あおぞらの憂い20
コウシと映画に行った次の日、ソラから(海に来てください)とだけメッセージが来ていた。私はソラの部活が終わる頃を想定して海へ行った。自転車で海へ行くとそこには制服をきたソラがいた。
「あれ。部活じゃなかったの?」そう聞くと
「休みました。」と答えた。
そしてソラは黙ってカバンをごそごそと漁ると茶色い財布を出した。私は嫌な予感がして鳥肌が止まらなかった。
「それは、コウの財布」
「今日の朝、僕が受け取ったんだ。そしてコウシさんはもうこの世にいない。」
私は涙が止まらなかった。コウシと抱き合った昨日の感触が今も鮮明に思い出される。そして何よりここはコウの世界なんだ。
「コウシさんが今日の朝、僕を呼んだんだ。この財布を、海に投げてほしいって。」
ソラはなぜか落ち着いていた。
「どういうこと?コウはどこにいるの?」
「僕も知らない。だけど今日、どこかで彼は死んだ。」
ソラから財布を受け取ると、中身を見た。二つ折りの使い込まれた財布の中には5万円と大学生の頃の学生証、それから映画の半券が2枚入っていた。彼が学んだ大学。苦しみながら必死で働いたお金。彼の楽しかった思い出。この財布はコウシの全てだ。涙が止まらなかった。
「海に投げようか。」
私とソラは浜へ降り、波がくるところまで歩いた。そして靴を履いたまま海へ入り、ソラも同じように足を進めた。だいたい半年くらい前だろうか。あの時の光景と似ている。コウシの顔を思い出す。綺麗な顔だったな。膝の上くらいまで海へ入ったところで、私は遠くへ財布を投げた。夕日が眩しかった。財布は光の中に消えていった。私はその場から動けなかった。するとソラが隣にやってきて手を握ってくれた。
「良かったですね。やっと願いがかなって。」
浜へ戻ると私はソラになぜ止めなかったのかと聞いた。
「僕は怖かった。マユさんがコウシさんに飲み込まれて一緒に死ぬんじゃないかって。それで彼に会って何度か話すうちに気付いたんだ。自殺を止める権利が僕はなかったってことに。彼はただ一人で静かに死にたかった。そして優しい人だった。僕はただ苦しめただけだ。」
「違うよ。コウは楽しかったって言ってた。もう一度生きることができて。だからこれで良かったんだよ。」
私はソラと落ちていく夕日を眺めた。空の青と夕日の赤がグラデーションになっていて絵のようだった。
「ソラ、ありがとう。まっすぐなソラがいつも心の支えだった。多分、これからもそうだよ。雲がない青い空を見たらきっとあなたを思い出す。」
ソラは笑った。
「じゃあ僕は、月を見たらマユさんを思い出していいかな。半分にかけているときは泣いているマユさん、満月の時は笑ってるマユさんを思い出すかも。面白そう。」
そう言って私の顔を覗き込んだ。
「そうやって女の子の顔、覗き込むのやめたほうがいいよ。ソラくんかっこいいんだからみんな好きになっちゃうよ。」
「そんなわけないよ。」
ソラは自分のことを知らなさすぎる。誰かソラのことをしっかりと見てくれる人と出会ってほしいなと思った。私たちはすっきりした気持ちで別れた。また今度ねと言ったが、その後ソラとは会っていない。
数日後、コウシが自宅で首を吊って死んでいたことを知った。私はクラゲみたいに海で見つからなくて良かったと思った。それから私はコウシが通った大学に入ると心に決めていた。財布に入っていた学生証を見たときに彼は芸大で油画を専攻していたことを知った。そしてそれは私の夢になった。次の年、私は無事コウシと同じ大学へ入学して一人暮らしを始めた。それからは学校でも家でもひたすら油画を描いた。水彩で描いていたころと違ってしっかりと色をつけることができる。ソラとコウシと過ごした日々が揺るぎないものになって私の意思になったからだと思う。
コウシが死んでから一年。ソラと会わなくなってから一年が経っていた。大学1年生。文化祭で歴代の卒業制作の優秀作品が展示されるということで友達と観に行った。10年分あるらしい。そしてちょうど7年前の作品の前で私は立ち止まり言葉を失った。大きなキャンバスに色々な色が複雑に混じり合っている。それはまるで美しい空と海に、誰かのパレットの絵の具が溢れてしまって、偶然生まれたように思えた。神崎孔子『あおぞらの憂い』。
彼の作品を汚いと思う人もいるかもしれない。だけど、どこかの誰かに気に入られて評価されたからここにある。彼は世界と繋がっていた。しかし彼は死んだ。彼は繋がりを切り離されたのではなく、自分から切り離した。彼が守りたかったものはなんだろう。生き物への愛か自然への愛か何かわからないが、それだけを抱きしめてどこかへ行った。もしかしたらこうして絵が評価されるのも嫌いだったのではないかと思った。
けれど彼は生きていた。私と同じ世界で。そして今もここで生きている。ソラだってどこかで生きている。同じ世界にいる限り、私たちは生きよう。私は彼の絵にそう誓った。
終わり
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