【映画】「検察側の罪人」感想・レビュー・解説
「正しい」という言葉を、僕はなかなか使いにくい。
最近飲みに行くようになった人がいる。東北大学の歯学部を出た人で、とても話が合う人なのだけど、その人と研究的な話になると、その人は必ず「確からしい」という表現を使う。
実にしっくりくる表現だ。
科学の世界に「絶対」は存在しない。そこが数学との一番大きな違いだ。科学では、すべての言説が「仮説」である。どれほど多くの実験が重ねられ、どれほど多くの人がその正しさを立証しようとも、それは永遠に「仮説」だ。何故なら、それ以上の正しさが現れることを、科学に携わるものは皆知っているからだ。
最も説明しやすいのが、ニュートンの物理学だ。ニュートンが生み出した重力理論は、その後300年間その正しさが信じられていた。しかし、アインシュタインが相対性理論を生み出したことで、ニュートンの重力理論が完璧に正しいわけではないということが分かってしまった。
ここで大事なことは、ニュートンの重力理論は、決して間違っていたわけではない、ということだ。ニュートンの重力理論は、僕らが生きているごくごく一般的な世界では完璧に成り立つ。未だに、日常の出来事はニュートンの重力理論によって語られる。しかしそれは、天体などのよりスケールの大きな物体の運動を考える際には完璧ではなかったのだ。相対性理論によって明らかになったことは、物体が光速に比べてどれだけのスピードで運動しているかが、運動状態に大きく影響するということだ。僕らの日常レベルの運動は、光速に比べて遥かに遅い。だからこそ、運動方程式におけるある項目がほぼ0となり、日常的に検知できるレベルでの誤差を生み出さないのだ。しかし、運動が光速に近づけば近づくほど、その項目の影響は大きくなり、実際に検出可能な誤差を生じさせる。
ニュートンの重力理論は、僕らの日常生活のレベルでは完璧に正しかった。しかし、光速に近いスピードで運動する物体に対しては当てはまらなかった。そしてこれは、どんな物理理論に対しても同じことが言える。確実に正しいものなどない。それが分かっているからこそ、科学者は「絶対」という言葉を使わないのだ。
「確からしい」という表現は、そういう意味で、科学者的に言えば「絶対」に近い表現だ。現在の測定技術、実験手腕、統計学的な処理に照らし合わせて、現時点で最も「絶対」に近いものを「確からしい」と表現する。
物理現象というのは、僕ら人間が存在しなくても世の中に存在する。地球上からありとあらゆる生命体が消え失せたところで、それでも地球は太陽の周りを回るし、月は地球の周りを回るだろう。では、正義はどうだろうか?正義は、人間が消え失せても存在しうるだろうか?いや、それは無理だろう。正義は、人間が生み出したある種の幻想であり、人間が消えれば消えるものだ。
だからこそ、より「確からしさ」を判定するのが難しい。
僕らの外側に存在する物理現象であれば、最終的な判断は自然が決める。人間がいくら理屈をこねくり回したところで、現実の物理現象と一致しなければその理論を捨て去るしかない。しかし正義は、人間の外側に現象として存在するわけではない。だから、何らかの正義が対立する場合、その両者のどちらがより「正義らしいか」を判断するのは、人間だ。人間が決めるしかないのだ。
ともすれば正義というのは、僕らの外側のどこかにあるものだと思いたくなる。法律書や裁判所や弁護士やマスコミの存在が、まるで正義を担っていたり代弁していたりする存在に思えることがある。しかし、正義はそういう何か個別的な具体物が担保してくれるものではない。人間の共同的な幻想が、正義を決めるのだ。
そのことをきちんと認識しておかないと、僕らは正義を見誤るし、正義の暴走を止める可能性を保持できない。
内容に入ろうと思います。
老夫婦が殺害されるという事件が起こった。個人的に金貸しもやっていたという夫婦は、怨恨で殺されたのだろうと推定し、残された帳簿などから犯人の洗い出しが始まった。
検事となり4年。刑事部に配属された沖野は、同じく刑事部で刑事の相談などに載っている先輩検事である最上と再会した。二人は老夫婦の殺害事件を担当することになったが、沖野と、立会事務官である橘は、この事件への最上の態度がおかしいと気づく。容疑者の一人に松倉という男がいるのだが、彼に執着しているように思えるのだ。決定的な物証がないまま、犯行時のアリバイが立証できない松倉に焦点が当てられることとなった。別件逮捕で勾留して、自供させようという腹だ。勾留出来るのは最大で20日間。その間に松倉を落とせるかが勝負だが、しかし…。
というような話です。
なかなか面白い話でした。まさに「正義とは何か」を直球で問うような作品でした。
この作品を僕らは、冷静に捉えなければならない、と思う。
何故なら僕らは、最上側と沖野側、両方の視点で物事を見ることが出来ているからだ。
最上と沖野、両方の視点から捉えれば、正義がどちらにあるのかは明白だ。いやもちろん、それぞれの視点単独の場合でもあっても、状況にさほど変化はないかもしれない。どう考えても、一方の側には正義がない。
しかし僕らは、見方を変えれば“彼”と同じようなことをしていると言えなくもないと僕は思うのだ。
例えば、芸能人が不倫をしたとする。「不倫をしたという事実」は確かであるとしよう。証拠もあり、事実は明白だ。しかしそれを以って、「芸能人として失格である」という怨嗟を世間は突きつけることに、道理は通っているだろうか?
「不倫をしたという事実」と「芸能人として成したこと・与えてきたもの」というのは、本来的には関係がない。どちらも同じ人間がしたことであり、確かに人間の総体としては、その両者を足し合わせて判断されるべきだろう。しかし、不倫と芸能人としての活動は、僕の価値判断では、時間的にも空間的にも分け隔てられている。両者を一緒くたにして「芸能人としてのあなたを糾弾する」という態度は、僕は成り立たないと考えているのだ。
しかし、世間の人々は、そういう態度を取ろうとする。いや、そういう態度を取らない人間も多いかもしれないが、マスコミがあれだけ不倫の問題を取り上げるということは、そうすると雑誌が売れ、視聴率が上がると見込んでいるからだ。であれば、やはり世間がそれを望んでいる、と考えるしかない。
僕の感覚では、この世間の態度と“彼”の判断に、そう差はないと思う。もちろん、“彼”の決断・行動の方が、圧倒的に悪ではある。しかし、同じベクトル上にあることだと僕には感じられる。“彼”も、時間的にも空間的にも分け隔てられている状況を一緒くたにして、ある断罪をしようとする。確かにそれは間違っていると判断されるべきことだし、多くの人がそう感じるだろう。しかし、本質的にそれと同じことを、世間の人は日常的にやっている、と僕は感じるのだ(もちろん、不倫以外の状況では、僕自身も同じようなことをしている場面があるだろう。「世間の人」と他人事のように書いているが、そこには僕が含まれることもある)。
そういう意味で僕は、“彼”の視点で状況を捉えた時に、「世間の人も本質的に同じことをしている」という理由で、世間が“彼”の行動を断罪する権利はない、と感じるのだ。
なるべくネタバレをしないように書こうと思っているのでぼんやりとした話になってしまう。これ以上作品内容について触れるのは難しいので、予告の話をしよう。
この映画は、予告の使い方が絶妙に上手いと感じる。予告でよく流れていたのは、こんな場面だ。
【僕には松倉が犯人だとは思えません。たとえ凶器が出てきたとしてもです】
【そこにケチをつけるのは、事件を解明しようとする者のすることじゃない。検事でいる意味がない!】
このセリフは、予告と映画本編では印象がまったく変わってくる。なるほどな、と思う。予告を見ているかどうかで、映画本編の見方が若干変わるような気さえする。どちらの見方が良いのかは判断できないが、僕は予告を見た上で本編を見て良かったように感じている。