【映画】「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」感想・レビュー・解説

問いが間違っている、というのは明白だ。
それは、問うべきではない問いなのだ。
その問いに答えなければならない状況が存在することそのものが間違っているのだ。
そのことは、間違いない。

しかし、問いが間違っていても、答えを出さなければならないことは、世の中にはたくさんある。

5人を救うために1人を殺してもいいか―。
僕がこの問いに出会ったのは、「これからの正義の話をしよう」という本の中でだ。
この中で、暴走する列車を例に出し、その列車に5人が轢かれる状況を回避するために1人を殺す選択をしていいか、という問いが投げかけられるのだ。
その本の中で、どんな議論が展開され、どんな結論が出たのか、僕は覚えていない。しかし、問い自体が間違っているのだ、という感覚は、今でも残っている。

この映画でも、同じ問いがなされる。
80人以上の人間が死ぬ可能性がある状況を回避するために、1人の少女を殺してもいいのか―。
冒頭で書いたように、明らかに問いが間違っているのだし、この問いに答えを出さなければならない状況自体が間違っているのだ。
しかし、この問いを突きつけられ、答えを出さなければならないとしたら、あなたならどうするだろうか?

自分が、どの立場にいるのかによって、きっと答えは変わる。これは、「これからの正義の話をしよう」の中でも指摘されていた。レールを切り替えることで5人いる方から1人いる方に列車を進ませるという選択であれば、1人を殺すことに抵抗を感じない人はそれなりに多かった。しかし、自分の手でその1人の背中を押して暴走列車にぶつけて止める、という選択の場合、躊躇する人が多かった。自分が直接手を下すか否か―これが、状況判断に大きく影響する。

先程の80人の問いに戻る。この場合、状況を単純化すれば、「決断する人間」と「ミサイルのボタンを押す人間」で判断は大きく変わると思う。

もし僕が「決断する人間」であれば、80人を救うために1人の少女を殺す決断を、仕方ない判断だとして決定してしまうだろうと思う。少女が死なない可能性もある、という状況であればなおさらだ。

しかし、もし自分が「ミサイルのボタンを押す人間」だったら、すんなりと同じ決断が出来るかは分からない。ミサイルのボタンを押す自分にとっては、80人を殺すのは別の人間だが、1人の少女を殺すのは自分だ。この状況の違いはとても大きい。確かに、80人の命を救いたい。しかし、自らの手で1人の少女の命を奪いたくもない。

この葛藤から逃れることは、とても難しい。

さらに状況を難しくしているのは、「自分の命はどんな選択をしても安全だ」という状況だ。

例えば、人対人の銃撃戦であれば、自分の命も危険にさらされている。相手を殺す、という判断には、自分が死にたくない、という願望も含まれる。もちろん、人を殺すことは良くない。良くないが、しかし自分が死ぬよりはマシだ。そういう判断が葛藤を消す可能性はあるだろう。

しかしこの映画で描かれている状況では、自分が死ぬことはありえない。

「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ」というのは有名なセリフだが、こと現代の戦争に限っていえば、「現場」と「会議室」が同一のものになっている。無人偵察機が上空2万フィートから「現場」を偵察し続けることで、「会議室」でも状況をリアルタイムに知ることが出来る。同じく、「会議室」から無人偵察機でミサイルを発射すれば、「現場」を壊滅させることが出来る。現代の戦争はまさに、「会議室で起こっている」のだ。

自分の身が危険に陥るわけではない状況で、人を殺す決断をしなければならない。誰かが80人を殺すのか、自分が1人を殺すのか―。難しすぎる問いだ。

正しさ、というのは、どんな評価軸を選ぶかによって変わる。どんな評価軸に照らしても正しい、なんていうことはほとんどない。正しさは、状況や時代によっても大きく変わる。その中でどんな選択を積み重ねることが出来るのか―。結局僕らに問われていることは、そういうことだ。

内容に入ろうと思います。
イギリス軍のパウエル大佐は、ケニアのナイロビで、アル・シャルブというイスラム系過激派組織に属する最重要人物を捉えた。6年間追跡して、ここまで接近できたのは初めてだ。当初の計画では、彼らのアジトに捕らえるべき人物が全員揃ったところで、ケニア軍の地上部隊が突入、全員を捕獲するという作戦だった。
しかし状況が変わる。イギリス国籍の女が到着するのを待っていたのだが、その女と思しき人物が建物内部から出てきた。しかも彼らは別の場所に移動するようだ。その女がターゲットであると確認できなければ作戦の決行は出来ない。しかし彼らは、アル・シャルブの支配地域にある民家に移動してしまった。仲間である現地の男にその民家に接近させ、<虫>と呼ばれる小型カメラで建物内部を撮影することで女の身元は判明した。ここでパウエル大佐は、無人偵察機<リーパー>に搭載しているヘルファイアで民家を爆撃すべきと提言するが、計画はあくまでも殺害ではなく捕獲だったはずだと、<コブラ>と称される内閣府のメンバーに反対される。
しかし、状況がさらに変化する。<虫>は、建物内部で自爆テロの準備が進行していることを知らせてくる。彼らが自爆テロに及べば、少なくとも80名以上の一般市民が犠牲になる。一刻も早く爆撃の決断をしなくては。しかし<コブラ>では議論が割れる。決定権を持つはずの閣外大臣も、より上位の立場の人間からの許可を得るべきと判断を保留する。ジリジリしながら決断を待つパウエル大佐。<コブラ>では果てるとも尽きない議論が繰り返される。

ようやく決断が出た頃、さらに状況が変化する。なんと、攻撃目標である民家の前で、少女がパンを売り始めたのだ…。
というような話です。

非常に緊迫感のある物語であり、さらに難しい問いを投げかける作品だと感じた。

彼らがどんな葛藤の中に置かれているのか、ということは冒頭で触れた。ここでは、そうではない部分に触れていこう。

まず感じたことは、決断を下すものの優柔不断さだ。
何も僕は、爆撃の決断をもっと早く下すべきだ、と言いたいわけではない。爆撃しないという決断でも構わない。いずれにしても、決断をするのが遅すぎる。確かに難しい決断ではある。しかし、状況は明白なのだ。少なくとも、交戦規定という、戦争における法律(もちろんこれも、強者が作った法律だろうが、とりあえずその議論はここではしない)の問題はクリアされている。少なくとも、目の前の状況で爆撃をしても、交戦規定に違反したという判断はなされないだろう、という判断は、既になされている。

残されたのは結局、人道的な問題だけだ。そしてこれは、冒頭でも書いたように、問いが間違っているのだ。誰からも文句の出ない正解など存在しない問いなのだ。そのことも、その場にいる人間は全員分かっていたはずだ。

しかし彼らは、誰からも文句の出ない正解がないかと判断を遅らせる。もちろん、その可能性があるならば、保留して状況を精査すべきだろう。しかし、僕の判断では、この状況における、誰からも文句の出ない正解など存在しない。繰り返すように、問い自体が間違っているからだ。

だから、文句が出てくる可能性を受け入れながら、何らかの決断をしなければならない、と思う。僕には、そんな決断は出来ない。しかし彼らは、そうすべき立場にいる。そういう決断をしなければならない可能性を知った上で、その立場にいるはずなのだ。だからこそ彼らは、もっと早く決断をしなければならなかった、と僕は思う(もちろんこれは映画だから、早く決断したらそこで物語が終わってしまうから、そこに文句をつけても仕方ないのはわかっているのだけど)。

こんなセリフがあった。

『政府が戦争を始める。闘うのは軍だ』

これは、政治家の判断の遅さによって作戦を台無しにしないでくれ、という意味が込められている。彼らの決断が正しかったのか、僕には分からない。というか、正しい決断などない。そういう中でどう行動しなければならないのか。そういう意味で、この判断をする上で、政治家は役に立たないのだなと感じた。

またこの映画では、ヘルファイアのボタンを押す者の葛藤も描かれる。
彼は確かに軍人ではあるが、「奨学金返済のため、4年の勤務が保障される」という理由で軍に入った若者だ。これまで、偵察任務しか行ったことがない。軍人としての経験が豊富なわけでもない。そんな彼に、実に困難な状況でミサイルを撃つように命令が下る。

彼の葛藤は、相当なものだろう。しかし、良くは知らないが、軍というのは上官からの命令は絶対だろう。そういう中で、彼がどんな決断をするのかというのは、見ている者にとっても迫るものがある。

パウエル大佐に対しては、相反する気持ちがある。一つは、自らの「爆撃すべき」という決断のブレなさに感心するものだ。パウエル大佐は、少なくとも悩んでいるそぶりは見せない。彼女にとっては、爆撃は、絶対的に不可欠な選択なのだ。上官として指示を出すべき人間として、この決断力とブレなさは賞賛すべきかもしれない、という風に感じる。

しかしその一方で、この絶対的な自信が危うい、と感じる自分もいる。自分の行動が、もしかしたら間違っているのではないか、という躊躇みたいなものは、どんな場面でも必要だろう。絶対的な正しさなど、世の中には存在しない。これが絶対正しいのだ、と強引に主張し行動することが大事な場面ももちろんあるだろう。しかし、パウエル大佐の立っている状況は、人間の命が関わっているのだ。そういう状況で、あの自信は、怖いなという風にも感じるのだ。

何度でも繰り返すが、問い自体が間違っている以上、正しい答など存在しない。人の命が絡むかどうかはともかく、こういう、それ自体が間違っている問いに答えを出さなければならない状況に、誰しもが立たされる可能性があるだろう。そういう時、自分は何を評価軸にして決断をするのか。そういうことを考えながら見てほしい。

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