見出し画像

終の棲家デザイナ 太田健司の日常1

先ほどまで一つの大きな塊だったアンコールの声が徐々に小さく、あちらこちらの塊となり、その隙間に客のざわめきが広がる。光の海だったペンライトも海原の夜光虫のように儚げになっていく。寂しくもあり、充実した瞬間でもある。

まったくなぁ、あのせんせに頼んで、これができたときは、「子どもだましだ」と鼻で笑ってたんだが、いまこうなってみると、なんかこう、しみじみくるねェ。痛み止めにも勝るとも劣らない効果がある。せんせ、ありがとよ。最高だ、俺の人生。
 だけどよ、もうアンコールには応えられないんだ、みんな。ごめん。

アイドル綾部真は、ベッドに横になり、目の前のホールの客席を埋める、うねっていたペンライトの海に闇がひろがり、都会の夜空のようになっていくのを見ながらその日の眠りについた。
        *
 綾部真さん(あやべ・しん=歌手)が、23日夜、亡くなりました。昭和
 平成を駆け抜けたアイドル歌手の綾部真さんは昭和35(1960)年生まれ、
 79歳。今春にすい臓がんを公表し、闘病中でした。綾部さんは昭和52年
 に17歳で「ポップにメランコリー」でデビュー。その年の新人賞を獲得。
 抜群のルックスと気さくな人柄で“お隣のハンサムボーイ”として絶大
 な人気を誇りました。晩年まで、時代の音楽シーンに乗った楽曲にチャ
 レンジし、「死ぬまでアイドル!」をキャッチフレーズにコンサート活
 動を精力的に続けていました。昨年末のNHK紅白歌合戦への出場が最
 後の仕事なりました。
       * 
厩で生まれたというキリストの終の棲家は十字架だといったら信者に怒られるだろう。ブッダが、入滅したときに見た景色は、涅槃図絵に描かれるようなものだったのか。ムハンマドは……。
 人はなぜ終の棲家に幻想を抱くのかといえば、生まれる場所は選べなくとも、死の場所は選べるのではないかという、幻想を持てるからだろう。現代社会において、選ぶという行為には、すべからく、金銭がついてまわる。消費できる金銭の多寡で、幻想の内容もずいぶんと変わるのであるが。
       *
「山田ご夫妻、本日は、ようこそおいでくださいました。わたくし、鵠楽舎代表、太田健司と申します。
 お電話では、なんですか、おかあさまの終の棲家を考えておられるとか。今日は、具体的なお話を伺えればと思っております。
 さ、どうぞこちらへ。
 壁のこの画像でございますか。これまで弊社でてがけたものです。
 打ち合わせ資料をご用意するまでの時間、もし興味を惹かれるものがありましたら、画面にタッチしてください。それぞれ24時間の景色がご覧いただけます」
       *
わたしの仕事は建築デザイナである。子どものころからの夢をかなえ学校を出て、一時期は大手の建設会社に勤務していた。その後は、「せんせー」と呼ばれる人のもとで修行をしたこともある。
 いまは自分の会社を立ち上げ代表を名乗っているが、社員はほかに事務の山本さんだけだ。建築デザイナだから、頼まれればなんでも作るが、わたしの場合、主に取り扱う建築物が変わっている。
 業界のパーティなどで名刺交換をするとたいがいはきょとんとされ、最後は気味悪がられる。
 名刺の表は「鵠楽舎 代表 太田健司」と住所や連絡先のごく一般的なものだが、裏を返すと「ホスピス」「緩和ケア病棟」「終の棲家」「墓地墓苑」「その他」と書いてある。
 早飲み込みの皮肉屋がグラス片手に「なにかい、このその他には棺桶デザインもあったりするのかね」などと、小馬鹿にしつつ混ぜっ返したつもりが「はい。ご覧になります?」と私がスマホを取り出し、これまでてがけた作品を見せると「自分にはまだ早い」「その時が来たら頼む」などとごまかしつつ、逃げていくことになる。
 別に好んで専門にしているわけではないのだが、日本の建築は、オフィスでも一生の買い物といわれる個人住宅でも、そこで暮らす人間が加齢するという要素を無視されていることが多い。
 バリアフリー、ユニバーサルデザインと言われるが、街づくりや公共施設はともかく、個人住宅では金持ちの道楽の範疇だ。
 それでいて、ゼネコンはシルバーエイジマンションなどを売りだす。高齢者向けのマンションがあるならば、小学三年生向けの住宅や、女子高生向けもあってよ良いわけだが、それはない。
 売れないからだ。
 バリアフリーもユニバーサルデザインも、民間に任せていると、売れなければ、普及しないのが、この国の現状である。建築基準法で定めればいいと思うのだが、法律を作る人間も若いし、業界はコストが上がる、売れなくなると尻込みする。もちろん、先々、バリアフリー改修で儲けることに違いはないのだが。
 というわけで、わたしは、個人住宅を作る際も、加齢を含んだ設計をする。加齢は高齢化だけではなく、子どもが生まれその子どもが立ち歩き、引きこもったり、順調に家から出ていくといった物語を想像して作るようになった。
 あくまでも、そうなったときはこうすればよいですという簡単な対応ができる造りだから、建設資金が積み増されることもない。もちろん減りもしないが。
 ただ、依頼主が高齢者であれば、減薬ならぬ減設備することで、建設費用が減ることは多い。その分、老後の貯えが残るのだから感謝される。
       *
「こちらですか。このかたは交響楽団員でいらっしゃいましてね、最期は、コンサートホールで過ごしたいとおっしゃったんですよ」
 今日の客が壁の施工例を物珍しそうに眺めている。ホスピスや終の棲家の施工例というと、なぜか、グレーや白の色調の、仏壇や墓をイメージする人が多いようだ。わたしが手がけたものは、本人の希望を聞き入れたにすぎないが、色彩にあふれている。
「さすがにコンサートホールを新しく建てるわけにはいきませんから、ご自宅のお部屋をすこし改造いたしました。詳しくお聞きになりたいのでかすか。ええ、かまいませんよ。それならば、このかたがお元気なころに演奏された音源をBGMに、お話いたしましょう」
      *
男は長らく大都市の交響楽団に属していた。若いころは国内外のコンテストで入賞もし、海外の交響楽団でも演奏活動をしていたという。
 初めて男が事務所に登場したときは、この事務所の伝説の一つである。
 設計事務所に楽器ケースを手にした男が入ってきた。後ろにはつれあいであろう女がしたがっている。受付カウンタに置いたケースから楽器を取り出すと、男は設計事務所内をきょろきょろと見渡し、理由はよくわからないが、事務所入り口近くのコーヒーメーカーの前に立ち、いきなり演奏を始めた。
 バイオリンだということはわかったが、こんなに大きな音がするとは思わず度肝を抜かれ唖然呆然としたが、やがて音が体に染み、響き、もう少し聞いていたいと思い始めたとき、唐突に演奏は終わった。男はさっと一礼すると、楽器を丁寧にしまう肩が上下している。
 短い演奏でも体力を使うものなのだなと感心していると、「本日の11時にお約束をいたしました、幡上幸多です」。
「ようこそいらっしゃいました。いやぁ、驚きました。バイオリンとはたいへん迫力のある音なんですね。まだ、体のどこかで音が鳴っているような気がします」
 振りかえると事務の山本さんが両手をねじり合わせている。そういえば山本さんはクラッシックフアンだった。彼女のためにもこの打ち合わせは成功させないと、山本さんは辞めると言いだしかねない。ご機嫌をとるために、あとで幡上さんが飲んだ湯呑にサインをしてもらうことにしよう。
「ところで、幡上様は、当社をどこで?」
「3か月前、友人が亡くなりました。友人は、千葉県房浦ホスピスにおりました。見舞いに行くというと、冥土の土産だ、ほかのみんなにも何曲か聞かせてくれよと言われ、ミニコンサートを開いたんです。そのとき彼が、来て驚くなよ、俺の終の棲家は海の家なんだぞ、というじゃありませんか。まさか掘っ立て小屋に葦簀トタン屋根ではあるまいな、と混ぜっ返したんですが、出かけてみれば、なんの冗談かと思いましたよ。ホスピスなのに、海の家だなんて。もちろんよくみればみせかけなのはわかりましたが、ここが終の棲家なのか、と。友人も酔狂にもほどがあると思いました。ミニコンサートを開いたホールは海を背景にした円形劇場で素晴らしいものでしたが、病室というのでしょうか、その落差が、笑ってしまうほどでした。友人にそのことを言うと、幡上、おまえそのガラスの前の上がり座敷に寝てみろ、というのです」
 わたしにはその光景が目に浮かぶ。海の家は、正確には海の家を仮設したホスピスは、わたしがデザインしたものだ。
「ガラスの外には、掘っ立て柱に葦簀張りの壁、トタン屋根の空間が作ってあり、その先に明るい砂浜とキラキラ光る海があります。ガラスのこちら側、病室内には外からつながるように上がり座敷が設えてりました。友人に言われるように座敷に横になると、ひと泳ぎして疲れた体を座敷に横たえ外を眺めているように感じ、ふうっと景色にはいりこむ感覚にとらわれたときでした。かすかな波音が耳に届いたのです。友人のベッドサイドにいたときには気づかなかった音です。振り向くと友人がニヤニヤして、おまえさんなら気づくと思ったよ、と言うのです。外の音を拾って、スピーカーで流せるのだと、自分が作ったように自慢するんです。そのあとは、日が落ちて世界の色が変わり、音が変化するのを二人で飽かずに眺めていました。そのとき、あなたのことを知りました」
「そうですか。高橋樹生さんが、亡くなりましたか。喜んでくれたのかな、あの場所」
       *
高橋さんは海原、海辺をテーマに描く画家で、余命宣告を受けて、わたしが設計させていただいた房浦ホスピスで暮らしていた。当初は、目の前の浜辺に出て絵筆を持てるぐらいの体調だったが、院長に呼ばれてわたしが訪ねたときは、病室から出るのがむずかしくなっていた。
 海の家は、海が見える個室病室に、院長から「入院者の切なる希望で」といわれて作った舞台装置みたいなものだ。
 当時のわたしは海の家の設計をしたことがなかった。海辺に立地する病院のこと、病院スタッフに一人ぐらいは海の家の関係者がいるだろうと事務長さんにお願いしに行った。
 話を聞いて事務長が「さぁて、と、いうわけなんだが」と言いつつ振り向くと、事務所の中で3人が手をあげていた。なかで、夏は病院を一時休職して、海の家を手伝うといういちばん年若の海野さんにおとうさんへの口聞きをお願いした。川野さんはその場でスマホで連絡し、「今、来ます!」
 10分も待たずに、男が事務所に入ってきた。
「あ、じむちょ! いつも娘が世話になって。これ、そこいらの干物とか、足元の野菜引っこ抜いてきたもんだけど」
 野菜や魚の尾びれをのぞかせた籠を事務長に押しつけると「で、海の家を作るって、なんかイベントでもやるのか」と娘にむかってどなる。
「イベントじゃなくて、作るのはこっちのせんせ。せんせ、父の勝夫です」と根岸さんに紹介を受けて、わたしが事情を説明をすると、最初はきょとんとしていた勝夫さんは、娘が勤めるホスピスの役割を今日初めて知ったようで、「そんな大事なことに使うもん俺には作れねぇ、大工じゃないんだから」とためらった。「教えてくださればいいんです」と引き留め、一緒に高橋さんの病室を訪ねた。
「海の家の建て方のご指導をいただこうとおもっている、こちら、海野勝夫さんです」
 高橋さんは「サザエさんみたいだねェ」と、笑いながら話を始めた。
 聞くうちに、根岸さんは「あんたも酔狂な病人だねぇ」と態度を変え、何度も病室からの眺めを確認し、腕を広げたり、歩幅で寸法を計り、最後は「まかせな。あぁ、ここは極楽だって言わせてやっから」とあっけらかんと言い放って出て行った。顔を真っ赤にした娘さんが「ごめんなさい」と頭を下げ、「こら! 馬鹿おやじ! 待て!」と部屋を飛びだしていく。
「せんせ、どうやら仕事取られたみたいですよ」と、高橋さんは笑った。
 実際、室内外の連続性のデザインとか、ベッドに横になっている時間が多い高橋さんの視線に合わせるといった微調整以外は根岸さんが全部差配した。話を聞いた海の家仲間も見に来て、あーでもないこーでもないと真剣に話をして、あちこちから小道具をかき集めては配置している姿を、わたしと高橋さんは苦笑いしつつ眺めていたものだ。
 あるときなど病院長が「風で飛ばされてガラスを割ったりするなよ」と声をかけると「ひと夏に台風の一つや二つ来てもびくともしないんだよ。病院が倒れてもこいつは建ってるぜ。そんときはここがインチョーセンセ診察室だ」と言い放ち、院長を苦笑いさせた。
 お披露目の日、病室に集まった根岸さんとお仲間は「なーんか、たりねぇな」と、施主の高橋さんそっちのけで首をひねっている。
 しばらくすると一人が「わかったぁ!」と大声をあげて、「おい、ここは病院だぞ、シーっ!」とやられて首をすくめる。
「波の音と砂が焼ける匂いだよ、たりねぇのは」
「なるほどぉ」と一同が唱和したところで、匂いはさておき、海の音を拾うマイクを設置した。波打ち際まで病院の敷地が続いていて助かった。病室に波の音が流れ、みんなが「おぉー! いいじゃないかっ! こうでなくっちゃ」と拍手喝采となったところで、施主高橋さんの音頭で乾杯をして海の家開きとなった。
       *
「高橋は喜んでいたと思いますよ。だって、あそこに掛かっている絵は、海の家の絵でしょ」
 高橋さんの海の家完成後、病院から届いたものだ。海の家の窓から見える浜辺に親子三人がパラソルが作る日陰の下で体を寄せて座っている。
「コンサートからしばらくして、病院から危篤だと言われ駆けつけたとき、声かけに返事がなかったのですが、閉まっていたカーテンを開け、医者に許可をもらって、海が見えるように高橋を横向きに寝かし、外の音を拾うスピーカーをオンにして、ボリュームもめいっぱい上げ、部屋に波打ち際の音が満ちると、ふわっと目を開けましてね。ふっと笑って、ありがとうと言っておりましたから、海の家の出来栄えには満足していたにちがいありません」
「ありがとうございます」
「まさかあの時は、自分がこの事務所を訪れるとは思わなかったのですが、なんのことはない、余命告知を受ける事態となってしまったわけです」
 そばで静かに話を聞いていたつれあいが「あなた、大丈夫」と声をかける。
 幡上さんは小さくうなづくと「呼吸器系の病、息が余り続かないのです」と言う。
「ですからさきほどもさわりしかお聞かせできなくて。もう、舞台に立つことはできません。フルバージョンをお聞かせできなくて申しわけない」
「とんでもない、わたしはそっちのほうは、とんと不調法ですから、お聞かせねがっても馬の耳に念仏です」
 ちょうどお茶を出しに来た山本さんが幡上氏の告白を聞き、湯呑を置く手が茶がこぼれるのではないかと思うほど震えている。
「医者からは先々ホスピスも考えるようにと言われておりまして、それで思いだしたのが、高橋の最期とあなたです」
 いつものことだが、この瞬間のわたしの気持ちはかなり微妙である。普通の個人住宅や大型施設であれば、ご指名はデザイナ冥利に尽きるのだが、ホスピスや終の棲家は「死」のデザインでもあるから、ありがとうございますというのも変だし、いつも返答に困る。最近ではようやく慣れて「で、ご希望は?」とスラっと言えるようになった。良いか悪いかわからないが。
「幡上様のご希望は」
「コンサートホールです。ただ、わたくしは自宅で最期を迎えたいと思っております。在宅のホスピス医も見つけました」
「そうですか」
 医者から受けた残り時間のことを聞き、ざっと工期に使える時間をはじきだす。この日も含め何回も話を聞き、ご自宅にコンサートホールを、もとい、コンサートホールに自宅を作った。
       * 
「舞台で聞く音の響き、指揮台の指揮者とのアイコンタクトの角度、ほかの楽団員の見え方、ワックスの匂い、指揮者の足音の響き、客席のざわめきなど、ヴァーチャルリアリティも駆使してつくりました。亡くなるまで、ライブ音源を流してお過ごしになったようです。また、気になるコンサートがあると、信頼する演奏者にライブカメラをつけていただいて臨場したり、最後まで演奏活動を楽しまれたと伺っています。おもしろかったのは、眠りにつく前の画像が、尊敬する指揮者が演奏をしめるときのしぐさでした。指名された指揮者の方も快く引き受けてくださいましたし、しぐさだけではもったいないと、かつての仲間の団員を招集し、幡上さまが一番お好きだったという楽曲をお気に入りのホールで演奏しつつ、しめのしぐさを見せてくださいました。お亡くなりになったあとおつれあいからおうかがいしたのですが、最後の言葉は、あぁマエストロがお呼びだ、だったそうです。お茶を入れ替えましょうかね、山本さん、お茶をお願いします」
       *
わたしは机の向こうで、壁面の画像を熱心にみる客を眺める。急いではいけない。幡上さんのように覚悟を決め、ここに来る前に決心している人間のほうが少ない。たいがいは、終の棲家といえども死と切り離して考えたいのが人間である。
 ほとんどの施主候補は次の物語を所望する。そして、ほぼ百パーセントの確率で、自分のことを話さずに時間切れで帰るのだ。それを二度三度と繰り返して、ようやく、具体的な話となる。
「え? あぁ、それはお恥ずかしいのですが、わたしの卒業制作です。作品名ですか、ご覧のとおりの棺桶でして、タイトルは[感棺]といいます。賞をいただいたりもしたんですが、ものがものだけに、世間に知れることもなく、受賞を聞いた両親も喜んでいいものやら悩んでいました。ですから、ご近所に、大声で言いふらすようなものでもないので、こちらからも広まることは全くございませんでした」
 しかし、受賞の効力もあってか、大手設計事務所に入り、普通の家や普通のビルを作っていたが、独立して最初の仕事が、その事務所長の棺桶だった。生前に指名されたので、否とは言えなかった。
「いいですとも、自慢話にならない程度にお話しいたしましょうか」
       *
終の棲家の設計デザインだけではとうてい商売にならない。かといって、ホスピスなどの注文も毎年あるわけではない。とういわけで、ごくふつうの住宅などの設計で稼いでいるので、終の棲家相談は曜日限定時間制限付きである。相談は無料だが、漫談を聞かせて、仕事にならないのでは、顎が干上がる。嫌いではないので、一人で事務所をやっていたときは、ほんとうに干上がりかけたが、いまは、山本さんが自分の給料、賞与分の稼ぎは確保できるように塩梅してくれているようだ。
 山本さんに言わせると、この相談会には一つのジンクスがあって、棺桶の話に乗ってきた客は、商談成立の確率が高いらしい。それがわかってからというもの、山本さんの助言で話し方や相手から言い出さなければ、こちらから棺に導くタイミングも考え抜いている。熟練の詐欺と言えなくもないが、何回も漫談を聞かせて、契約に至らなければ、時間の無駄だから、その見切りをつける伝家の宝刀でもある。
 今日は、早くも契約成立に持っていけるかもしれないとニヤニヤしてしまう。
「感棺とは、若気の至りの頭でっかちなネーミングでして、今考えると恥ずかしい限りです。サブタイトルに“死者に良し送ってよし焼いて良し”とつけたのも一部ではひんしゅくを買ったようです。当時の脱炭素や持続可能性社会の時流に乗って賞をもらっただけです。わたしが審査していたら絶対に受賞させませんよ」
 間伐材で躯体を作り、金属製の釘は用いず、焼いても有毒ガスが出ない剤で接着している。内外装ともにリサイクルの布を用いている。また、ドライアイスの使用量を減らすために保冷効果も高めている。棺への安置も充填材が少しでも減るように工夫している。死者の顔色が少しでもよく見えるような内装にしているし、顔を見る蓋の窓も気のせいか血色良く見えるようにうっすらと色が入っている。棺の底には、霊柩車へ運び込む際の指がかりも作ってあり、少人数の送葬でも安心して送ることができる。
「いかがですか、もしお嫌でなければ、お試しになませんか」
「試すって、棺桶を、ですか」
 ここが肝心だ。こっちがさらに一押しする前に、縁起でもないとか、まだ早いとか逃げ腰なら、この商談に未来はない。でも、もし面白がって乗ってくれば、商談成立の確率がぐんと上がる。
 今日の客は悩んでいる。すると妻のほうが「あなた入ってみれば。あたしも見送る覚悟ができるし」「おい、おまえ俺が先に死ぬって決めてかかるなよ」「何言っての、そんなの決まっているじゃない。健診のたびにあっちもこっちも異常だらけなんだから。それに、生前葬をやると長生きするっていうじゃない」
 そんな都市伝説あったかなぁ、とおもい巡らせていると、夫が「それじゃお世話になってみるか」といいだした。
 山本さんがすかさず棺の置いてある部屋に案内する。奥様にはそのまま待っていただく。
 部屋にあるいくつかの見本から本人はチーク調の重厚な外装、薄いパールピンクの内装の棺を選んだ。寝ていただいて、一度蓋を閉める。ここであまり長く時間をとると、パニックになる方もいるので、すぐに窓を開ける。それでも、ほとんどの客は引きつった笑い顔をだすことになる。
「奥様、どうぞこちらへ」
 妻は手で口元を抑えながら、棺桶に近寄り、こわごわ窓をのぞき込む。夫はしおらしく目を瞑っている。
 妻が「お似合いよ」などとあらぬことを口走る前に、夫に声をかける。
「どうでしょうか寝心地は」
「いやぁ、あったかいですね。ふかふかで優しく包まれている感じがあって安心感もある。いや、素晴らしい」
「天空の棺ってご存じではないですか」
「山の上のある、予約が取れないほど有名なあれ?」
 妻がすかさず答える。
「ほら、あなたと紅葉を見に行ったときに、簡易版のほうにも長蛇の列があって」
「あぁ、あれか」
「あの棺、当社でデザインしています。せっかくですからもうすこしそのままで」
 小さなプラネタリウムをオンにした。窓がない部屋は、電気を落とすと真っ暗になる。部屋に星が満ちる。
「いかがです」
「いやぁ、最高ですね。これで、酒でも飲めたら、死んでもよい」
 お決まりの冗談が出たところで、部屋を明るくして、出棺していただく。いろいろ縁起を担がれる方もいるので、本人の目の前で、盛り塩を作り、ドアの両側に置き、そこを通ってお見送りとなる。
「本日は長い時間ありがとうございました。せっかくおいでいただきましたのに、わたくしの漫談だけで終わってしまい、肝心のお話ができませんでしたことお詫び申し上げます」
「いやいや、こちらこそ、貴重な体験と鼻奥がツンと来るようなお話を伺うことができました。ありがとうございます」
「そういっていただけますと多少気が楽になります。懲りずに、またのお越しを心よりお待ちしております。ありがとうございました」
 わたしが頭を下げている横で、山本さんは小さくガッツポーズしている。彼女の勘は契約成立とささやいているのだろう。
 見送った客はドアの前に立つ社名板を眺めて、振り返る。
「あのー、ところでこの社名の由来は?」
 
[鵠楽舎]という社名の下に、2羽の白鳥がステップを踏むように片脚をあげ、脚を翼を広げて向き合い、そのつばさの下で子白鳥が楽し気に踊り、眠り、餌をついばみ、羽ばたく様子を描いたイラストがある。イラストの下に[carpe diem 今を楽しめ]と書いてある。

「終の棲家とかホスピスとか、すべて死を想うことです。メメントモリは大切ですが、それを現実に突きつけられたら、つらい、痛い、悲しいとネガティブなことばかりになるのが人間です。
 死は生きていることのうちです。生きているからのことです。ですから、できればなにかすこしでも楽しみましょう、そのお手伝いを一緒にさせていただきますという願いをこめてです。もちろん、それは後付の題目でして、最初はただの、ここはごくらくじゃ、の駄洒落です」
 頭の上に疑問符を並べた客にわたしは「またのお越しをお待ちしております」と頭を下げ送りだした。(つづく?)[ぶんろく 2021.12.24.]


#終の棲家 #天空の棺 #峠のデイサービス #メメントモリ




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?