【映画】「ホテル・ムンバイ」感想・レビュー・解説

自分がその場にいたら、どう決断するか、それは、その時じゃないと分からない。
ただいつも思う。
「しなかった後悔」を抱えたまま、ずっと生き続けるのは嫌だな、と。

ただ、同時にこうも考えてしまうだろう。
自分たちとはまったく住む世界が違う大金持ちたちを助けるために、命が張れるだろうか、と。

どうせ死ぬなら、誰かのために死にたい、という気持ちはいつもある。
そもそも、「生きること」にものすごく執着があるわけでもない。
死の恐怖に直面したことがないからこんなことが言えるんだろう、ということは分かっているんだけど、それでも、「まあ別にいつ死んでもいいか」と思っている。
だったら、どうせなら、誰かのためになった上で死にたい気がする。

もちろん、そんな機会はそうそうないだろう。
だからきっと、僕は普通かあるいは普通以下の死に方をするだろうし、まあそれはしょうがない。

しかし。
誰かのために死ねるかもしれない、という状況を前にして、それでもなお決断できるかは分からない。
助けるべき相手を、選べるわけでもないし。

大体、死に直面する状況下は、逼迫している。
だから、相手がどんな人物であれ、「相手を助けるかどうか」などと逡巡している時間はないだろう。
しかし、今回は違った。
ホテルのスタッフたち(全員ではないが)には、選択の余地があった。
「逃げても恥ではない」と料理長に言われ、ホテルから脱出したスタッフの選択は正しい。
相手が金持ちだろうがそうじゃなかろうが、自分の命が助かる可能性が高い選択をするのは当然のことだと思う。

僕があの場にいたら、やっぱり考えてしまうだろう。
助けるべき相手が、金持ちの外国人である、という点について。

僕はきちんと理解している。
僕は別に、人道的・道徳的な理由から、誰かのために死にたいなどと言っているのではない。
そうではなくて、自分の納得のためにそうしたいのだ。
自分が、「誰かのために死ぬことができた」と死ぬ一瞬前に思いたいがためにそうしたいのだ。
あくまでも、自分の都合でしかない。

自分の納得のためなのだから、どうせなら、自分の身近な人、大切な人を助けるためであってほしい。
金持ちの外国人は嫌だなぁ、と思ってしまうだろう。
ただ、そもそも、こんな風に考えている人間に助けられても嬉しくない、という部分もあるだろう。
と考えて、僕はホテルから脱出するかもしれない。
自分勝手な人間である。

僕自身がそういう人間だから、彼らホテルスタッフの奮闘は、やはり凄まじいし、やっぱり自分には出来ないかもしれない、と思う。
本当に、映画を見ているだけで、メチャクチャ怖かった。
何度か、座席から飛び上がったぐらいだ。
「フィクションだ」と分かっていても、こんなに怖いのだ。
実際の現場は、どれほどの恐怖だっただろう。

その中で彼らは、殺される可能性が高いと知りながら自らの意志で残り、宿泊客を可能な限り最後まで守り通した。
うん、やっぱり、僕には出来なさそうだ。

内容に入ろうと思います。
2008年11月26日、インド・ムンバイで実際に起こった凄惨なテロ事件をモチーフにしている。
アルジュンは、2人目の子どもを妊娠する妻と3人で生活している。バラックのような貧しい住まいだが、観光地であるムンバイにあるタージマハルホテルで働き、家族を養っている。タージマハルホテルは100年以上の伝統を持つ格式あるホテルであり、政治家やセレブの御用達となっている。
革靴をどこかで無くしてしまったアルジュンは、服装チェックで料理長のオベロイにはじかれそうになったが、身重の妻がいるのでなんとか働かせてほしいと懇願し、予備の靴を借りてフロアに出た。
この日のVIPは、アメリカ人の建築家夫婦と、気難しい実業家。赤ちゃんを連れてやってきたデヴィッドとザーラ夫妻は、ベビーシッターのサリーと共にスイートルームへ。実業家のワシリーはレストランで、この後のパーティーのための美女を電話で予約している。
いつも通りの夜、のはずだった。
犯人グループは、船でムンバイに着き、CST駅やカフェ・リロパル、タージマハルホテルなどに散った。まずCST駅で無差別の銃乱射、それからカフェ・ホテルと襲撃を続ける計画だ。
彼らは、ホテルのロビーでライフルを用意すると、なんの説明も要求もせず、スタッフや宿泊客を撃ち続けた。彼らは、遠くから電話越しに指示を出すリーダーの声を時折聞きながら、客室にまで踏み込んで殺戮を繰り返す。
レストランでディナー中だった面々を、6Fのチェンバーズラウンジまで案内した料理長は、ここで待っていれば救助はすぐに来るとなだめる。しかし地元警察にはテロ集団には対処できず、特殊部隊はムンバイから1300キロも離れたニューデリーにいて、到着まで時間が掛かることを知らなかった。ベビーシッターのサリーと離れ離れだったデヴィッドは、ザーラを部屋に残し、赤ちゃんのいるスイートルームへと戻ろうとする…。
というような話です。

凄かった。とにかく凄かった。さっきも少し触れたけど、臨場感がとにかく凄くて、スクリーンで見ているだけなのに、ムチャクチャ怖かった。ホラー映画なんかより全然怖い。自分がタージマハルホテルにいるかのような臨場感で、もちろん、実際あの現場にいた人たちが感じた恐怖の何千分の一でしかないけど、その凄まじい恐怖を味わった。

あの現場にいて、人間として真っ当に行動しろ、というのがいかに難しいか、見れば分かる。

そういう中で、タージマハルホテルのスタッフたちは、成すべきことを成した。もちろん、そのすべてが上手くいったわけではない。助けられなかった人もいる。状況を悪化させてしまうこともあるし、誰かを犠牲にしてしまうこともある。しかし、それらはすべて、仕方ないことだ。スタッフも宿泊客も、誰も悪くはない。すべて、テロ集団が悪い。

誰もが、頭の片隅ではそう理解しているだろうが、それでも、やはり近くにいる人間に八つ当たりし、疑い、混乱を伝染させた。自分が宿泊客としてあそこにいたとして、どこまで冷静でいられたかは分からない。

主軸として描かれるのは、スタッフのアルジュンと、ザーラたちだ。特に、赤ちゃんと一緒にいるサリーと、赤ちゃんと離れ離れになってしまったデヴィッド夫妻の描写は、迫るものがある。特に僕は、サリーの恐怖は凄まじかっただろうと思う。あの状況で自分の子どもを守るのであっても相当な恐怖だろうに、サリーに課せられたのは、他人の子を死なせてはならないという使命なのだ。このプレッシャーは凄まじかっただろう。もちろん、サリー自身も死にたくないと思って行動しただろうが、いかに赤ちゃんを死なせないか、ということが、この脱出劇の重要な軸となっていく。

僕が一番印象に残っているシーンは、受付係が電話をしているシーンだ。あれは、あまりに残酷だ。あの状況になってしまえば、ああいう選択をするしかなかっただろう。これを勇気と呼びたくはないが、勇気のある決断だったと思う。映画全体は、かなり事実に基づいた描写だと思うが(生存者の証言に基づいているのだろう、と判断可能なシーンが多い)、この受付係の電話のシーンは、実際にあったかどうかは不明だ。映画的な脚色かもしれない。脚色であってほしい。

映画では、実際の報道映像も多数使われていた。映画の臨場感も凄いが、やはり実際の臨場感は凄まじい。しかし、一つ理解できないことがあった。というか、そんなこと、ホントに報道してたのか?ということだ。ニュースの報道で、「チェンバーズラウンジから多数の宿泊客が脱出する」と報じていた。そして、それを聞いたテロ集団が、チェンバーズラウンジに向かうのだ。犠牲の一部は、この報道のせいではないかと思う。ちょっと信じられなかった。

このテロ事件の後、ホテルは21ヶ月後に修復され、再度オープンしたという。当時のスタッフの奮闘に感謝をしている世界中の人たちが再び訪れたという。

タージマハルホテル襲撃による被害者の半数は、残った従業員たちだったという。

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