見出し画像

【本】辻村深月「島はぼくらと」感想・レビュー・解説

内容に入ろうと思います。


舞台は、瀬戸内海に浮かぶ「冴島」。本土とフェリーで20分ほどのところにあり、朱里・衣花・新・源樹の四人は、冴島から毎日フェリーで本土の高校に通っている。


網元の娘である衣花や、冴島でリゾートホテルを経営するためにやってきた経営者の息子である源樹、外部の協力者と一緒に立ち上げた「さえじま」という会社で押し付けられるように社長になった母を持つ朱里、冴島保育園の園長であり人間関係の狭い島の中でもかなり顔が広い母を持つ新など、それぞれ島の中でちょっとした立ち位置を占めながらも、そんなことに関わらず、子供の頃からずっと一緒に過ごしてきた四人として、そして、島から出ていかなくてはいけない未来がほんのすぐ先まで迫っているという環境の中で、彼らは島を愛し、仲間と楽しみ、島のあらゆることに関わっていくことになる。


冴島は、現村長の手腕によって、Iターン者の集まる島となった。シングルマザーたちが駆け込み寺のようにこの島にやってくることもあるし、デザイナーや作家など離れた土地でも仕事が出来る人たちが移り住んでくるケースも多い。離島をもり立てるという意味で現村長の手腕は島民から称賛されているし、「地域活性デザイナー」という肩書きを持つ谷川ヨシノという女性の関わりもあって、島はどんどんと活気溢れるようになっている。

しかしその一方で、元からの住民とIターン者との考え方の溝みたいなものはやはり存在し、朱里たちもIターン者と関わることで、様々な価値観に触れ、様々に考えさせられることになる。


シングルマザーとして島にやってきた、一時テレビで見ない日はなかった程の有名人であった蕗子、ぼーっとしていると言われ「頼りないイマドキの若者」と言われてしまう本木など、長い時間を掛けて島に溶け込んでいったIターン者もいるが、その一方で、瞬間的にやってきてすぐ立ち去っていくような人もいる。この間はフェリー内で、著名な作家が書いたはずの演劇の脚本があるはずだと言って、胡散臭い男が島にやってきたばかりだ…。


というような話です。いや、全然内容紹介になっていませんけど。
辻村深月らしい、優しさと鋭さを内包した作品だなと感じました。やっぱり良い作品を書くなぁ。


まず、設定が絶妙だと思う。


僕は以前「水底フェスタ」の感想の中で、『閉じ込められている感』について書いたことがある。


僕的に、辻村深月の最大の魅力だと感じている点は、少年少女たちが「学校」という酷く閉塞的な環境に閉じ込められている、その窮屈さを絶妙に描き出しているからだ、と思っている。だからこそ、少年少女たちを描く作品の場合突出して良さが浮き出るのだ、と。でも、「水底フェスタ」は大人たちの物語だった。これでは、少年少女たちが日々感じている『閉じ込められている感』を描き出すことは難しい。


でも、「水底フェスタ」では、閉塞感のある村が舞台となっている。その村の存在が『閉じ込められている感』を一手に引き受けることで、辻村深月らしさを全力で放出出来たのではないか、というようなことを書いたことがある。


そしてそれは、本書でも近いものがある。


本書は、視点人物は高校生四人だが、描かれる人物は全年齢に幅が振れている。そういう意味では本書も、少年少女の物語だとは言えない。


しかし本書でも、本土から離れフェリーで行き来しなければならず、それゆえ、人間関係が本土以上に濃密になり、独特な濃度を持った人間関係が長いこと熟成され続けている離島を舞台にすることで、その『閉じ込められている感』が見事に描き出されている。こういう舞台設定はやっぱり、辻村深月らしさを全開で引き出すなぁと思います

さらに本書の場合、Iターン者を積極的に受け入れるようになった島、というのが舞台になっていて、これも絶妙だ。何故なら島の人間は、「人間関係が本土以上に濃密になり、独特な濃度を持った人間関係が長いこと熟成され続けている」という事実について、外から来た人たちと密接に生活するようになって、徐々に理解していったと思うからだ。


島には島の理屈があり、外から来た者には外から来た者の理屈がある。それは、「同じ島で住む」という現実を共有するために、無理にでも削られ、調整されていくことになる。そしてそれを調整するのは当然、後から島に住む外から来た者の側だ。


とはいえ元からの住民も、まったく考え方を変えなくて良い、ということにはならないだろう。とかく、もう長いこと住んでいる者ならともかく、朱里や衣花のような子供であれば、なお外から来た者の影響を受けやすいだろう。高校生を主人公に据えたのも、そういう外からの影響と元々の島独自の文化との境界線上でリアルタイムで自らの価値観を更新され続ける存在であるからかもしれないと思う。


また、Iターン者を受け入れる島という設定は、「近景」と「遠景」の両方を描き出すのにも実に上手い役割を果たす。


僕はどうしても、辻村深月の「狭さを描く力」が好きすぎる。さっき書いた、少年少女たちが学校という閉塞的な環境で感じる感情というのは、まさにその「狭さを描く力」あってこそだろうし、狭い環境の中での濃密な人間関係を描き出す手腕はピカイチだと思っている。


しかし、やはりそれだけでは、なかなか多様な物語を生み出すことは難しいのかもしれないとも思う。究極的に狭さを追求した物語を読みたいと思いつつ、そうではない作品も求めてしまうのはワガママだなぁと思いつつ。


本書の場合、「島民の生活」という狭さを描きながら、一方で「外から来る者を受け入れる」という広さを描き出すことで、バランスがとてもよく取られていると思う。「島民の生活」を近景として描きながら、外から来る者との関わりを、そしてもっと広く、冴島という島全体の立ち位置や未来を馳せるという描写を「遠景」として描きながら、冴島という離島を立体的に描き出していく。接写とパノラマをこまめに切り替えていくような物語の展開は上手いなと感じました。

また、これは穿った見方かもしれないけど、Iターン者を受け入れる島という設定は、物語に必要な多様な人物がその島にいることの「不自然さ」を覆い隠すのにも役立つ。映画でも小説でもよく、「なんでそんなところにそんな人達が集まってるわけ!」みたいな不自然な設定ってあるけど、本作からはそういう不自然さを感じない。これも、舞台設定の妙だよなぁ、と思いました。


「島民の生活」は、もう色んな方向にベクトルがあって何を書いたらいいか迷うけど、とにかく一つ言えることは、「離島に住むという濃密さ」を読んでいて強く感じた、ということ。離島に住んだこともなければ、住んだところで結局ずっと島で暮らしていた人のことなんて分からないだろうけど、自分が離島に住んでも感じられないかもしれないことを、本書は感じさせてくれるような気がする。


例えば、凄く些細なシーンなんだけど、島にやってきたちょっと胡散臭い男に、衣花が「どうしてうちに?」と尋ねる場面がある。その時の衣花の調子を、朱里はこんな風に表現する。

『冴島を“うち”と呼ぶ響きが殊更はっきりと響き』

はっきりと言葉にしなくても、「衣花が島に誇りや親近感を抱いている」ということが一発で伝わる。辻村深月は本当にこういうのが巧いなと思う。ちょっとした名前の呼び方の違いだったり、視線の向け方だったり、そういうことを本当に丁寧に拾うことで、人の感情を立ち上らせていく。こういう些細な描写を山ほど積み重ねることで、言葉や行動だけからは見えてこない「匂い」のようなものが読者に伝わってきて、それが離島に住み続けているという「現実」を、僕らが知っている「現実」と繋ぎ合わせるための糊のような役割をしてくれるのではないかと思う。


本書は、多視点の物語なのだけど、第一章はすべて朱里視点で統一してあるというのも、その「匂い」のようなものを読者が感じ取れるようにという配慮のようで巧いなと思う。離島に住んだことも行ったこともない人には、そこでの雰囲気はなかなか想像しにくいだろう。それを、朱里という一人の人間を通した一貫性のある視点をまず固定することで、読者を離島の雰囲気に馴染ませていく。

離島での生活は、新しい名前をつける必要があるのではないか、と思えるような、僕自身の内側からは立ち上がって来にくい、それでいて感じていることは伝わってくるという、なんとも表現しようのない日常の積み重ねの上に成り立っているように思う。


そこで生まれなければ、見ることも知ることも考える必要もなかった現実が横たわっている。最終のフェリーの時間があるから部活に入れない、というのはとても軽いものの一例だろうか。島での生活は豊かで満ち足りたものだが、同時に、外のことを知れば知るほど、今まで気づくことのなかった「ないもの」の存在に、その空虚な空白に気付かされていくことになる。


存在しない物、存在しない選択肢、存在しない未来。そういう「ないもの」の存在に対して、島の住民は、出来る限り「くっきりとした答え」を探そうとしない。島で生きてく、という現実の方を変えることは、実はなかなか難しいのだ。「くっきりとした答え」を探す行為は、島で生きていくという現実を否定しなくてはならない場面にも行き着いてしまう。だから、曖昧にしたまま、わかっているのだけどわかっていないフリをしながら、とりあえず前に進んでいく。


この島に根付く「兄弟」という仕組みも、そういう中で生まれているのではないか。


島では、男同士が「兄弟」の契りを結ぶ風習がある。ヤクザのようだと言われるが、「兄弟」は親戚のような関係を築き、それがある種のセーフティーネットとなって、離島での生活を支えていく。島で生きていくという現実を飲み込むために、先人が知恵を絞って生み出したのが「兄弟」という仕組みなのだろう。


「兄弟」という関係は、本書の中でも実に素敵な役割を担っている。詳しくは書かないのだけど、「兄弟になろう」という言葉がこんなに響く作品もないだろうと思う。


内容が色んな方向にベクトルを持つので、具体的に触れにくくて、こうやって分析するようなことをわーわー書いてしまうのだけど(しかし、辻村さんの作品を読むと、なんでか分析っぽいことをしたくなってしまう)、さらにちょっと別のことを書こうと思う。


本書で描かれていることは、まさに今僕が関心を抱いている事柄にとても近い。


勝手な憶測なのだけど、本書のモデルとなっている島は、海士町なのではないかと思っている。


島根県の属する海士町は、知っている人は知っている、なかなか有名な離島だ。本書の舞台となる冴島は瀬戸内海にあるけど、海士町は日本海に浮かんでいるらしい。有名な離島、と言いながら僕は知っていることはほとんどなくて、唯一知っていることと言えば、日本全国から優秀な人間がIターン者として移住し、そこで様々なプロジェクトが進められているということ。僕の関心のドンピシャだということを示すように、僕は海士町のプロジェクトが描かれている本を買っていて、もうすぐ読む予定だったりする(この文章が表に出る頃には、もう読んでいることでしょう)。


僕は最近、ソーシャルデザイン的なことに関心がある。「ソーシャルデザイン」という本を読んでいたりするし、町おこしだとか、人と人を繋げるだとか、そういう話に今とても関心がある。リアルで僕のことを知っている人には、なかなか想像出来ないだろうけど。


「ソーシャルデザイン」の中で、ソーシャルデザインとはこう定義されていた。

『社会的な過大の解決と同時に、新たな価値を創出する画期的な仕組みをつくること』

僕は、とても大げさな言い方になるかもしれないけど、本書で描かれる冴島の姿は、僕らが今後行き着くことになる未来の姿だと思っている。大量生産・大量消費の時代の終焉をもうみんなが感じていると思うけど、でもだからと言って、じゃあ僕たちの未来がどういう方向にあるのか、きちんとした道筋はまだ描かれていない気がする。

冴島のような、地域ごとの良さを残しながら、外からどんどん人を取り込んでいき、小さな規模で循環可能な生活環境を生み出していく。冴島は、まさに離島という環境だからこそ、「小さな規模で」「循環可能な」生活環境にせざるを得ないという事情があるのだが、そういう事情を持たない地域も、これからどんどんそういう方向にシフトしていくのではないかと思う。


また、住む場所に限らず、「モノをどのようにして手に入れるのか」「ヒトとどのように関わっていくのか」というような部分でも、どんどんとこれまでに有り様が変わっていくだろうと思う。

そういう中で、自分に何が出来るか、というようなことを、どうも僕は最近考えているようだ。そして、そういうことを考えることは、なかなか面白い。


別にアイデアマンではないので、凄いアイデアが出てくるわけではないんだけど、「誰もがそこにたどり着きたい」という目的地を明確にイメージさせ、みんなでそこに行こうぜ!って声を掛ければ、後は勝手にそこに辿り着けるのではないか、という根拠のない自信を最近持ち始めてもいて、何かやりたい気分ではある。


本書には、「地域活性デザイナー」という肩書きの谷川ヨシノという女性が出てくる。全国あちこちの自治体などと関わって、住民から話を聞いたり人をつなげたりして、その地域ごとにそれぞれの問題を解決していくという仕事をしていて、僕らの現実の世界にも、コミュニティデザイナーという肩書きの山崎亮という人物がいる。


なんとなく、谷川ヨシノがやってるようなことをやりたいんだよなぁ、という感覚が、本当にここ最近の僕の感覚で、そういう意味でも本書は面白く読めました。


色々書いたけど、僕がここでわーわー書いた部分ではないところに強く反応する人もいることでしょう。本書は、様々な視点や価値観が入り乱れているところにも面白さがあると思います。最後の方で、あの人も出てきます。楽しみにしててください是非読んでみてください。


サポートいただけると励みになります!