【映画】「スリー・ビルボード」感想・レビュー・解説

面白い映画だったなぁ!

「正しさ」というのは、常に対立しうる。それを「法律」とか「正義」とか「ルール」とか言い換えても同じで、いつどんな時代どんな場所でも絶対的に揺るがない「正しさ」なんて、たぶんない。「人を殺しちゃいけない」っていうのは、絶対に揺るがない「正しさ」に思えるかもだけど、戦争になれば違う。洗浄では、人を殺すことが正しくなる。今の世の中で通用しているどんな「正しさ」も、100年後200年後も正しいとは限らないし、国境や民族が変われば容易に「正しさ」は変わりうる。

常に、誰かと誰かの「正しさ」は対立しうる。そういう社会の中に生きている僕たちは、仮に「正しさ」が対立した場合、その国(や集団など)の法律によって決着をつける、という仕組みを、長い闘争の歴史の果てに手に入れた。「正しさ」が対立する部分には、大抵の場合何らかの法律が用意されていて、それに沿って判断を下す、という条件を、僕らは(特に承認した記憶はないのだけど)受け入れて生活をしている。

ただ時には、「正しさ」が対立しているのに、その衝突点に必要な法律が存在しない場合もある。法律というのは、その時その時の社会の要請によって生まれるもので、例えばインターネットの存在を前提にしていない法律では、インターネット上で特有に発生する対立は判断できない。そうやって法律は、現実を反映させながら変わっていく。

だからこそ法律は、常に最新の現実には対応出来ない箇所が残ったまま存在する、ということになる。

この映画が面白いのは、まさにそんなエアポケットのような衝突点を描き出しているからだ。この映画で描かれたようなことが現実にあった場合(この映画が現実を元にしているのかどうかは知らない)、両者の「正しさ」を解消出来るだけの法律は存在しない(少なくともこの映画の舞台であるミズーリ州ではそのようだ。しかし恐らく、アメリカ全体でも、日本でも、この対立を解消できる法律はきっと存在しないだろう)。

実際には、そういうケースというのは日常の様々な場所で起こっているのだろう。僕がこの文章を書いているまさに今も、きっとどこかで、法律では解消出来ない「正しさ」の対立に巻き込まれている人がいるはずだ。

そういう人たちにとってはもちろん、僕ら皆がこの映画には無関心ではいられないだろう。いつ自分がそういう立場に立たされるか分からない。法律があれば、感情的な部分はともかくとして、「とりあえずこうしなさい」という決定が出され、社会的にはそれに従わざるを得ない。しかし、法律が存在しない場合、その決着はつかない。対立している者や集団のどちらかが諦めるのを待つしかない。

しかしその間に、当人同士だけではなく、当人たちの周囲の人間にも莫大な影響が及ぶことになる。

この映画の最も面白い点を、僕はその点だと感じた。いやもう少し説明しよう。この映画では、対立している者同士は、実は心情的には対立していない。しかし、対立しているように見える者たちの周囲の人間が、代理戦争のようにして事態を悪化させていく。そして次第に、当人同士が置き去りにされ、問題が別のフェーズとして独り歩きしていくのだ。

この点が、非常に現代的だな、と感じた。僕らが生きているこの社会でも、似たようなことはよく起こる。特にネット上では、当人たちとは関係のない「善意の第三者」みたいな人たちが、「あんなことを言うなんて可哀想」「あんなことをするなんて信じられない」みたいな、当人同士が“望んでいるかどうかも分からない加勢”をしてくる。

この映画では、3枚の立て看板という実にアナログなツールを使って、主にネット上で散見される、前述したような奇妙な現象をうまく描き出している。この点が、僕は非常に見事な設定と構成だなと感じた。

内容に入ろうと思います。
ミズーリ州のエビングという町に住むミルドレッド・ヘイズは、ある日碌に車も通らない(しかし家に帰るのにその道を毎日通る)にある、朽ち果てた3枚の立て看板に目を留める。管理会社に出向くと、最後に看板が設置されたのは1986年だとか。彼女は3枚分の看板料を支払い、看板を設置させた。
3枚には、こんな風に書かれている。
「なぜ、ウィロビー署長」
「犯人逮捕はまだ?」
「レイプされて死亡」
そう、彼女は、この町で起こった悲惨なレイプ事件の被害者であるアンジェラ・ヘイズの母親なのだ。
設置された看板は、即座に町の噂となった。エビング署は、看板の管理会社に出向くが、法律違反ではないと突っぱねられる。実際に、この看板を法律に違反していると排除することは出来ない。署長はミルドレッドの元へと出向き、説明をする。職務怠慢ではない。現実に、手がかりのまったくない事件というのも存在するのだ。申し訳ないが、打つ手がない。そしてさらにウィロビーは彼女に、自分がガンで余命数ヶ月なのだと告げる。言外に、だからあの看板を外してもらえないかと込めながら。しかし彼女の答えは「知っている」だった。「死んだ後じゃ、意味ないでしょ?」と。
息子は学校で悪口を言われ、町の神父が彼女の元を訪れ、住民が反対していると告げる。彼女に賛同してくれる者もいるが、当然反対する者も多い。なにせウィロビー署長は、人格者として通っているからだ。
それでもミルドレッドは、自分の信念を曲げることはない。あらゆる抵抗を跳ね除けたり無視したりし、時には暴力的な手段に訴えながら、娘の事件の捜査の進展を願う…。
というような話です。

実に面白い映画だった。冒頭でも書いた通り、アナログなツールを使って、現代のネット社会を皮肉るような構成も見事だし、ミルドレッドとウィロビー署長の関係性も素晴らしい。たった3枚の看板を設置しただけで町がざわつき、その余波が様々な部分に押し寄せていく展開は面白かったし、何よりも主人公であるミルドレッドがなまなかな共感を寄せ付けないキャラクターであるにも関わらず、決して嫌悪することは出来ないという絶妙な立ち位置であるという点が、役者の演技も含めて見事だったと思う。

まずやっぱり印象的なのは、ミルドレッドとウィロビー署長の関係性だ。この二人は、ミルドレッドが設置した看板のせいで対立しているはずだ。しかし実際のところ、ミルドレッドとウィロビーはある意味では理解者同士だ。ミルドレッドは署長がガンだと知った上で行動しているし、またそもそも署長自身が悪いとは思っていないはずだ。何故そう思うのか。ミルドレッドは看板を設置した後、警察官に「ウィロビー署長の名前を出す必要があったか?」と聞かれ、「誰かが責任を取らないといけないから」と答える。ミルドレッドはテレビの取材に対し、「地元警察は黒人いじめに忙しい」と皮肉を語っているが、それは決して署長を指しての言葉ではないだろう。ミルドレッドとしては、エビング署の対応には不満がある、しかしそれは署長に向いているのではなくもっと末端の人間に対してだ。とはいえ、問題に対しては誰かが責任を取る必要がある。それは署長しかいない。恐らくそういう理屈を持っているはずだ。


ウィロビー署長の方もまた、ミルドレッドを理解している。後半の方で署長がミルドレッドに掛けた言葉がまさにそれを直接的に証明しているが、前半部分でも、署長自身はアンジェラの事件を解決したいと考えていることが伝わってくるし、ミルドレッドに対する態度にも、あんたの気持ちは分かっている、というような気持ちが滲む。

そう、この映画では、本来的に対立しているはずの二人の間に、実は対立関係は存在しない、という点が、一つ大きな根っこになるのだ。しかし残念ながら、彼らの周囲にいる人間はそのことに気づけないでいる。署長は住民に好かれている。もちろん多くの住民が、アンジェラの事件ではミルドレッドに味方しているが、しかし看板の件では署長の味方をする。ミルドレッドの味方もいるにはいるが、基本的には「善人・ウィロビー署長VS悪人・ミルドレッド」という対立構造がいつの間にか作り上げられている。


この辺りが、まさに当事者を置き去りにして論争やトラブルに発展していくネットの有り様を見事に描き出していると感じられる。

自然発生的に生み出されたその対立構造に沿って、多くの人間が行動をする。これもまたネットのようだ。どちらの意見でもなかったものが、多数派が決まった時点で多数派に乗っかって突然意見を言い始める、ということもネットではよくあることだ。そういう行動をする人は、多数派の考えに沿っているのだから安全だ、という思考でしか動いていない。それが結果的に正しかったとしても、自分で考え決断をしていない時点で、そういう人たちの言動に価値が生まれることはない、と僕は考えてしまう。

別に僕は、ミルドレッドの行動が正しいと言いたいわけではない。最終手段として看板を設置する、というのはアリかもしれないけど、個人的にはそこに至るまでのいくつかのステップをすっ飛ばしているような感じがして、違和感はある。しかし、ミルドレッドの行動が完全に間違っているともやはり言えはしない。個人の力で大きな組織や現実を動かしていくことは本当に困難だ。看板の設置というのが、その一つの選択肢だったことは間違いないし、ミルドレッドはその看板の設置がどういう事態を引き起こすのかある程度予測し覚悟していただろうから(もちろん、あまりの想定外の出来事もあったが)、その上での行動なら仕方ないとも感じられる。

とはいえ、ミルドレッドの最後の決断(というか、決断は迷っているのだけど)は、ムチャクチャだなと思います。ああいう決断を知ってしまうと、見ている側としても迷いますよね。本当にミルドレッドの言動を許容してしまっていいんだろうか、と。そう感じる場面は作中に多々あって、だからミルドレッドに単純に共感も出来ないし単純に拒絶も出来ない。その複雑さみたいなものもまた、人間らしいと言えば言えるし、モヤモヤさせるような言動や決断が多々ありながらも、それでもある種スッキリしたような感覚を残す映画だと思うので、全体としては本当に見事な映画だなと感じました。

「正しさ」の対立の衝突点に、いつ立たざるを得なくなるかは誰にも分からない。もし自分がそういう立場にならざるを得なくなったら、この映画のことを思い出そうと思う。

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