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本日の「読了」──りくつとへりくつの仁義なき戦い?

中澤英彦『ニューエクスプレス ウクライナ語(CD付)』(白水社 2019)
望月昭秀(縄文ZINE)編『土偶を読むを読む』(文学通信 2023)

前者はほんの気の迷いで手にしてみたが、学生時代、ロシア語に手を出してしくじったことを思い出したW。
戦争が終わったら、片付けのボランティアにでも行こうかしらんと言う、不届きな考えでした。ごめんなさい。
とにかく侵略者リーダーは、一刻も早く戦争を止め、人命を救ってください。ヘリクツで人の命を奪ってよいわけがない。

後者はその「界隈」では話題になっているのかな?
「読了」にも書いた(2021年7月14)、『土偶を読む』(竹倉史人 晶文社 2021)に対する反論・反証の書。
 編者は上梓前からSNSで、『土偶を読む』を未読でも大丈夫と謳っていた通りの内容ですが、『土偶を読む』とは違って、万人受けはしないかと(悪い意味ではない)。あくまでも、すでに土偶や縄文時代に興味や関心がある人限定。もしくは、『土偶を読む』を読んでちっとも知的コーフンを感じなかったかった人用かなW


 おっさんは、どちらに知的AHA! を感じたかと言えば、『土偶を読む』です。
 だから、noteで「知的なAHA! 体験」(2021年7月14)と題して「考古学ファンでなくても楽しめ、世界が変わるやばい本だ。」と書いたおっさんは、本書でその知的興奮が「へりくつ」によるものだったと、これでもかと示されると、ちょっとへこたれます。言い訳がましいことを言えば、“世界が変わる”というのは、学問世界のことではなく、自分自身の世界観であり、新たな視座を手に入れるという意味。好奇心によるいわゆる「まなび」は個人の知的活動で「新しい武器」を手に入れるということです。 まだいづれも未読の方は、別々のものとして読まれたほうが良いかと。『土偶を読む』はエンターテイメントとして、本書は日本の土偶研究の現在地を知るために。

本書のなかで面白く読んだのは、最後の三章「考古学・人類学の関係史と『土偶を読む』(吉田泰幸)、「検証:ハート形土偶サトイモ説」(望月昭秀)、「知の『鑑定人』」(菅豊)でした。
 ドキドキワクワクするわけではありませんが、この辺りを読めば、ヘリクツのヘリクツたるゆえんや(ただ、であるがゆえに、“検証”では、学びの過程で専門知をいったん離れて新たなツールや自由な発想を手に入れることの楽しさを図らずも証明しているのですが)、実はヘリクツの書が「学界」に対する私憤や「政治」が隠れている(というか、それが実が本題だった?)とか、考古学界、研究者が黙殺した理由もよくわかりました。

青森県八戸市是川縄文館にて

おっさんは『土偶を読む』読後に、三内丸山と是川縄文館を、刊行前に尖石縄文考古館を訪ね、この本でも取り上げられている土偶を見ましたが、どちらにしても「あ、これが里芋か!?とか、あれはトチノミだったのか!?」などとは考えず、ただひたすら「なんだこりゃ!!」という驚きをもって対峙しました。その土偶をだれがどういう想いで作った(作らされた)にせよ、その技量に尊敬しかありません。
 それでも『土偶を読む』に“コーフン”したのは、土偶の不可思議な意匠の根源に、縄文人の身の回り、特に食べ物の形があるのではないかという、地母神だ、豊穣のビーナスだ、宇宙人だという“キャラ付け”よりも「説得性」を感じるものだからでした。
 本書では、学者の方もその点は認めているようなのですが、研究としては我田引水過ぎて、反論にも値しないと黙殺しているのが現状。だが、『土偶を読む』は版を重ねていますし、賞もとっているので、健全な青少年には有害図書ということで、学者ではありませんが編者が先陣をきったようです。縄文考古学がこの論争? を機に盛り上がるとよいと思います。

ま、本書でも述べられていますが、どちらを読むにせよ読まないにせよ、機会を捉えて、全国の土偶に会いに行き、静かに対峙し、土偶作者たちの創意と情熱と対話するのがいちばんです。

あ、博物館の方にお願い。縄文土偶や土器の展示の際、ぐるり周囲を巡ることができる展示もありますが、おおくは正面(顏があるほう)のみ。天から地からの、背面が分かるような展示手法(写真を並列展示など)工夫をしていただけると嬉しいな。

[2023.06.18. ぶんろく]

#縄文 #土偶を読むを読む #土偶

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