結局、一冊目の感動を超えることがない件
先日、担当した本の見本が届いた。
1400p超えという分量のものだったので、外出から戻った私の机の上に置かれた見本の山は相当なもので、机がほぼ埋まってしまった。
周囲の人間は、「大変な本をつくっているって聞いたけど、どれどれすごいものができたものだ」
という反応をしているんだけれど、私個人としてはあまり感慨深くはない。
むしろ、何か失敗しているんじゃないか、どこかでミスがあるんじゃないかという不安の方が大きい。
「本をつくるときで一番達成感があるのはいつですか?」
昔、そんなことを聞かれたことがある。
確か、学生さんから聞かれたと記憶している。
聞いた側からすれば、苦労してつくったものが完成するのは達成感がある、ということを言わせたかったのかもしれない。
確かにそれはある。
ただ、それを考えると「初めてつくった本が一番感動した」となってしまう。
私が初めて執筆し、編集したのは学生の時だ。
大学でいわゆる「ミニコミサークル」に所属していた私は、そこで通う大学生向けの雑誌をつくっていたのだが、苦労したこともあるし、メンバーがデザイン・組版までして完成データを印刷に渡すこともあって、できたときはそれはもう感動した。
結束と呼ばれる、ある程度まとまった部数単位で紙に包まれて届く雑誌の束はそれはもう愛しくて、喜び勇んで、販売先や自分たちの物置に台車で運んだのは今でも記憶に残っている。
それがあるから書籍や雑誌をつくるのはやめられない、というのは確かにある。
余談だが、中学・高校の時にも雑誌はつくっているのだけれども、委員会でつくるという事情だったのと、当時は割付用紙と呼ばれるレイアウトをつくる際の下地になる紙を書いて、ワード(か何か)の原稿を出版者の人に渡したら雑誌になったという、やや特殊な工程だったので、感動というよりもむしろ驚きの方が大きかった。
それは本人の思い入れの問題なのか
とはいえ、感動の度合いでいえば、大学時代につくった雑誌が一番だ。
社会人になり、前に所属していた会社でつくっていたのは、いわゆる教科書と呼ばれるものだからというのもあるかもしれない。
やや話が脱線するが、検定教科書は、校了して印刷してそれでおしまい、というものではない。校了して最初にできるのは白表紙本と呼ばれる、表紙が白いもので、これを説明し始めると長くなるので端的に言うと、検定のために使用するもので、これを生徒が使うわけではない。
そこから採択用の見本を経て、実際に生徒が使う教科書が出来上がるのは、最初の白表紙本が校了してから2年近く経っているので、どのタイミングが「できた!」と言えるのかが曖昧、というのもあって、いずれも思い出深いものではあるものの、感動したかといわれればそうではなかった。
そうすると、本人の気持ちの入れよう、あるいは苦労の度合いなのだろうか。
本人の熱意はそれを伝えようと、伝えなかろうとその本を読めばわかる、むしろ熱意がないと伝わらないという話を以前聞いたことがある。
果たしてそうなのだろうか。
「熱意」というのが最近わからない。もちろんやる気がないわけでもないし、いい加減につくっているわけでもないし、売れないだろうと諦めているわけでもない。
苦節何年、だとか、これこれこういう苦労をして、こういう挫折を乗り越えて、こんな困難を乗り越えた、的なストーリーが安易すぎる気がしている。
そんな安直な、流行り言葉で言えば「エナジードリンク」的なものに何の意味があるのだろう。
いや、意味はあるんだと思うが、それは受け取る側がそうであればよいのであって、それをそのままエナジードリンク的につくる、売るというのはどうかと思う。
もちろん本気でつくるし、そこに情熱はかけるべきなのだが、どこかで一歩俯瞰して見る、落ち着いてふりかえる、そういう瞬間も必要なんじゃないか。
そう思うのだ。
完成すれば苦しんだ分だけ嬉しいが、売れたらもっと嬉しい
そんなわけで、現状では「1冊目の感動を超えていない」のだ。
もしかしたら、それは自分が執筆した本であれば変わるのかもしれないし、1冊目以上に自分が苦労すれば変わるのかもしれない。
そして悲しいかな、年が経つと経験も増え、そもそも感動するという感度が鈍ってくるのかもしれない。
ただ、最初の「いつ達成感があるのか?」という問いに戻ると、完成したから嬉しい、というよりは、むしろそれが売れればもっと嬉しい、ということなのだろう。
そんなわけで、長い長い話の結論を言うならば、「そういう本を今年はつくりたい」ということに尽きるのだ。
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