【映画】「グレース・オブ・ゴッド」感想・レビュー・解説

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「正しさ」の指標は人それぞれだから、「これが正解だ」と押し付けるのも押し付けられるのも好きじゃない。

とはいえ、いつも願うことは、どんな状況であっても、「被害者」に不利益にならないことが「正解」であってほしい、ということだ。

この映画では、「被害者の葛藤」が描かれる。その最たるものは、家族との関係だ。20年、30年以上前に神父からされた性的虐待に苦悩する男性たちは、この「神父による性的虐待」という点について、家族と折り合いが悪い。ある親は「誰もが問題を抱えている」と矮小化し、ある親は「教会に不利益になる」と暗に非難する。彼らは、虐待を受けてすぐ両親に打ち明けられたわけではないが、それでも、10代の内にそれを告白している。しかし、その時でさえ、大したケアをしてもらえなかった。

映画を観ていて感じたことは、被害者が「男性」であることが、問題をより複雑にしているのかもしれない、ということだ。フランスは、日本とは男性・女性に関する考え方が結構違うから的外れかもしれないけど、「男が性的虐待を受けたって、まあそんな大したことじゃないだろう」というような雰囲気がもしかしたらあるのかもしれない、と思った。これが、被害者が女性であるなら、また違うのかもしれないな、と。もし仮にそうだとすれば、逆の意味で男女平等が破られている、という感じがした。

この問題において、本質的に圧倒的に悪いのは、性的虐待を行った神父だ。そこに一切の疑問の余地はないだろう。被害を訴えるものたちの怒りも、もちろん、神父に向いている。しかし同時に彼らは、「沈黙した者たち」にも矛先を向けようとする。神父の行いを知っていたとすれば、教会は沈黙していたことになる。被害者の会はそういう理屈で、神父の上位職である枢機卿や教会そのものをも標的にしようとする。しかし一方で、その「沈黙した者たち」の中には、子供の訴えを聞いたにも関わらず何もしなかった親たちのことも、心の奥底では含めているのだろう、と思う。

主に3人の被害者がメインで描かれるが、彼らは様々なきっかけで、神父の告訴に関わるようになる。彼らが皆、「神父憎し」で動いているのと同時に、やはりそれは、過去の親子関係の精算にも向かっているように感じられる。

教会は、強大だ。この映画は実話を元にしており、公式HPによると、現在もまだ裁判が続いている案件だ。映画の中でも弁護士が、「数世紀続く組織に楯突くのは、大変ですよ」というようなことを言っている。そりゃあそうだ。だから、教会との闘いは、長引きだろうし、勝てるかどうかも分からない。きっと被害者たちは、そんな思いを胸に抱きつつ戦っているのだろうと思う。

しかし、家族との関係は、近い。近いし、簡単に思える。それに、状況が変わったのだ。自分に性的虐待をした神父が告訴されている。その動きを実現したのは自分の力でもある。これが、家族関係の改善のきっかけに感じられるのは、当然だと思う。

しかし、そううまく行くわけではない。

どんな「正しさ」を持っていても構わない。しかしやはり、どんな場合であっても、「被害者」が救われる、あるいは、せめて傷口が広がらないような「正しさ」であってほしいと思ってしまう。

内容に入ろうと思います。
アレクサンドルは、リヨンに住む5児の父親だ。銀行で働き、家族との関係は良好で、何不自由ない生活だが、そんな生活の中で、昔の記憶を思い出すきっかけがあった。子供の同級生の父親から、「君もプレナ神父に触られた?」と聞かれたのだ。そう、アレクサンドルはかつて、ボーイスカウト時代に、3年間神父から性的虐待を受けていたのだ。また、そのプレナ神父が、今も子供たちに聖書を教えていることを知り、我が子を守るためにも動かなければならない、と考えた。彼は、然るべき対応を取り、プレナ神父との面会にこぎつける。そこでプレナ神父は、過去の性的虐待は認めたものの謝罪しなかった。教区の枢機卿にも相談するが、事態が動く気配はない。そこでアレクサンドルは最後の手段として、検事に告発することにした。しかし、アレクサンドルの事件は既に時効を迎えており、警察は別の被害者を探さなければならなくなった。
その捜査の過程で、プレナ神父が告訴されたことを知ったフランソワは、最初こそ関わりを持たないようにするが、やがて自身の被害を訴える行動に出る。彼は<被害者の会>を立ち上げ、メディアを使いながら世論を巻き込もうとする。そんな折、新聞で神父の告訴と<被害者の会>を知ったエマニュエルも、自身の過去を告発する決意をし…。
というような話です。

映画の冒頭で、正直、結構びっくりしました。というのも、冒頭5分か10分ぐらいの段階で、プレナ神父が性的虐待の事実をアレクサンドルに認めているからです。え?ここからどうやって物語を展開させるんだろう、と思いました。

というのも、以前観た「スポットライト」という映画の記憶があったからだと思います。「スポットライト」では、新聞記者が神父の性的虐待を暴くというストーリーで、いかにして神父や教会を追い詰めるか、という部分に焦点が当たっていました。しかしこの映画では、神父が性的虐待を行ったことは認めているし、警察の捜査でも早い段階で、彼が性的虐待を行ったことを告白している手紙が見つかります。つまり、事実関係を争う映画ではない。

では、何が問題になるのか。

それは、この感想の冒頭でちょっと触れた、被害者たちの告発なのだけど、より焦点を絞るとすれば、「告発には時間が掛かる」という点だ。

彼らは10代の頃に、その被害を親に告白しているが、親は何も動いてくれなかった。そして、勇気を出して自ら世間に告発しようというタイミングでは、既に時効になっているのだ。プレナ神父の件については、最初に動いたアレクサンドルの件は、既に時効だった。アレクサンドルも、友人に告発するよう働きかけてみるが、家族もいるし難しい、という反応になってしまう。最終的に告発に動いた面々も、最初は「今さらそんなことしてどうなるんだ」とか「自分には仕事も家族もないから、告発したら後ろ指を指されるだけだ」と後ろ向きだった。そんな風にして、加害者が適切に裁かれるタイミングが失われてしまうことになる。

また、プレナ神父による性的虐待は、子供たちの間ではある種の「公然の秘密」のようなものだった。弟が神父に性的虐待を受けたことを知ったその兄は、「神父は小さい子にしか興味がないから」と言って、親に止められながらもキャンプに行く。もちろん、すべての子供が知っていたはずはないが、名乗りを挙げた被害者だけでも80名以上だというから、実数だとどれぐらいになるか分からない。アレクサンドルが同級生の父親から「君も触られた?」と聞かれるくらいには、被害者がその辺にいくらでもいるだろう、という認識がなされているのだ。

そういう状態であっても、プレナ神父は聖職を奪われないし、教会の権威も失墜しない。プレナ神父が告訴されて、その辺りの受け取られ方がどう変わったのか、そこまで明確に描かれてはいないけど、告訴された後も、枢機卿(プレナ神父の上位職の人)への支持は衰えなかったようなので、教会という存在がいかに強大かが伝わってくる。

そういう状況下で、家族や親しい人との関係がうまくいかなくなる中、憎しみや怒りに駆られつつも、正しいことを通そうとする<名もなき人たち>の物語だ。

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