【映画】「MOTHER マザー」感想・レビュー・解説

正解はあるんだろうか、とずっと考えていた。

選択肢の中に正解があるなら、それを選べばいい。そして、「正解がある」ことが分かった上で、正解ではない選択肢を選ぶことも、自由だと思う。誰もが常に、正解を選ばなければならない、とは思わない。

しかし。正解が存在しないような分岐点で、道を選ばせるようなのは、間違っていると思う。

外側から見ている分には、「正解」はたくさんあった。ドリフターズのコントの「志村後ろ!」みたいな瞬間は、何度もあった。今、そこだろ、と。そこで「正解」を選べばいいんだ、と。そういう場面は、たくさんあった。

でも、最後まで観ると、彼にはそれらが「正解」に映っていなかったことがハッキリと分かる。観客からすればあまりにも明白過ぎる「正解」であり、この映画の登場人物の大半も同じ判断をするだろう選択において、彼は常にその「正解」を選ばなかった。

【全部ダメですよ。生まれてきてからずっと】

この後、彼が言った言葉には、打ちひしがれるような想いがした。そう、彼がそう思っている以上、僕らには「正解」に見えている選択肢はすべて不正解なのだ。

彼がそう思ってしまうことを責めても仕方ない。僕は、どんな意味においても、彼には責められるべき点はないと思う。誰もがそう感じるだろう。たとえ法律が彼を裁いても、本来的に彼は責められるべき人間ではない。

でも、彼の考えていることを丸ごと受け入れてしまうと、彼の人生から正解が消えてしまう。残念なことだが、きっと、彼はそのことを理解していたのだと思う。そのどうしようもない絶望の淵にあって、彼は、彼とその母親にしか正解に見えない選択をする。

「Mother(母)」と「Monster(怪物)」は、字面が似ている。劇中、「Mother」が何度も繰り返す「私の子だよ!」という言葉は、「Monster」の叫び声のようだった。自分の親が「Mother」であるか「Monster」であるかは、子どもは選べない。「不幸だった」で片付けないために、「Monster」から子どもを引き剥がす方法を、社会は考えなければならないと改めて感じた。

内容に入ろうと思います。
この映画は、よく映画で表示される「実話を元にしている」というような表記こそなかったものの、実際の事件を描いたノンフィクション作品が基になっている。この映画がどこまで忠実に描かれているか分からないが、ここに描かれているのと近いことが実際に起こったというだけで反吐が出るし、そして何よりも、同じような境遇に置かれた子どもたちがたくさんいるだろうという想像に、苛立たしい想いを抱く。

シングルマザーの秋子は、周平という息子と二人で暮らしている。ロクに働きもせずパチンコばかりして、金が無くなると両親や妹から金を”借りる”。しかし、返したことは一度もない。周平も、学校でうまくやれていないのか、働かない母親と一緒にいることが多く、時に、周平一人で金の無心に行かせたりもする。周平は、母親の命令にほとんど逆らうことがない。表情に乏しく、ほとんど喋らないので何を考えているか分からないが、到底、今の生活に満足感を抱いているとは思えない。
ある日、ゲームセンターで知り合ったホストのリョウと意気投合し、彼らは付き合うようになる。周平を知り合いに市役所職員に預けて遊び呆けた後、難癖をつけてその市役所職員を脅して金をとろうとしてトラブってしまい、彼らは遠くに逃げることにする。その後も、男からの暴力、パチンコ、金の無心を繰り返し、周平は学校に通えないまま、生活能力が皆無な母親に付き従う。秋子の妊娠が分かったことで状況は大きく変わり…。
というような話です。

映画を見ながら意外に思ったことは、主人公は秋子(長澤まさみ)ではなく、周平だったのか、ということだ。まあそれは、僕がそう判断したというだけのことだが、この映画では、秋子の存在は明らかに「周平の外的要因」という程度でしかない。もちろん、「程度」という言葉で済ませることが出来ないくらい強大な影響力を持つ「外的要因」ではあるのだけど、しかしやはり、この物語において、秋子は中心にいないと思う。秋子という、ブラックホールのような引力を持つ存在の近くにずっと居続けた周平の物語だ。

秋子については、映画の冒頭から最後の最後まで、印象が変化しなかった。映画を観る前たまたま、主演の長澤まさみのインタビューを読んだが(というか、見出しが目に入った、程度だが)、長澤まさみは秋子という役柄に「まったく共感できなかった」と言っていた。まあ、そりゃあそうだろう。この映画では、秋子に対する共感という要素はほぼゼロだと思う。普通、悪い風に描かれる人物であっても、主人公クラスの存在であれば、共感を呼び寄せるような場面も描かれることが多いだろう。しかしこの映画は、そういう部分を排除しようとしているように感じた。秋子という存在を、共感を一切寄せ付けない存在として描くことで、「Mother」と「Monster」を二重写しにしているような感じがした。

観客の関心は常に周平に向かう。観客は、秋子を「Monster」としか見ない。そういう部分しか見えないからだ。しかし周平は秋子を「Mother」として見ている。そして、この絶望的な食い違いが、最後の最後までモヤモヤしたものとして残る。

僕は、「親」という立場になったことがないから偉そうなことは言えないが、秋子が周平を人として愛しているようには思えなかった。「親」の立場から見れば、違った風に見えるだろうか?秋子には、周平は、ただの「道具」にしか見えていないように思う。彼女が度々口にする、「自分の子どもなんだから、どんな風に育てたって勝手でしょ」という言葉からも、包丁を研ぐような、あるいはバットを磨くような印象を感じ取ってしまう。そもそも僕は、自分の子どもだからと言ってどう育ててもいいとは思わないが、それはともかくとしても、秋子の周平の扱い方には、苛立たしさしか感じなかった。

でも一方で、僕はこんなことも考えた。親になってみなければ親の適性があるかは判断できないが、親の適性がないと分かったところで親であることを取り消すことはできない、ということだ。

これは、非常に根本的な問題だと思う。

僕は、自分が子育てとか親という立場に向いていない、という自覚がある。同じようなことをいう女性に会ったこともある。一方、こういうことを言うと、「自分の子どもだったら違うよ」とか「親になってみなきゃ分かんないじゃん」と言う人が一定数いる。

まあ確かにそうかもしれないが、でも、親になった後、「やっぱ向いてないじゃん」ってなったらどうすりゃいいのよ、と僕はいつも思う。口には出さないけど。

もしかしたら秋子も、そうだったのかもしれない。

この映画では、秋子がろくでもない母親である状態しか描かれない。周平を身ごもる前どうだったのか、生まれたばかりの頃はどうだったのか、そういうことは分からない。もしかしたら秋子も、最初からダメだったわけではないかもしれない。子育てを頑張る意思はちゃんとあって、良い子に育てたいと思っていたけど、でも向いてなかったのかもしれない。

で。じゃあ、どうすりゃいいのさ。

僕は、児童虐待のニュースを目にする度に、「自分は児童虐待する側だな」と思ってしまう。親になったら、たぶん向いてないことに気づくし、でも子どもは存在しているわけだから、僕自身の現実の中で何らかの対処をしなければならない。それが「虐待」という行動に繋がる可能性は高い、と僕は考えているし、そういう自覚を今の時点で持っているからこそ、親にはなるまいと決意している。

僕はいつも、この「正解」を知りたいと思う。親になった後で、親に向いてないと分かったらどうすべきなのかについての「正解」を。激論を巻き起こした「赤ちゃんポスト」は、一つの「正解」だと僕は思う。ただ、誰もが「赤ちゃんポスト」を利用できるわけではないし、ある程度子どもが大きくなってから向いてないことに気づいても打てる手はない。

僕は、虐待を無くすという方向よりも、子育てに関する選択肢を増やす方向の方が可能性を感じる。虐待は、無くそうとして無くなるものではないと思う。虐待の内の一定数は、「子育てに向いてなかった」という判断が根底にあると僕は思っているし、そう判断した親に「虐待」以外の選択肢を提示してあげることこそ、本当の解決策なのではないか、と思う。

もちろん、子育てに関する選択肢が増えていたとしても、秋子と周平の物語の着地点は変わらなかったかもしれないが。

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