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【本】内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」感想・レビュー・解説

本書は、まさにタイトル通りの作品で、「権利であるはずの『教育』をなぜ子どもが放棄するようになっているのか」「すぐ転職したりニートになったりして、労働を拒絶してしまう若者がなぜ増えたのか」に、非常に明快な論理で仮説を提唱する作品です。


内田樹の作品は、読むたびに鱗がボロボロ落ちますけど、この作品も素晴らしいなんてもんじゃありませんでした!やっぱりスゲェっす、内田樹。
さて、僕は本書を、以下のような人達に読んで欲しいと思っています。

① 会社・家庭・学校などで、「理解できない人種」と関わっているという実感のある人
② これから子どもを育てる人、今子どもを育てている最中の人

①と②は重なる部分もありますけど、まあ細かいことは気にしないでください。


①については、具体的には、【部下】や【息子/娘】や【生徒】の行動原理がまるで理解できないという方に。そして同時に、【上司】や【親】や【教師】が何を言っているのかさっぱり理解できないという方に、是非とも読んで欲しい。お互いを『異質だ』と捉えてしまう人達の間で、どんな認識のギャップが存在するのか。その衝撃的な仮説には驚かされることでしょう。


②については、現在の日本の『教育』に関する非常に深刻な問題が提示されてるので、「覚悟を決めるため」に、是非とも読むことをオススメします。本書を読んだところで、全体の大きな流れに抗うための方策が示されているわけではありません。それでも、「どうしてこんなことになってしまったのか?」という背景を押さえておくというのは非常に重要なことなのではないかと思います。いや、ホントに、恐ろしいですよ、こんな世の中で子どもを育てなくてはいけないのは。


とはいえ、子育てに関しては、「家庭での問題」も指摘されるので、読むことで対処可能な部分も見つけることは出来るでしょう。あとで書きますが、学校教育に参加する遥か以前に、子どもたちの特殊な主体性が確立されてしまうがために、「学びからの逃走」という奇妙な出来事が起きているわけです。


さて、これから内容に触れていきますが、このブログでは、「初めの60Pの内容」だけにしか触れません。というのも、あまりにも鱗がボロボロ落ちすぎて、内容すべてに触れようとすると本書で書かれていること全部書いちゃうだろうなという危機感があるのと、もう一つ、初めの60Pで書かれていることで、本書における「最重要な骨格」の構造は、はっきりと示すことが出来るからです。


さて、では内容について色々書いて行きましょう。


まず本書では、「教育現場や生徒の現状がどうなっているのか」という実情が様々に語られていきます。


注意しなくてはいけないのは、本書で描かれている「実情」は、本書の親本が出版された2005年当時のもの、ということです。既に8年前の話ですね。8年前と現在でどれほどの変化があったのか、それは分かりませんが、時々報じられるニュースや、なんとなくの実感を元に、勝手に推測すると、8年前よりも一層状況は悪くなっているのではないか、という印象があります。

『学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。しかし、今、その常識が覆りつつある。教育関係者たちの証言を信じればそういうことが起きています。』

『間違いなく、今の日本の子どもたちは全世界的な水準から見て、もっとも勉強しない集団なのです。』

『子どもたち自身の学力についての自己評価がかなり不正確だということもその一つです。学力が集団的に落ちているから、学力が低下していることを本人はそれほど痛切には自覚できない。』

『無意識的かもしれませんが、競争ということを優先的に配慮した場合、同学齢集団の学力がどんどん下がることを、子ども自身もその親たちも実は願っているのです。』

『自分たちのいちばん身近にある活字媒体の中の文章さえ平気でスキップしていくということは、これはもう「能力」と行ってよいと思うのです。
つまり、この方たちは意味がわからないことにストレスを感じないということです。』

『若い人たちにとっては、世界そのものが意味の穴だらけなのです。チーズみたいに。そこらじゅうにぼこぼこ意味の空白がある。世界そのものが穴だらけだから、そこにまた一つ「意味のわからないもの」が出現しても、チーズの穴が一個増えただけのことですから、軽くスキップできる。たぶん、どこかの段階で、「意味のわからないもの」が彼らの世界で意味を失ってしまったのです』

さて、こういう現状の中で、内田樹はあるきっかけで、これはただの学力低下と呼ぶのは不都合なのではないかと感じます。それは、著者が勤めていた大学(英語教育で有名だそう)の大学生が、内田樹の時代であったら「中学二年生程度の学力」しかない、という話を聞いたことです。

『中学高校と六年間英語をやってきて、中学二年生程度の英語力しかないというのは、怠惰とか注意力不足というのとはちょっと違うのではないかとその時に思いました。変な言い方ですけれど、かなり努力しないとそこまで学力を低く維持するのはむずかしいと思うからです。』

ここから内田樹は、何故彼らが「努力して学ばない」のか、という謎めいた行動を取るようになったのか、思考を巡らすことになります。


そして、それを説明する仮説として、

【子どもたちが、「経済合理性」を価値判断基準として、「教育」を「等価交換のサービス」と捉え始めている】

と考えます。

『学校の話に戻しますと、諏訪さんも、知り合いの教師たちと子どもたちの変貌について、いったいどうして、こんなことになってしまったのかずいぶん議論し、考えられたそうです。その結果、これは諏訪さんの洞察だと思うのですけれども、「この子たちは等価交換をしようとしているのではないか」という仮説を立てた。』

『「苦痛」や「忍耐」というかたちをした「貨幣」を教師に支払っている。だから、それに対して、どのような財貨やサービスが「等価交換」されるのかを彼らは問うているわけです。「僕らはこれだけ払うんだけど、それに対して先生は何をくれるの?」と子どもたちは訊いている。』

『そして、この最初の成功の記憶によって、子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか?それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
こうやって「等価交換する子どもたち」が誕生します』

しかし著者は、「教育」は「等価交換されるサービスとしては、原理的に提供しえない」という持論を展開します。これについては、作中の様々な場所で、様々な形で繰り返し登場します。「時間」という概念との関連の話なんかは非常に示唆に富むし、「師弟関係のあり方」についての話も興味深い。だから本書で是非読んで欲しいんだけど、とりあえず一つだけ引用します。

『そのような問いかけに対して、教師は答えることができない。できるはずがない。これはできないのが当然なのです。そんな問いが子どもの側から出てくるはずがない、ということが教育制度の前提だからです』

この、「等価交換する子どもたち」は、「目に見える価値」がわからないものについては「取引」をしようとしないし、また「有利に取引を成立させる」ために、「その商品には興味がない」ことを精一杯誇示しようとします。

『等価交換的な取引のいちばん大きな特徴は、買い手はあたかも自分が買う商品の価値を熟知しているかのようにふるまう、ということです。
当たり前のことですけれど、人間はその価値を知らない商品は買いません』

『消費主体は、自分の前に差し出されたものを何よりもまず「商品」としてとらえる。そして、それが約束するサービスや機能が支払う代価に対して適切かどうかを判断し、取引として適切であると思えば金を出して商品を手に入れる。
消費主体にとって、「自分にその価値や有用性が理解できない商品」というのは、存在しないのです』

『そして、この幼い消費主体は「価値や有用性」が理解できない商品には当然「買う価値がない」と判断します。』

『というのは、商取引の場では、買い手はその商品の有用性(あるいは無用性)について熟知しているかのようにふるまい、「その商品には興味がない」という無関心を誇示することで取引を有利に進めることができると知っているからです。』

まとめると、子どもたちにとって「教育」とは、こういうものとして捉えられている。

『彼らは学校に不快に耐えるためにやってくる。教育サービスは彼らの不快と引き換えに提供されるものとして観念されている。
ですから、教室は不快と教育サービスの等価交換の場となるわけです』

だからこそ彼らは、「自分は今不快である」ということを、全力で示そうとします。それは、「彼らがそうしたいから」であなく、ほとんど自律的に「そうするように要請されている」からこそそうしているのです。

『せっかく十円に値切って買うことにした商品に二十円を差し出すことは許されません。それは商取引のルールに悖るからです。ですから、いったん「この授業は十分程度の価値しかない」と判断したあとは、残り四十分を「授業を聞かない」ということに全力を傾注しなければならない。私語をするのは「したいからしている」というより、「しなければならないからしている」のです。』

『「きちんとした動作をしたせいで、うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。ただ怠惰であるだけだったら、人間がこれほど緩慢には動けません。必要以上に緩慢に動く方がもちろん筋肉や骨格への負担は大きい。ですから、これを生徒たちが生理的に弛緩していると解釈してはならない。これは明確な意志をもって行われている記号的な身体運用なんです』

彼らにとって、教室内では、『「自分の不快に対して等価である教育サービス」だけを求めている』のであり、問題は『等価交換が適正に行われること』であって、『彼らにはそれが何よりも重要なんです』。彼らは、『消費者マインドで学校教育に対峙しているのです』

これが、子どもたちが「学びから逃走」してしまう理由です。彼らにとっては、「そうすること」が、【「経済合理性」を価値判断基準として、「教育」を「等価交換のサービス」と捉えた】時、もっとも合理的な判断・行動だからこそそうしているわけです。


この仮説は、本当にしっくりくるし、そして同時に、凄い社会になったなと感じました。自分にも、そういう価値判断がないわけではない、という自覚もあるので、より一層怖いなという感じがします。


さて本書では、じゃあ何故子どもたちは、【「経済合理性」を価値判断基準として、「教育」を「等価交換のサービス」と捉える】ようになったのでしょうか。
それは、

『おそらく、この等価交換のやり方を子どもたちは家庭の中で、両親の間で行われる取引のやり方を通じて学んだのではないか』

と著者は考えます。
つまり、

『子どもたちは、就学以前に消費主体として自己を確立している』

ということです。

『今の子どもたちと、今から三十年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。』

『ところが、今はそうではない。今の子どもたちは、労働主体というかたちで社会的な承認を得て、自らを立ち上げるということができない。そういう機会をほとんど構造的に奪われている。』

『ですから、社会的能力がほとんどゼロである子どもが、潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずです。子どもでも、お金さえあれば大人と同じサービスを受けることができる。このような全能感は僕たちの時代の子どもがおそらくまったく経験したことのなかった質のものだと思います』

『幼い子どもがこの快感を一度知ってしまったら、どんなことになるのかは想像に難くありません。子どもたちはそれからあと、どのような場面でも、まず「買い手」として名乗りを上げること、何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになるでしょう。当然、学校でも子どもたちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとします』

さて、ここまでの話が、本書の大きな枠組です。もちろん、ここで書かれていない話も多々出てくるわけなんですが、本書を貫く基本的な考え方はこれで大体説明できたような気がします。どうでしょうか?非常に納得感があって、世代にもよるでしょうが、若い世代がこれを読んでいれば、自分もそんな価値判断の元で行動していると思うかもしれないし、上の世代であれば、なるほど彼らはこんな風に考えて行動しているのか、と思わされるのではないでしょうか。


僕は本書を読みながら、「そうだよなぁ、こんな世の中になっちゃったら、本読む人間だって減るよなぁ」と感じていました(と思って読んでいたら、最後の方でちょっとだけ、読書についての話が出て来ました。)
そんな風に僕が考えたのは、

「読書は、読んですぐにリターンが得られるような営みではない」

からです。


もちろん、「読んですぐにリターンを得られる、本屋で売っているもの」もたくさんあります。即効性を謳うダイエット本やビジネス書なんかはそういう類のものでしょう。別にそういうものを否定するつもりはまったくないんだけど、でも本には、「いつ役に立つのかわからないし、もしかしたら一生役に立たないかもしれないけど、それでも読む価値のあるもの」というのがたくさんあるはずです。


でも、「等価交換する子どもたち」(まあこれは既に、子どもだけの問題ではないと思いますけど)は、「自分にその価値を理解することが出来ないものに投資はしない」という経済合理的な判断を下します。経済合理的な判断基準に沿えば、それは非常に正しい判断です。


でも、本書でも繰り返し書かれていることですが、「教育」や「学び」というものはそもそも、「それを受け始める時にはその価値がわからず、受け終わってから、なるほどこういうものだったのかとわかる」類のものです。つまり、「あらかじめ価値がわからない」ということにこそ、「教育」や「学び」の価値はあるわけです。「本を読む」という行為もそうでしょう。読む前に分かる価値も、読んですぐに分かる価値も、ない場合の方が多い。しかしだからと言って、それを「無価値」と言って退けてしまうのはもったいないわけです。


でも、現状こういう世の中になってしまっている。そういう世の中で本を売っている人間としては、「彼らにいかに本を買ってもらうか」を考えなくてはいけない。こうやって、「買い手の行動原理」を理解することが出来たという点でも、本書は非常に有用だったなと個人的には思います。


本当に、僕がここで拾いきれなかった様々な話題が多方面に展開され、それがどれも非常に納得感のある話で、やっぱり内田樹は凄いなと思います。最近こんなことばっかり書いてますけど、またほぼ全ページをドッグ・イヤーしてしまいました。自分たちが「どういう社会の中」に生きているのか、それを掴み取ることは、経済活動や教育に限らず、あらゆる方面で意味があるでしょう。とまあ、僕もこうやって、「本書を読んだら、すぐにどんな利益が得られるか」みたいなことを書いちゃうわけなんですけど(笑)、まあそれは、長いこと書店で本を売ってきた人間のクセみたいなもんだと思って流してください。初めの方で書いた、「行動原理の理解できない人」を理解するため、そして「子育てをしている人」に、本当に是非とも読んで欲しい作品です!


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