【映画】「人魚の眠る家」感想・レビュー・解説

以前テレビで見たことがあるが、「四つ葉のクローバー」を恐ろしいスピードで見つける女性が日本にいる。
見つけるのが非常に難しいとされている「四つ葉のクローバー」を、彼女はいとも簡単に見つける。それどころか、五つ葉や六つ葉と言った、さらに発見が難しいものまで、難なく見つけてしまうのだ。

彼女は、「四つ葉のクローバー」がある辺りだけ光って見える、というような発言をしている。そんなことが本当にあり得るのかは分からないが、しかし現に彼女は、常人では対抗できないレベルで「四つ葉のクローバー」を見つけることが出来るのだ。

さて、科学は彼女のことをどう判断するだろうか?

彼女の能力について研究することが、具体的なメリットに繋がると感じにくいだろうから、彼女は恐らく科学の研究対象にはなっていないだろう。しかし、「科学」という立場から彼女を研究することは可能だ。しかしその結果、「どうしてそうなっているのか分からない」という結論に至る可能性も十分にある。

その場合、彼女は「現在の科学では扱えない存在」として扱われることだろう。

この認識が、僕は大事だと僕は思っている。

科学は決して、科学で扱えないものを否定するわけではない。例えば、UFOやUMAなどを否定する科学者などがよく登場するが、テレビ的に過剰にやっている部分もあるだろうが、基本的には「UFOやUMAがいない」と否定しているわけではないと僕は思う。というか、そもそも「UFO」というのは、「未確認飛行物体」ということであって、「まだその存在が確認できていない」というのだから、何らかの形で正体が判明すれば「UFO」ではなくなる、という理屈になる。そういう意味で科学者たちは否定しているのだ、と僕は感じる。彼らも、UFOやUMAなどを「科学」の俎上で研究できるならするだろう。しかし現実には、「誰かが見たという証言」とか「曖昧な感じで写っている映像」とかそういうものしかないのだから、研究しようがない、というのが正直なところだろう。

科学という学問は、科学で扱えないことを否定するわけではなく、科学で扱えないことを「現在の科学では扱えない存在」として扱うだけだ、という認識を持つことは、とても大事なことだ。こういうスタンスがこれまで、科学を進歩させてきたと思うし、これからも様々な研究を生み出していくことだろう。

そういう意味で「脳死」という状態は、なかなか科学的に扱いにくい対象だと言えるだろう。何故なら、研究の対象にするハードルが高いからだ。


まず、この映画を見て初めて知ったが、日本では「脳死判定」というのは、「臓器移植」を前提としなければ行われないのだという。どういうことか。つまり、「脳死」だと思われる患者がいるとして、その患者が「脳死」であるかを「判定」してから「臓器移植」するかどうかを決める、というのは、日本の法律では許されない、ということだ。「脳死判定」という手続きを踏むということは、その結果「脳死」だと判定されれば、否応なしに「臓器移植」をしなければならないのだ、という(これは外国ではまた違うようで、日本だけの特殊な法律だという)。

ということは日本には、「脳死と判定されながら長期的に生存している人は一人もいない」ということになる。日本にいるのは、「恐らく脳死状態であろうと判断される人で長期的に生存している人」だけ、ということになる。

つまり研究者は、眼の前の患者が「脳死」である、ということを前提にした上で研究を行うことは出来ない、ということなのだ。

さらに、仮に法律的な問題がクリアされたとしても、「お金」や「家族の感情」の問題がある。「脳死」でありながら延命を続けるためには莫大なお金を必要とするだろうし、仮に法律の問題がクリアされて、「脳死」でありながら延命出来るようになったとしても、法律的には「死」と認定されているわけだから、亡くなった人に対する延命措置に対して健康保険などの制度が適用されるとは思えない。また、この映画の中でも描かれていたが、「自分の子どもの死を受け入れたくない」という感情や、あるいは「臓器移植などによって誰かの命を救える可能性を見過ごすべきではない」という感情など、様々な感情がせめぎ合うことになる。

そういう中で、「脳死」を科学の研究の俎上に載せることは非常に難しいだろう。

この映画では、その困難さを、特殊な設定を与えることでクリアしている。確かに実際、現在の日本でこの映画のようなことがやれるとすれば、この映画で設定したような条件を与えないとまず無理だろう。

だから「脳死」というのは、ある種の科学的な問題であるように思えても、実は科学の領域では「扱えない」ものなのだ。


だからこそ、法律が様々なことを決めるしかない。そしてこの映画では、「法律」が「人の死を決めること」の「究極の状況」を描き出すのだ。

東野圭吾、またすげぇこと考えたもんだよなぁ、と思いました。

内容に入ろうと思います。
播磨薫子は、「ハリマテック」という医療系の会社の二代目社長である和昌と結婚し、一男一女をもうけるも、離婚の危機に瀕している。そんなある日、娘の瑞穂と息子を、薫子の母親と姉がプールにつれていくことになった。薫子は別件でついていくことが出来なかったのだが、そこで不運な事故が起こる。排水口に指が挟まり、瑞穂が脳死であろうと思われる状態に陥ってしまったのだ。医師からの説明を受け、臓器移植のための手続きに入る薫子と和昌だったが、状況が変わり、薫子は瑞穂を生かし続けることに決めた。容態が安定し、自宅での介護を決意。薫子は生活のすべてを瑞穂に捧げ、意識のない娘を育て続けた。
和昌の会社には星野という研究員がおり、彼は障害を持つ患者の筋肉に電流を流し、自分の手足を使えるようにするANC(人工神経接続技術)について研究していた。その技術が娘の瑞穂に活用出来るのではないか、と考えた和昌は、星野を自宅に通わせ、瑞穂にANCの技術を使うことに決めるが…。
というような話です。

正直そこまで期待していなかったんですけど、これはちょっと凄い作品だったなぁ。

映画を見ながらずっと考えていました。この映画、どんな展開をしていくんだろうなぁ、と。

原作の東野圭吾は、色んな作品を書きますが、基本的にはミステリ作家で、この作品でも何かミステリ的な、あるいはミステリとまではいかなくても、見ているものに何かを突きつけるような展開になるだろう、と考えてはいました。でも、想像つかなかったなぁ。普通に考えれば、これ以上展開しようがない状況だと思うんです。少なくとも現在までに、「脳死状態」と判断されてから目を覚ましたような事例はないそうです。もちろん薫子もそのことは覚悟しているんだけど、まあ物語上、瑞穂が目を覚ます可能性はないだろう、と思っていました。作家としての東野圭吾のあり方をなんとなく知っている、というのもありますが、東野圭吾ならそんなことはしないだろう、という感覚がありました。

しかしだとしたら、この物語はこれからどうなるんだ?というのがさっぱり想像出来なかったんですね。しかし、ある場面で、なるほどこれは凄いな、と感じる展開になります。詳しいことは触れませんが、これが要するに、「法律が脳死をどう判断するか」と直結する問題なわけです。

これ、ホントに映画のようなことが実際に起こったら、法律はどう判断するんだろう?と思いました。もちろんこの映画で、その答えが示されることはないし、恐らく弁護士や検事なんかに聞いても、明確な答えは返ってこないでしょう。少なくとも今まで日本では、この映画で描かれているような事例は起こらなかったはずだし、判例がない以上、現時点では誰も答えを導けないだろう、と思います。

あの展開に行き着くために物語のすべてがあったんだな、と思うとすごく納得感があるし、非常に哲学的で悩ましい問題を突きつける物語だな、と感じました。

この映画でもう一つ考えさせられたことは、「延命」についてです。これは「脳死」に限る問題ではないでしょう。

僕個人の話をすれば、機械で繋がれていることによって生き延びている、という状態は絶対にイヤです。僕はあらゆる意味で、医学的に治療が困難であると判断されたら、それ以上の延命措置はしないで欲しい、と思っています。ただこれは、人によって様々に意見があるでしょうし、実際にそういう事態に直面したことがあるかどうかでもまた答えは大きく変わってくるでしょう。僕自身も、僕以外の誰かについて延命するかどうかの判断をしろという状況になったら、非常に困るし、スパッと決断を出せる問題ではないなぁ、と思います。

この点について、映画の中で様々な人が様々な価値観を提示します。もちろん、賛否両論です。正直なところ、誰の言い分も否定は難しいな、と感じました。感情的には、その意見はちょっとないよなぁ、と感じるものであっても、じゃあ明確にその間違いを指摘できるかと言われるとそうではないし、というかそもそも、「正しい/間違っている」という判断の及ばない領域なのだろうな、と思います。

ただ難しいのは、個々人はそれぞれ、様々な理由から「正しい/間違っている」を判断せざるを得なくなります。一つこの映画で描かれている例を出しましょう。和昌は会社のトップですが、取締役会(だと思う)で、有能な研究員を私物化して自分の娘のために利用している、と指摘されます。和昌は、これは長い目で見れば我が社の利益になる研究だ、と主張しますが、なかなか賛同を得られません。和昌は、「親としての立場」「夫としての立場」「経営者としての立場」を踏まえた上で、現実的に「正しい/間違っている」の判断を下し、何らかの行動を起こさなければならないわけです。

和昌ほど追い詰められているわけでなくても、他の人物たちも皆、何らかの形で「正しい/間違っている」の判断を下さざるを得なくなります。そしてそれは、「脳死状態を生とみなすか、死とみなすか」という問題と直結していくわけです

薫子が、「瑞穂はまだ生きている」と主張することを、否定するのはなかなか難しいです。しかし、「現実解」とでも呼ぶべきものを導き出さなければならない時、薫子の感情はなかなか厄介なものとして立ちふさがることになります。しかし一方で、瑞穂の事故には、直接的には薫子に非はなく、薫子に対して非を感じる人間は薫子の“暴走”を止めることができなくなります。

ホントに、様々な部分で価値観がぶつかる非常に難しいテーマを、問題の本質をえぐり出すような形で描き出す作品で、とても考えさせられました。

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