【本】「ウルトラマン誕生」「ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗」「ヒトラーの試写室」
実相寺昭雄「ウルトラマン誕生」
実相寺昭雄というのは、ウルトラマンを見ていた世代の人にはきっと馴染み深い名前なのだろう。ウルトラシリーズの第一弾「ウルトラQ」では「脚本家」として関わり(カッコに入れたのは、彼が書いた脚本は結局使われなかったから)、その後監督としてウルトラシリーズに参加することになった人物である。そんな著者が、かつてウルトラシリーズに関わっていた様々な“職人たち”に話を聞いたり、あるいは自分の経験を織り交ぜたりしながら、「ウルトラマン」というヒーローがいかに生み出され、そして国民的ヒーローとして定着するまでになったのかを振り返っていく内容だ。
冒頭で書いた通り、僕は映像作品としてのウルトラマンをほとんど見た記憶がないが、それでも本書は非常に面白く読んだ。先程、“職人たち”という表記をしたが、まさに日本の特撮は職人芸であり、著者も本書の中でこう書いている。
『SFXと特撮は別ものなんだ。日本の特撮は伝統芸能なんだ』
ウルトラシリーズは、毎週単発のシリーズとして放送されたが、これは特撮というジャンルでは例のないことだったようだ。ウルトラマンという空想上のヒーローがあたかも実際に存在しているかのように感じさせ、また同じく空想上の怪獣たちを毎週毎週違った趣向を凝らしながら登場させる撮影は、並大抵の苦労では実現できなかった。映像・音・ぬいぐるみ・役者など、それぞれの立場で特撮という現場を極めた者たちの必死の奮闘によって、ウルトラマンという世界観が生み出され、また世界中に影響を与える「特撮」という日本のお家芸が誕生することになったのだ。
『特撮なんて、夢を見ようとしなかったら、スタッフのやってることなんかバカバカしいかぎりですよ。でも、すばらしいのは分別ざかりのおとなが、バカバカしいことに夢中になってるってことなんです。もし、そういうことで冷めちゃうような人だったら、特撮はやらない方がいい…』
生まれた当時は「子供騙し」のように低く見られていた「特撮」という分野に、多くの者たちが夢を見て、そこで限りない力を発揮していった。不可能を可能にするための創意工夫が常に生み出され、現場で常に試行錯誤が繰り広げられていた。『特撮では“こんなこと笑われちゃうかな”といった思いつきの中に宝石が転がっている。その宝石の数々を、スタッフとつかみどりすることが、特撮のよろこびでもあるだろう』と著者は書いているが、僕自身も、アイデアで目の前の状況を打破するような仕事に面白みを感じるタイプの人間なので、本書を読みながら、この時代の円谷プロで働きたかったなぁ、と思ってしまった。
具体的に面白かったエピソードを書こうと思ったらいくらでも書けてしまうが、二つに絞ろう。まずは「声」のエピソードだ。
毎週新たな怪獣を生み出さなければならなかったわけだが、その中でも苦心したのが「鳴き声や足音などによって、怪獣の大きさや重さを表現しなければならないこと」だったそうだ。怪獣というのは未知の存在であり、どんな音を発するのか正解があるわけではない。「中に人間が入る」という制約のあるぬいぐるみ制作以上に自由度が高いが故に、納得の行く音作りをするのが難しかったようだ。また「声」の話で言えば、ウルトラマンの「シュワッチ」という声が生み出された背景の話もなかなか面白かった。
もう一つは、特撮の父と呼ばれる円谷英二の思想だ。
映像がカラー化されたことで、特撮現場にも「血を流せ」という要望が突きつけられたことがあったそうだ。円谷英二は、子供が見る番組だからと突っぱね続けたが、どうにも抗しきれなくなり、ついに怪獣に血を流させたことがあったという。しかしその血は、透き通ったような綺麗な緑色だった。他にも、こんな怪獣の造形はダメであるとか、こんな映像作りはしてはいけないなど、円谷プロでは円谷英二の思想が徹底的に貫かれていた。そういう絶対的に守るべきものがきちんとあったからこそ、CG全盛となった現在でも耐えうる映像や、ヒーローとしてのウルトラマンは存在するのだろう、と感じた。
円谷英明「ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗」
本書を手にとったのは、冒頭でも書いたように「ウルトラマン」への関心からではない。副題の「円谷プロの失敗」という部分にこそ僕の関心があり、「ウルトラマン」という最強のコンテンツを持ちながら、何故円谷プロは迷走してしまったのか、を知りたかったのだ。
そう、日本の特撮の歴史を生み出し、ウルトラマンというヒーローを育て上げた円谷英二が興した円谷プロは、放漫な経営と時代へのおもねりによって、あっという間にその資産を食いつぶし、惨憺たる状況に陥ってしまったのだ。現在円谷プロは、創業家である円谷一族とは一切関係のない会社組織になってしまっているという。まさにタイトルの通り、「ウルトラマンが泣いている」という状況だと言えるだろう。
何故そんなことになってしまったのか?本書はその経緯を、円谷英二の孫であり、円谷プロの二代目社長の息子であり、短期間ではあるが自身も六代目社長を務めた著者が赤裸々に描き出していく。本書は、他山の石としてではなく、どんな組織にも起こりうる問題として読まれるべきではないか、と思う。ウルトラマンという、未だに絶大な人気を誇るコンテンツを有していても、傲慢さや緩みが強くなることで組織はあっという間に瓦解してしまうのだから
本書を読むとすぐに理解できることだが、円谷プロの経営はちょっと無茶苦茶だ。僕はまともにサラリーマンとして働いた経験がないが、それでも、こんな経営は普通成り立たないだろう、と分かるほどの放漫経営である。
とはいえ、その源流は、創業者である円谷英二自身が作り上げてしまった、と言っていいだろう。例えば本書には、ウルトラシリーズの制作費についてこんな記述がある。
『初期のウルトラマンシリーズでは、全国ネットの30分の子供番組の制作費が200万円程度、一時間ドラマでも500万円を超えなかった時代に、TBSは550万円を円谷プロに支払っていました。しかし、実際の経費は1本1000万円近くかかり、番組を作るたびに借金が積み重なることになりました』
円谷英二にとって映画やテレビの仕事というのはお金を儲けるためのビジネスではなく、自身の夢を実現させるための手段であり、採算などは端から度外視されていたようだ。前出の「ウルトラマン誕生」を読んでいても、30分番組にこれだけの手間を掛けて大丈夫なのか?と感じる箇所は多々あったのだが、やはり大丈夫ではなかったということなのだろう。
そんな円谷英二の、採算よりもクオリティにこだわる、という考えが悪い風に残ってしまったのか、円谷プロでは誰もお金の出入りを把握しない、という異常な状態が長く続くことになったという。著者が六代目社長として就任した時、会社の全経理を徹底的にチェックしたらしいが、その杜撰さに唖然とした、と書かれている。
そんなお金に無頓着な円谷プロの経営を成り立たせていたのは、後に「円谷商法」と呼ばれることになる著作権ビジネスだ。テレビ番組で放送したキャラクターなどをグッズとして売り収益を上げるという、現在でも行われているやり方は、円谷プロが生み出したものだという。この著作権ビジネスは大当たりし、誰もお金のことなど考えなくても経営が成り立っている風を装えるほどの収入をもたらした。しかし円谷プロを破滅に追い込んだのもまたこの著作権ビジネスが発端だった。
というのも、グッズの販売は順調でも、経費の掛かりすぎる特撮を作り続けることで慢性的に赤字体質だった円谷プロは、ウルトラマンの玩具全般を一手に引き受けていたバンダイの介入を防げなくなってしまうのだ。そしてそれによってウルトラシリーズは、グッズが売れやすい造形や設定で物語を作るという、本末転倒な状況を作り出してしまう。
また、テレビ局から「時代を映す設定にして欲しい」と要請があり、その時代その時代に合わせて都合よく設定を変えてしまったことも円谷プロの衰退の一因だと、著者は語る。その迷走によって、子供の頃にウルトラシリーズに触れていた大人たちが離れていき、同時に子どもたちからの支持も失っていくことになってしまったのだ。
本書にはその他にも、円谷プロが直面することになった様々なトラブルが描かれていく。そしてその果てに、あっさりと買収され、円谷一族は経営から排除されることになってしまうのだ。ウルトラマンという子供たちの夢の裏側で起こっていた、夢とは程遠い現実を是非知って欲しい。
松岡圭祐「ヒトラーの試写室」
本書とウルトラマンとの関係は、パッと見には理解できないだろう。ただ、大いに関係がある。本書は、実在の人物が多数登場するノンフィクションノベルのような形式で展開される物語だが、本書の重要な登場人物の一人として、ウルトラマンを生み出した円谷英二が登場するのだ。第二次世界大戦の前から始まる物語であり、その頃彼は様々な映画の特撮部分を担当する部署の主任であった。その技術力には定評があり、円谷英二を語る上でよく登場する「ハワイ・マレー沖海戦」の映像撮影のエピソードも登場する。これは、日本軍による海戦を映像化しろという命令で作成されたものだが、全編模型で撮影されたにも関わらず、後にGHQがこの映像を見て、「オアフ島のどこから撮影したのだ?」と尋問を受けたという話が残っている。GHQが「本物だ」と信じるほどのクオリティだったそうだ。
物語は、映画俳優を志す柴田彰(これは偽名だが、彼のモデルになった人物は実在したという)が、ドイツとの合作映画「新しき土」のオーディションに落ちるところから始まる。落胆する柴田は、「新しき土」の特殊技術担当の助手を急募しているという男に声を掛けられた。それがきっかけで柴田は、円谷主任の元で特撮に奮闘する日々を過ごすことになる。
一方、ヒトラー率いるナチスドイツでは、宣伝省大臣であるゲッペルスが、大衆誘導のための映画の可能性を模索し続けていた。プロパガンダではなく、娯楽作品の中に自然と国民の意識を誘導するような設定や展開を入れ込み、国民の意識を変革しようとしていた。「新しき土」もゲッペルスの承認の元で作られたが、国外ではあまり売れなかった。ドイツという国を宣伝しようという明らかな意図が透けて見える作品は受け入れられないのだ。
そんなゲッペルスが、イギリスの豪華客船「タイタニック」の沈没を描くという脚本に目を留めるところから話が大きく展開していくことになる。映画には絶対に、タイタニック号が沈没する場面が必要だが、模型を使った撮影は惨憺たるものだった。そこで彼らは、特撮によって衝撃的な映像を生み出した日本の技術者を招聘することに決め、その白羽の矢が柴田に立つことになった…。
というような物語です。
松岡圭祐は、なかなか一般には知られていない史実を掘り起こし、それを魅力的な筆致で描き出す作品を多数物しているが、本書もその系統の作品だ。ドイツとの間で映画を通じたそんな関係性があったことも知らなかったし、また、物語の後半で明らかになる、柴田を招聘した本当の目的にも衝撃を受けた。まったく知らなかったが、恐らく本書で描かれているこの話は、実際に存在したエピソードなのだろう。映画という、現代を生きる僕らには娯楽でしかない存在が、歴史上のある場面で、その後の歴史を大幅に変えたかもしれない可能性を持っていたという事実に、驚かされた。
そして、そのエピソードを知った上で、本書で描かれる円谷英二の発言(もちろん小説なので、実際に円谷英二がこういう発言をしたかどうかは判断できない)も深く刺さる。
『きみが描くのは戦争の絵だ。戦艦が沈没するカットを作るとき、きみは乗組員らの死を描いているんだよ』
特撮というのは、不可能を可能にする映像を生み出す技術だが、円谷英二はその技術が、「ただ映像を生み出すためのものではない」ということをきちんと理解していたということだろう。もちろんそれは、現代とは「映画」というものの捉えられ方が違った時代だったからこそでもある。作中のゲッペルスが『映画はいんちきではなく、真実と捉えられている』と思考する場面があるが、かつてはそういう時代だったのだ。だからこそより、自分たちがどんな映像を作っているのかに自覚的であれ、と円谷英二は伝えようとしたのだろう。
ナチスドイツについては、犯してしまったことを現在から見ると断罪する気持ちしか持てないが、しかし本書を読むと、ナチスドイツという存在すべてを否定してしまうのもまた違うのかもしれない、と感じさせられる。例えば、本書で描かれるゲッペルスのこんな考え方などは、武力による戦闘がメインであった時代としては非常に進歩的で価値のあるものだったと言えるのではないだろうか。
『どれだけ戦闘機を量産しようと、全地球は爆撃できない。だが映画は世界の隅々まで浸透し、人の心を操作できる。近代文明においては、宣伝省こそ軍隊をもうわまわる力を発揮する。その事実を証明する好機、歴史の転換点となりうる。
武力衝突では大勢が死ぬ。一方、映画で戦争に決着がつけられるなら、人命は奪われない。いかに文明的な進歩であるか考えるまでもない』
ナチスドイツの映画による宣伝が正しく機能していたら、世界はどう変わっていただろうか?
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