【映画】「人数の町」感想・レビュー・解説

いやー、面白かった。というか、凄く納得感があった。現実にはありえない設定だろう、と頭の片隅で思いつつ、同時に、これは現実であってもおかしくないよなぁ、と。というか、「人数の町」が本当に存在するなら、納得できることって結構あるな、と。なるほどなぁ、と、そういう意味で凄く納得した。

そして、この映画だけ見るなら(つまり、この映画では描かれていない部分について考えない限り)、「人数の町」はユートピアかもしれない、と僕は思う。いや、ホントに、もし僕がこの「人数の町」へのバスの存在を知ったら、検討してしまうかもしれない。

そこがどんな場所なのか、あらかじめ知っていても。

「人数の町」に入ると、各部屋にある「バイブル」を熟読するように指示される。そのバイブルには、この町で過ごすためのルールが様々に書かれている。バイブルに冒頭には、こう書かれている。

【平等は可能だ
自由は夢ではない
平和も夢ではない】

確かにこの「人数の町」は、平等も自由も平和も、割と実現できていると感じる。しかし、その実現のためには、当然「犠牲」がある。そして、「平等・自由・平和の実現」と「そのための犠牲」が釣り合うのかどうかということが、常に問いかけ続けられる構成になっていると思う。

この「犠牲」というのは、究極的な話をすれば、資本主義や民主主義の犠牲だ。というか、資本主義や民主主義の成れの果て、と言ったらいいだろうか。社会が「資本主義や民主主義に則っている限りセーフ」というルールの中で動いている以上、究極的には「人数の町」のような存在が生まれうるだろう。それは、資本主義・民主主義を延命するものであるとも言えるかもしれないが、同時に、内側から食い破る存在でもある。

現代は、行き過ぎた資本主義が環境破壊や大量の廃棄物を生み出し、行き過ぎた民主主義の反動が社会主義的な考えを揺り動かしているように思う。そういう現代性の中で、この映画が突きつけてくる「問い」は非常に刺激的だと思う。毒をもって毒を制すというか、ある意味でワクチンのような存在として「人数の町」が存在しており、行き過ぎた資本主義・民主主義はやがて、そのワクチン無しには存在し得なくなるだろう。

僕がリアルさを感じたのはこの点だ。実際には今は、少なくとも日本には、「人数の町」のようなものはないだろう。しかし、世界のどこにもないと言い切れるだろうか?例えば、中国だったらやれるだろう(まあそもそも、中国は「人数の町」のような存在に頼らなくても成り立つ仕組みが存在するから、そういう意味では不要なのだけど)。形式的に資本主義や民主主義を継続させていますという見え方にしておいて、その実、資本主義も民主主義も放棄しているようなそんな社会を望む為政者や大企業というのは存在するだろうし、そういうところが手を組んだら、なんか実現しそうな気がする。

何故なら、誰も困らないからだ。

「人数の町」に連れて来られるのは、現実世界で酷い状況に置かれている人たち。借金やDVなどだ。彼らからすれば、その激ヤバな現実に身を置くより、「人数の町」にいる方が安泰だ。一方、「人数の町」に連れて行かれる人というのは、社会全体から見れば「困った存在」だと言える。もちろん、どんな人にも人権があるし、最低限度の生活が保障されるべきだが、とはいえ貧困・格差・ネットカフェ難民・ホームレスといった諸問題を一手に解決出来るような手段は存在しない。つまり、「人数の町」という存在は、社会全体から見ても良いということになる。

つまり、誰も困らない。少なくとも、短期的には。

長期的には、誰もが困ると言っていい。何故なら、資本主義・民主主義という根幹を土台から腐らせるようなものだからだ。しかし、その危険は、すぐには現実にならないし、自分が死んだ後のことだろうからどうでもいいと思う人も出てくるだろう。

だから。この「人数の町」という架空の設定は、実現可能なのだ。

映画の中盤以降、木村紅子という女性が活躍する。彼女は「人数の町」の中で、僕らが生きている現実世界の「正論」を説く。しかし彼女が説く「正論」は、「人数の町」の住民には当然のことながら、僕にとっても空虚に聞こえてしまった。いや、本当は、紅子の方が正しいはずだ。理性はそう理解している。しかし感覚的には、紅子の「正論」に疑問を投げかけている。本当に、この「人数の町」は間違っているのか?と。

もちろん、この「人数の町」には、描かれない「ズル」がある。それは、「年を取ったらどうなるのか?」ということだ。一瞬触れられるが、その疑問はスルーされる。つまり、この「人数の町」は、色んな点で「理想郷」風だが、描かれない部分も含めると「理想郷」ではないんだろう、という気がしてくる。

それでも。この「人数の町」に惹かれる人は、特に若い世代の人には多いんじゃないかと思う。

内容に入ろうと思います。
蒼山哲也は、借金で首が回らなくなり、路上で借金取りに殴られる。そんな時、見知らぬオレンジのツナギを来た人が助けてくれた。彼は自らをポールとなのり、蒼山をデュードと呼んだ。居場所が欲しいなら来いと言われ、よく分からないままバスに乗ってやってきたところが「人数の町」だった。自由と博愛の象徴であるパーカーを着て、部屋にあるバイブルを熟読するよう指示されるが、蒼山は面倒がってバイブルを読まない。とりあえず、プールが社交場になっているということを知り、そこで話しかけてきた美女と仲良くなる。蒼山は彼女に色々話を聞きながら(というか馬鹿にされながら)、この町のルールを少しずつ覚えていく。
一度入ったら出られない。
そんな町に、行方不明になった妹を探すためにやってきた女性。彼女は、「人数の町」で妹を見つけるが…。
というような話です。

とにかく、妙なリアルさがあって面白かった。「人数の町」に集められた人が何をしているかというと、「人数が必要な場に駆り出される」のだ。つまり、特殊な人材派遣業だと思えばいい。「人数の町」の住民は、「仕事(と呼んでいいのか不明だけど)」に関して自由はない。やれと命じられたことをやるしかない。具体的に何をしているのかはここで書かないけど、「資本主義的な虚像」を作り上げたり、「民主主義の数合わせ」をしたりする。それは、法に触れる行為もあるだろうし、法には触れないが倫理的に褒められないものもあるが、しかし住民は順応していく。

その背景には、たぶんだけど、「彼らが元いた現実よりずっと穏やか」という側面があるのだと思う。そういう部分については明確には描かれないけど、住民たちは、明らかに「おかしい」と感じることを、文句もなく行う。それは、「そうしていれば衣食住が保障される」ということを理解しているからだ。彼らは、現実世界では、安全性や衣食住が保障されない生活を強いられていた。だからこそ、褒められた行為じゃないけど元の現実世界より全然ハードじゃない悪事を、抵抗なくするようになっていくのだと思う。

で、そんな大量の人間を養うだけのお金が集まるのかということだけど、これも映画を見ながら、仕組みとしては成立しそうだなぁ、と思った。そもそも住民には、給料を支払う必要はない。衣食住は与え続けなければならないが、そこにもある種のからくりがある。この映画には、「倒産8255社」「自己破産7万3084人」「人工中絶16万8015人」「投票したことがない人706万人」など、いつのデータかは知らないけど具体的な数字が様々に登場する。その中に「食品廃棄物2775万トン」というのもある。つまり、すべてではないだろうが、彼らの食事の一部はそういう廃棄物から生まれているはずだ。服も恐らく、廃棄品だろう。しかも、徹底的に管理コストを減らしているから、チューターと呼ばれる人員は、そこまで多く必要ない。

一方で、この「人数の町」の住民を使いたいという需要は、かなりあるだろうと思う。しかも、これはどうみたって「不正」と判断される類のものだから、企業や個人も秘密裏に使いたい。しかも、ライバルはいない。そういう意味で、「人数の町」を管理している組織の言い値でお金をもらえる可能性がある。

だから、これ成り立ちそうだなぁ、と思った。良く出来てるなぁ、と。

日本では一年間に、8万人以上の失踪者がいるという。その8万人の全員とは言わないが、1割ぐらいは「人数の町」にいるのかもしれない。そう思うと、なんかちょっと怖くなる。これから、何か行列を見たり、何かが流行ってるような雰囲気を感じた時に、「人数の町」のことを思い出してしまうかもしれない。

とはいえ、僕は、「人数の町」、悪くないんじゃないか、と思ってしまった。バスがあったら、乗るかもしれない。

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