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【本】内田樹「サル化する世界」感想・レビュー・解説

相変わらず、内田樹は抜群に面白い。

本書のタイトルは、「朝三暮四」のモデルとなったサルのことを指しているのだそう。「朝3粒 夕方4粒」だろうが「朝4粒 夕方3粒」だろうが総和は変わらない。しかし後者の方を喜ぶのは、未来の自分が抱え込むことになる負債やリスクは「他人事」だと思っている、ということだ。それは、「今の自分」と「未来の自分」の自己同一性が失われている、ということだが、同じことは「自分」と「他人」でも言える。つまり、自分さえ良ければそれでいい、と考えるということだ。

【自己同一性が病的に萎縮して、「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」と思い込む人たちが多数派を占め、政治経済や学術メディアでそういう連中が大きな顔をしている歴史的趨勢のことを私は「サル化」と呼ぶ】

確かに、大雑把には、本書全体をこの「サル化」という括りに入れられるかもしれない。しかし本書は、内田樹らしく、様々な方向に話題の枝が伸びていく。縦横無尽だ。政治・歴史・教育・労働・社会など多岐に渡るが、やはり教育の話は非常に面白い。

著者が、日本における英語教育について語る章がある。内田樹の批判はシンプルで、「外国語を学ぶ理由は、目標文化へアクセスすることのはずだが、今の日本の英語教育には目標文化がない(あるいはそれは日本である)」ということだ。

例えば内田樹が子供の頃は、アメリカの文化に触れたくて英語を学んだ。中学に入って英語を学べるとなってワクワクしたという。英語を学ぶことは、アメリカ文化という「目標文化」へアクセスするための手段。これが、内田樹による外国語学習の簡易な定義です。

しかし、文科省の『「英語が使える日本人」の育成のための行動計画の策定について』にはこう書いてあるという。

【今日においては、経済、社会の様々な麺でグローバル化が急速に進展し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を越えた移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。それとともに、国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦が求められています。(中略)
現状では、日本人の多くが、英語力が十分ではないために、外国人との交流において制限を受けたり、適切な評価が得られないといった事態も生じています】

内田樹はこの文章について様々に考察しますが、それらをシンプルに、「外国語なんか別に学ぶ必要はないのだが、英語ができないとビジネスができないから、バカにされるから、だから英語をやるんだ」と意訳しています。

そしてその結果、英語力は劇的に低下している。それは当然のことで、教育に利益誘導を持ち込んでしまっているからです。「学べばこんないいことがある」と伝えると、学習意欲は明らかに減退するという。その理由は、

【努力した先に得られるものが決まっていたら、子どもたちは最少の学習努力でそれを獲得しようとするに決まっているからです】

ということになる。これを著者は、わかりやすくこう説明する。書店に「3ヶ月でTOEICのスコアが100点上がる」という本の隣に、「1ヶ月で100点上がる」という本があれば、誰だって後者を買う、と。達成目標が決まっているなら、あとはいかに労力を掛けずにそれを得るかを考えるのは合理的だからです。

また、「英語ができないとビジネスができない、バカにされる」と脅して英語を学ばせようとしているということは、「子どもたちが学習したがっていない」ということを前提にしている。内田樹はこの態度に対して、

【学校教育とは、一人一人の子どもたちが持っている個性的で豊かな資質が開花するのを支援するプロセスであるという発想が決定的に欠落しています】

と書いていて、まさにその通りだなと感じる。

そもそも外国語の学習は、そういうものではない。

【外国語を学ぶことの本義は、一言で言えば、「日本人なら誰でもすでに知っていること」の外部について学ぶことです。母語的な価値観の「外部」が存在するということを知ることです。自分たちの母語では記述できない、母語にはその語彙さえ存在しない思念や感情や論理が存在すると知ることです】

【外国語を学ぶことの最大の目標はそれでしょう。母語的な現実、母語的な物の見方から離脱すること。母語的文節とは違う仕方で世界を見ること、母語とは違う言語で自分自身を語ること。それを経験することが外国語を学ぶことの「甲斐」だと思うのです】

これは、明確な達成目標ではない。何故なら、学ぶ以前には何を得られるのか具体的に想像できないからです。文科省の文章では、「外国人とバカにされずに話せるようになること」が達成目標で、これは学習前からイメージが可能だ。しかし、「母語では表現できないことを学ぶこと」が外国語学習の本義なのだから、母語のみの状態では得られるものはイメージしようがない。これであれば、先程の利益誘導のような、最少のコストでリターンを得よう、という発想から切り離すことができる。

またその一方で、本書では、母語の重要性についても触れる。

【母語を豊かなものにするというのは、あらゆる言語集団にとっての悲願です。というのは、すべての知的イノベーションは母語で行われるからです。】

【外国語を習得するというのは「母語の檻」から出て知的なブレークスルーを遂げる貴重な機会なのですけれど、私たちは他の誰にもできないような種類のち的イノベーションを果たすためには、それと同時に母語のうちに深く深く分け入ってゆくことが必要なのです。本当に前代未聞のアイディアというのは母語によってしか着想されないからです】

フィリピン人が英語が上手いのは、フィリピンが植民地で、母語を豊かにする機会を制度的に阻まれたからだ。日本は、明治時代に欧米から入ってきた新しい概念を、「自然」「社会」「個人」「哲学」など漢字二字熟語に置き換えた。日本はこのように、在来の母語の上に欧米由来の概念を漢訳して組み込んだから、短期間で近代化を成し遂げられた。しかし中国は、欧米から入ってくる概念を単に音訳した。欧米からの概念を漢訳してしまえば、「それらの概念がもともと中国には存在しなかった」ということを認めることになり、世界の中心は中国だという「中華思想」に馴染まない。しかし、そういう抵抗があったから近代化が遅れたのだ。

などなど、母語との関わりをベースにして、著者は様々なことを論じる。

これらを踏まえた上で著者は、

【学校教育の場で子どもたちに教えるべきことは、「君たちは君たちの言語の虜囚である」ということです】

と書く。外国語を学ぶことで、母語の外部に出られる。さらに、母語の外部があることを知った上で、さらに母語に深入りする。それによって、新たな知的イノベーションが生み出されるのだ。

という話でした。

また、改訂された学習指導要領に登場した「論理国語」の話題から、「論理的とはどういうことか」について書かれた文章も面白い。

「論理国語」というのは要するに、契約書や例規集がちゃんと読めるようにしましょう、ということを教えるようだ。しかしそれは、「論理」や「論理的」という言葉の意味を間違って捉えている、と著者は指摘する。

「論理」というのは、「飛躍のための助走」だという。著者は、シャーロック・ホームズの推理を例に出す。ホームズは、目の前にある様々な情報から、「こうであればこう」「こうだったらこれしかない」と論理的に考えていく。そしてその論理の行き着いた先が、どれほど非常識であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信する。「論理的に考える」というのは、「論理を積み重ねることで、非常識的な結論に達してもそれを受け入れる」ということで、著者はこれを「勇気」と呼ぶ。

【論理的にものを考えるというのは「ある理念がどんな結論をみちびき出すか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。
ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです】

そういって著者は、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式でしたスピーチを引用する。大事なのは「心と直感」ではなく、「心と直感に従う勇気」だといったジョブズの言葉を。

しかし、学習指導要領を作成する官僚は、「勇気」とは真逆の生き方をしてきた、と指摘する。彼らは子どもの頃から現在に至るまで、「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達することで地位を築いてきた。だから彼らは、「怯える人間は成功する」と信じている。だからこそ、「勇気を持たせること」にはまったく関心がないのだ、と。

「論理的であること」が「勇気」と結びつくという発想はなかったので、非常に面白い。

政治の話では、「気まずい共存について」という文章が興味深かった。これは、2017年に行われた「大阪について知ろう。市民大集会パート2 大阪問題」というイベントの基調講演で話したことだそうだ。

ここで指摘される、「自分を支持する人間だけしか代表しない人間は、公人ではなく、権力を持った私人」という話は、なるほどと感じた。民主主義では、多数決で物事が決まるが、多数を制して選ばれた人間は多数派の代表ではなく全体の代表だ。つまり、反対派を含む組織全体の代表なのだ。これが「公人」ということだが、今は、多数派の代表、つまり「権力を持った私人」に留まってしまうことが多い。

確かにその状態には不満があるし、モヤモヤする。しかしだからこそ著者は、対立する人間を敵と見做すのではなく、受け入れるしかない、という。

【自分に反対する人間はすべて敵だ、潰す、という政治的立場の人に対する根源的な批判は、「われわれは自分に反対する人間をすべて敵だとは思わない。反対者を含めて、同じ集団に属するすべての人々を代表する用意がある」と意地でも言い切るしかない。】

厳しい要望だけど、でも確かに、論理的にはその通りだなぁ、と思う。「自分に反対する人間はすべて敵だ」と言っている人間に対して、「私はあなたに反対だからあなたは敵だ」と言ってしまえば、相手とまったく同じ土俵に立つことになってしまい、批判足り得ない。そこから脱するためには、「あなたとは意見は違うが敵ではないし、自分が多数を制しても、あなた方を含めた全体を代表する用意がある」と言わなければならない、というのは、確かになぁ、と思う。難しいですけどね。

【何よりも、日本の政治文化をもう少し、大人のものに、成熟したものにしないといけないと思うんです。自由な言論がなされ、多様なアイディアが行き交って、そこで化学反応が起きて、まったく新しいものが生まれる。そういう自由な言論の場を確保しないともうどうにもならない。そのためには、理路整然と舌鋒鋭く政敵を批判するということはもうあまりしなくてもいいんじゃないかと思うんです。そんなことをしても少しも世の中は住みやすくならないから】

具体的に名前は出してませんけど、誰のことを言っているのかなんとなく分かる発言ですよね。

またそんな政治文化になってしまった理由についてもこう書いている。

【日本の政治文化が劣化したというのは、シンプルでわかりやすい解をみんなが求めたせいなんです。正しいか間違っているか、敵か味方か、AかBか、そういうような形で選択を続けていった結果、日本の政治文化はここまで痩せ細ってしまった。】

【今の日本の状況で一番僕が困っていることは、みんながシンプルでわかりやすい単一解を求めているということです。たった一つの「正解」があって、それを「選択」して、そこに全部の資源を「集中」するという「選択と集中」の発想をしたがる。だから、切り口上でまくし立ててくる。「この案に反対なんですか?反対なら、対案を出しなさい。対案なければ黙っていなさい」と。そういう非常にシンプルな問題の設定をしてくる。そのことがわれわれの生き方をとても息苦しいものにしていると思うんです】

この点について、「死刑について」という章にもこんな文章がある。

【世の中には、答えを出して「一件落着」するよりも、「これは答えることの難しい問いである」とアンダーラインを引いて、ペンディングにしておくことの方が人間社会にとって益することが多いことがある。同意してくれる人が少ないが、「答えを求めていつまでも居心地の悪い思いをしている」方が、「答えを得てすっきりする」よりも、知性的にも、感情的にも凄惨敵であるような問いが存在するのである
そういう問いは「喉に刺さった小骨」のように、刺さったままにしておく。そうしているうちに、いつのまにか「小骨」は溶けて、喉を含む身体そのものの滋養となる(ことがある)。】

こういう状況に対して、「気まずい共存」や「ためらう知性」が必要である、という著者の主張は、ゴリゴリに理屈を押し通して議論を展開させながら、意見が異なる人と妥協点を見いだせずに永遠に平行線のままという不毛さよりも、遥かに有益だろうという感じがする。まあ、実践はなかなか難しいのだけど。

他にも書きたいことはたくさんある。マッカーサーは、大統領選挙に打って出るために日本国憲法の起草を急ぎ、そのために「戦争放棄」とバーターで「天皇制の存続」を打ち出したという、加藤典洋『9条入門』の論を借りた議論。日本人が敗戦を否認し続けたことが戦後日本システムの不調だと主張する白井聡『永続敗戦論』をきっかけに、じゃあフランスやイタリアは敗戦をどう総括したのかについて論じる章。相互支援の共同体は、行政の支援からではなく、私人の「もちだし」の総和が「公共」の形を取ることで生まれるのだという話。アヴィシャイ・マルガリート『品位ある社会』をベースに、正義という理想を目指すのではなく、今あるリソースを使ってたどり着ける「品位ある社会」を目指すべきではないか、という話。週刊誌が嫌韓言説を載せたことを謝罪したことについて、「主張するなら腹を括れ」という著者の主張と共に、「処罰されないことが保証された環境下での振る舞いによって人間性が可視化される」という話。などなど、面白い話ばかりだ。しかしそれらについて書くとまだまだ長くなるので、最後に、「仕事はいくらでもある」という話の例として出てきた「鎧の修復」の話を引用して終わろうと思う。

【あと、若い人には仕事は世の中に無数にあるということを伝えたいですね。無数にあるけれど、一つ一つの求人数は少ない。そういう求人情報は若い人たちのもとには届かない。求人と求職をマッチングするシステムがないからです。僕が聴いた話で面白かったのは「鎧の修復」の仕事です。
―鎧の修復者!?それまた随分ニッチな(笑)。
日本の鎧兜って、世界中の博物館、美術館に展覧してあるでしょ。でも、繊維や皮革は必ず経年劣化する。だから、それを定期的にメンテナンスする専門職が要るんです。受注件数はたいして多くないけど、ニーズは安定している。その修復技術の後継者がいないらしいんです。年収2億円ぐらいになるんだけど、誰かやる人いないかなって話を聴きました(笑)。
―そんなに儲かるんですか!
でも、そういう仕事って、「やります」っていう人が3、4人もいたら、それでもうあと何十年かは間に合っちゃうわけですよね。だから、求人広告を出すほどでもない。何かのはずみで聞きつけてきた人がいたら「語円があった」というような話です。刀鍛冶とか能楽師とか、後継者がなくて困っている業種って、いくらでもあります】

面白い話ですね!

内田樹の文章は、仮に主張そのものに共感できないとしても(そういうことはほとんどないけど)、主張に至るまでの論理展開が非常に明快で、それでいて、今まで自分では考えもしたことがなかったような思考展開なので、非常に面白く感じます。平易なのに、なるほどそんな思考の展開のさせ方があったのか、そんな物の見方があったのか、という発見に満ちあふれています。なかなか過激だったり、同意してくれる人が少ない主張もするようですが、仮に共感できる主張が少ないとしても、思考展開に興味を持つことは出来るはずなので、是非読んでみて下さい。


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