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曽祖父の会社~栄枯盛衰編①~ 田中氏が松工業にいた時のこと

今から書く話は、曽祖父のいた会社について今の私ができる限り調べたものを文章にした記録である。(名前に関してはフィクションである)
それに対するちょっとした私の気持ちを書いてみた。簡単な調べによって勝手な解釈もしているかもしれないが、一個人のつぶやきとして大目に見ていただけるとありがたい。相手方を思ってきれいに収めようと思ったけれど一向に筆が進まない。やはり…、私の思うことを正直に書いていきたい。

【登場人物】
松氏:曽祖父の義父
田中氏:3年間でやめてしまったが、のちに経営者となる。
鈴木氏:田中氏採用時の面接官。後に田中氏と共に新会社の設立に携わる。
山田電子工業・山口製作所:当時の取引先
加藤新社長:新社長。加藤というお名前
前田技術部長:加藤氏が連れてきた前田氏というお名前
*    *    *    *    *    *

私の曽祖父は除隊後(明治40年5月)、松氏と運命的な出会いをし、松工業に入社した。別に機会があれば当時の日記についてもふれてみたいが、曽祖父の日記には、松氏と運命的な出会いをしたことが明記されている。後に松氏の長女と結婚することになるので、いずれ松氏は曽祖父の義父となる。

S氏は清水焼窯元3代目。彼によって明治39年(1906年)創業された松陶器合資会社を設立する。この会社は高圧硝子(がいし)を日本で初めて製造した名門企業である。大正6年にS工業株式会社となる。元をたどると大正11年(1922年)、先祖代々同じ名前のS氏(読みは違う)により創立された松陶歯製造株式会社。歯科材料業界において屈指の老舗であった。

松氏によって創設された松工業。輸出用陶磁器や近代化された工場にて高電圧硝子(がいし)、化学磁器などの窯業製品を製作するために創業した。そこへ、現在の日本においても有数の経営者となられた田中氏が入社してくる。それが昭和30年(1955年)。九州の大学出身の彼は、当時就職難の中、教授の紹介で松工業へ入社する。のちの田中氏の著書の中にも、この教授を運命の師と仰いでいる。田中氏の大学での研究内容やそこから発展する内容にせよ、少しでも研究できる環境のある就職先を探されたのだと思う。

田中氏を採用する10年前の昭和20年の8月、戦争は無条件降伏で幕を閉じる。同年の12月に労働組合法が公布され今までの従業員の鬱憤が爆発し、社長は退陣し、曽祖父を新社長にと工場側全技術社員と労働組合員が一丸となって立ち上がってくれている。しかし残念ながら破れ、重役は退任、技術社員全員退社という結果となる。当時の松工業は、世界的な不況の波の影響もあり破綻寸前となっていた。その後再建途上のため大卒を募集し面接した3名の中に田中氏はいた。

今思うと、そんな時期に田中氏はよく入ってくれたなと私は思う。その時面接官をした鈴木氏(後に田中氏と共に松工業を去り京会社を立ち上げる)も、そう思ったそうだ。田中氏には特殊磁器(ニューセラミックス)の研究に携わってもらうため、研究科へ配属。

そこでの研究が非常にうまくいったと著書の中でも田中氏は話している。山田電子工業から依頼された、テレビのブラウン管に組み込む部品である。しかし、山口製作所から、依頼を受けたセラミック真空管を作るための重要部品が日本で田中氏しか作れないという事で依頼を受けたのに、難しいスペックでなかなか上手く開発ができなかった。その時衝突した技術部長とのやり取りが、田中氏が松工業を辞めてしまう引き金となってしまった。

全くこのことに関して祖父からも話を聞いておらず、一から調べた理由に、この引き金を引いてしまった技術部長が私の曽祖父だったらどうしようか…。という思い。分かるまでずっとハラハラして調べていたが、どうやら違っていて胸をなでおろした。
良かった、私の曽祖父ではなかった。と安堵と喜びの気持ちでいっぱいになっていると、
「当たり前だ、恥ずかしいことを軽々しく言うな」
との声が私の脳内に響く。多分言ったであろう。いや、確かに聞こえる。言っている。本当に無知で浅はかな考えのひ孫で申し訳ない。

田中氏と衝突した技術部長は、松工業の華々しい再出発ののろしを上げるためにスポンサーの1つである松田物産の紹介で呼ばれた加藤社長の元部下であった、前田氏だった。
実はこの外部から来た加藤社長と、そこにかかわる人々が、松工業の盛衰に深くかかわる。松工業に限らず、やはり雇われ社長やその部下は駄目だな…。と私はいつも思っている。会社の盛衰を他人事だととらえるかは、その人の資質によるものだし、時代背景やどうすることができない流れの中であらがえなかったことも要因の一つ。しかし、腹の奥底からでる魂の叫びのようなものは、雇われ社長と部下からは発せられるのだろうか。従業員やその家族の生活を守ることは、会社を引き受けた時には魂からも発する願いとなるかもしれないが、会社を守る部分においては弱い気がする。会社を守れなくても、従業員とその家族を生きていきやすく筋道を立ててあげることができたら、もしかしたら会社を潰してしまっても良いと思うかもしれない。逆境の中、心から会社を残したいとは思わないのではないかと思う。

I氏の著書にもあるように、魂から発したものでの判断が経営には大切と説いている。他にも判断基準になりそうな「本能」「感性」「知性」はどれも、経営の判断には向かない。
「本能」は損得が基準となり、「感性」は好き嫌いの好みが含まれてくる。「知性」は筋道を立て論理を積み重ねていて判断基準になりそうだが、やはり物事を決める力にはならず、これでも、正しい判断ができないという。「人間として正しいこと」を基準とした魂から発せられたものによって決断するのが良いと説いている。

やはり、雇われた彼らには、会社を守ろうとする意識は弱かったのではないか。会社を守ろうとするその意識よりも、前田技術部長は、田中氏よりも自分が優れているかどうかに意識が集中している。次から次へと硝子製造に関する設備や方法に対し改良案を出しては、加藤社長即決でどんどん実行に移し、今までの製造技術者は全員無視、無能者扱いをする。このような考えで再建できるはずがないと思うのだ。

そんな中、会社再建のためにK社長に反対意見を申し上げるには、なかなかハードルが高かったのではないか…。そしてその貴重な意見にも加藤社長は耳を傾けなかった。その事も記載されている。

その人はI氏と面接をして採用した鈴木氏である。再建のためには、不良品を出さない電気トンネル窯を新しく作ることが必要。これをたった3ヶ月でやってのけている。さあ、いよいよ再出発だというとき、新社長である加藤氏は在来の技術者を信用せず、新しい技師長を連れてきた。これでは再び駄目になってしまうと、反対意見を勇敢にも何度も社長に意見したのに、鈴木氏は戦力外の部署に配属になってしまい、後に田中氏と退職の一途をたどる。決して松工業を見捨てたわけではない、昭和34年に追われるようにして松工業を去ったことを、曽祖父への追悼の文章には明記してある。

また、数年後その時の真相を知るときがくる。その原因はつまらない告げ口によるものだった。加藤社長は真相を確かめず信じてしまったようだ。話せばわかるつまらないことだっただけに悔やまれると鈴木氏も言っている。やはり、衰退する運命だったのか…。

しかしそのような状況の中、本気で松工業を再建しようとしてくださる方がいてくれたことが本当にありがたかった。私としては、なぜ潰れてしまったのか、どうしても駄目だったのかが知りたかったし、実はこの記録にも出てくる取引先であった山田電子工業も、山口製作所も現在では大企業として残り、立派に成長している。それと対等に取引できていた、かつては唯一無二の存在であった松工業に限ってなぜ潰れてしまったのか、鈴木氏も無念だったと言ってくださると同時に、身内としても、どうしても抗えない流れがあったこと本当に残念でならないと思うのである。


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