由に自ら退位したことは、天皇は自らの公務に否定的な影響が及ぶことを「気にしている」ということであり、これは「天皇と国民のあいだに否定性の存在が媒介されるようになった」ということを意味し、必然的に「(国民たちの)父親ではなくなった」という論理的帰結をもたらすはずだ。

とはいえ、天皇が「日本国民の統合の象徴」であることに変わりはない。但し「国民の統合=家族関係」というわけではない、ということである。しかし、繰り返すが、未だ多くの日本国民の国家観には「国民の統合=家族関係」という認識が潜在しているものと思われる。

その認識が如実に顕在化しているのが、ネット上での政治分野における多くの人々、特に日本の多数派たる保守層の人々の諸発言である。

まず、私が持つ日本の保守層の人々に対するイメージは、だいたい「いつも蓮舫に怒っている」というイメージだ。

たしかに、蓮舫氏の主張とは異なる意見を持つ者や、その主張に関わる利害や価値観とは対立する者からすれば、蓮舫氏は「否定的な存在=敵」といえるであろう。

但し、日本の保守層の人々は、蓮舫氏(敵)に対する否定の論理が不可解なのである。

まず、多くの人々が蓮舫氏に対して「お前は日本人じゃない!」「故郷(中国)に帰れ!」「スパイだ!」と怒号しているのを見受けるが、どう考えても蓮舫氏は「日本人」である。なぜなら、蓮舫氏は「日本国籍を有しているから」だ。

たしかに蓮舫氏の政治的な主張は他国を利するものなのかもしれないが、その主張をすること自体に何ら問題はない。なぜなら、蓮舫氏は選挙によって公正に選ばれているため、蓮舫氏の主張を支持する人々が一定数いることが前提される以上、たとえその主張が国民の多数派と利害や価値観を対立させるものであったとしても、それはある程度まで尊重されなければならないし、そして、その「程度」を決めるための事柄が国会での議論であるはずだからだ。

したがって、この論理に基づけば、蓮舫氏が自らの意見を主張することに対して「感情論的に否定することはおかしい」はずである。

が、現実での日本の保守層は感情を剥き出しにして怒り散らかす。なんなら「日本人はもっと怒んなきゃダメ!」ぐらいのことまで言ってたりする。

それはつまり、日本の保守層にとっては「民主主義は少数派の意見も尊重する」なんていうのは忌まわしき虚構であり、真実としては「少数派=多数派と利害や価値観を共有しない者」が存在すること自体が気に食わないのである。

この、日本の保守層の少数派の人々に対する「侮蔑」と「憎悪」の感情が、家族国家思想=国体からもたらされていることは実に見易い道理であろう。つまり、家族が「自らすすんで唱和する」ように、日本の少数派には「自らすすんで多数派の利害関心や価値観に合わせる」という自発性・自主性が、権威者(絶対的虚構としての多数派=世間)から倫理的に強制されている(=同調圧力)のである。(すなわち、家族国家思想が現実の場面においてある主体の内面に働きかける際には、その思想は『世間』『みんな』といった言葉になって想起される、ということ。これは、客観的な意味での『国体』は、主観的には『世間体』であるといえるだろう)

では、先の国体が未だ日本国民の国家観のなかに残存していることを記述したところで今回は終了とし、次回、その国体の変遷とグローバル化について記述する。以上。





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