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【本】住野よる「君の膵臓をたべたい」感想・レビュー・解説

人が死んで、悲しいと思ったことが一度もない。


そんな自分を、薄情者だなと悩んだ時期もあった。祖父が亡くなった時だ。大人になってからほとんど関わることもなかったから、日常的に会う人ではなかったから、そんな風に思うんだろう。そんな風にして、自分を納得させようとしたような記憶がある。


少しずつ、僕は自分というものが分かって来て、あるいは分かったような気になって来て、どうして人の死を悲しいと思わないのか、自分なりに説明がつくようにはなっている。


たぶん、いつか必ず、人は死ぬからだ。

僕は、自分の弱さを知っているつもりだ。自分が思っている以上に弱い、という可能性はまだまだ十分にあるけど、自分が思っているより強い、ということは恐らくないだろう。そんな僕が常日頃から考えていることがある。それは、


「いずれ無くなるものに依存したくはない」


というものだ。


何かに寄りかかって生きていると、その何かが無くなって倒れることでたぶん凄く痛みを感じるだろうと思う。僕は、その痛みに耐えられないような気がするのだ。だから、出来るだけ、あまり何かに寄りかかり過ぎないようにしよう、と思っている。自分を支えてくれる何かがあるのは、素敵だと思う。でも、その存在が無くなった時、代わりが存在するかどうか。たぶん僕は、日常的にそういうことを考えている。


同じような発想で、


「良すぎる環境にはいたくない」


というのもある。


僕は、自分の身の丈に合わない、自分にとっては良すぎる環境が、長続きするわけはない、と思っている。確かにその環境にいれば、その時は楽しいだろうと思う。でも、その環境が維持できなくなったら?「楽しかった」という記憶だけが残って、結局自分は苦しむのではないか。


そんなことを考えてしまう。


だから僕は、「人間はいつか死ぬ」という理由で、あまり人間に深入りしないようにしているんだろうな、と思う。


楽しければ楽しいほど、「この楽しさが失われたら?」という恐怖が同じ速度で増す。何かに寄りかかれば寄りかかるほど、「この支えが失われたら?」という恐怖が膨れ上がる。そうやって僕は、何度も自滅してきた。


他人から離れている時には、「他人に深入りしたいな」という気持ちは出て来る。僕も、まったく寂しくないわけではない。人と深く関われることを羨ましいなと感じる機会もあるし、そうできればいいなとも思う。でも、少なくとも、これまでのままの僕には、そうすることはとても難しい。

だから、主人公の気持ちが、とても良くわかる。最初から、最後まで。彼の行動原理が、手に取るように理解できる。草舟のようだと自分を評する気持ちも、主体性がないところも、彼女と過ごす時間が「楽しい」と思えることも、そして、『もうすぐ死ぬっていうクラスメイトと普通に話せる』ところも。

彼女にも、共感できる部分はとても多い。僕は、主人公寄りの人間なので、彼女とはまるで正反対と言っていい人間だ。それでも、『膵臓のこと隠さなくていいのって君だけだから、楽なんだよね』という気持ちは、とてもよく分かる。

『どうして彼らは多数派の考えが正しいと信じているのだろうか。きっと彼らは三十人も集まれば人も平気で殺してしまうのではないか。自分に正当性があると信じてさえいれば、どんなことでもしてしまうのではないか。それが人間性でなく機械的なシステムであることにも気づかずに』

主人公がこう思う場面がある。これは、彼女の死とは関係ない場面でのことなのだけど、凄く共感する。僕も、多数派が正しいと思うその考え方がとても苦手だ。「人が死んだら悲しまなくてはいけない」というのも、僕からすれば多数派の考えだ。別に、「悲しい」と思う人間を否定したいなんて気持ちはまったくない。でも、「人が死んでも悲しいと思わない人間もいる」というのも、また事実だ。彼女が、自らの病気を周りに言わなかったのも、ある意味では多数派に巻き込まれないようにするためだろう。彼女は、「病気の自分と哀れみと共に接してくれる」よりも、「そのままの日常」を欲した。そのために、病気のことを隠した。それは僕には、とても良い選択に思える。

僕は考える。目の前に、確実に死ぬと分かっている女の子がいたらどう振る舞うか。


僕自身の今の気持ちだけで言えば、僕は主人公のような振る舞いが出来るような気がする。内面はともかく、外面的には「キミが死ぬことなんか気にしていない」というような振る舞いが出来ると思う。相手がそれを望むなら。彼女は主人公のことを、それが出来る人間だと見込んだ。僕も、それが出来る人間だと思われるような人間になりたい。

内容に入ろうと思います。


高校生である主人公は、始終本を読むことだけで世界と関わっている人間だ。生身の人間とは積極的に関わろうとせず、だから友人もいない。クラスメートからは、目立たない男だと思われているだろうし、それでいい。何の問題もない。そう考えるような男だった。


そんな主人公はある日、クラスメートの秘密を知ってしまう。明るくて元気で、『全てのポジティブなことにいちいち反応する』山内桜良は、当然クラスの人気者であり、当然主人公とは関わりを持つはずのない関係だった。しかしある日主人公は、桜良が家族以外の誰にも打ち明けていない秘密を知ってしまう。


膵臓の病気で、そう遠くない未来に死んでしまうということを。


主人公はもちろん動揺したが、しかし彼にとっては関係ない世界の話だった。たまたま知った秘密を言いふらすつもりもないし、彼女とその後関わりを持つはずもないだろう。


しかし、主人公の予想を超えた展開が待っていた。なんと桜良は、主人公と積極的に仲良くするようになったのだ。それまで、人間というものと関わってきたことのない主人公にとっては、様々なことが初めての経験だった。桜良は主人公と同じ委員になり、放課後や休日を一緒に過ごし、あまつさえ旅行にさえ行く。


主人公には、彼女が何を考えているのか、まるで理解できない。自分のような、地味で面白くもない人間と、死期の迫っている今、一緒にいるだけの価値があるのだろうか…、と。

凄く好きな作品でした。


先に書いておくと、「物語そのもの」に『何か』があるわけではありません。たぶんこの物語、要約したら物凄く短く要約出来るし、その要約だけ読んだら「何が面白いの?」みたいな感じになりそうな気はします。はっきり言って物語は、「間もなく死ぬ女の子と、他人と関わって来なかった男の子が過ごした最後の数ヶ月」という要約でまとめられます。飛び道具的な展開があるわけでも、押し込めたような何かが最後に爆発するような、そういうタイプの作品ではありません。貶してるわけではまったくないのですが、物語そのものはとても平凡だと言っていいでしょう。


じゃあ何が良かったのか。


それはもう、主人公と桜良の関係が素晴らしかったとしか言いようがありません。


これも、マンガやアニメではベッタベタな設定だったりするのかもしれないけど、「もうすぐ死んじゃうけどすっげー元気に振る舞う女の子」と「他人に無関心だけど流されるようにして他人と関わる男の子」という二つのキャラクターを、実にうまく動かしていきます。


どちらの存在も、とても歪です。主人公にしても桜良にしても、現実にはちょっとなかなか存在しないだろうなというキャラクターです。主人公のように他者とあまり関わらない人編はたくさんいるかもだけど、内面まで主人公のように達観できている人間はそう多くないでしょう。桜良のように元気で明るい女の子は多いだろうけど、それでも、まだ高校生という若さで死ななければならない状況でああいう振る舞いが出来る人間もそうはいないでしょう。

そんな非現実的なキャラクターなのだけど、見事なぐらいこの二人の相性はぴったりなわけです。この物語には、二人以外の登場人物も出て来るわけですが、この二人が作る世界観と、それ以外の世界観は、まるで別物です。桜良はその両者を行き来するわけなんだけど、物語の軸足は二人が作る世界に置かれているので、読んでいると段々その違和感を忘れる。そして忘れた頃に、外の世界の人間が二人の世界に食い込んできて、読者にその違和感を思い出させる。そんな風に物語は進んでいきます。


二人で作る世界は、とてもとても歪んでいる。桜良は、冴えないクラスメートを振り回して凄く楽しそうな笑顔を作り、主人公はそんな彼女にブンブン振り回されながら、もうすぐ死ぬという女の子と平然と関わり続けている。
しかし、二人が作る世界は、「多数派の論理」では完全に異常なのだけど、二人にとっては完全だ。これほど、完全な世界はない。


彼らの関係には、名前が付かない。これが僕が、彼らの関係を「完全」だと考える理由の一つだ。友達でも親友でも恋人でも家族でもない。桜良もそう言っていた。キミとはそういう、名前が付くような関係じゃないからいいんだ、と。


僕も、それをとても羨ましいと懷う。どうしたって、人間同士の関係には、名前が付いてしまうものだ。何故なら人間は、不安定さに耐えられないから。だから皆、名前を付けて、他者との関係を安定させたがる。


しかしこの二人の場合、桜良はもう先が長くないし、主人公には人間と深く関わろうという意思がない。だからこそ、こんな、「名前のない関係」が生まれる余地が出来た。そしてその「名前のない関係」を、実に絶妙に描いている。この「名前のない関係」こそが、本書の最大の魅力なのだと僕は思う。これは、二人がお互いに、お互いなりの努力をした結果生まれた、瞬間的な奇跡の関係性なのだ。

『君は、きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。お医者さんは、真実しか与えてくれない。家族は、私の発言一つ一つに過剰反応して、日常を取り繕うのに必至になってる。友達もきっと、知ったらそうなると思う。君だけは真実を知りながら、私と日常をやってくれるから、私は君と遊ぶのが楽しいよ』

桜良に主人公がいて、良かったと思う。主人公は、桜良と関わることで、それはそれは多大な迷惑を被ることになるのだけど、それでも主人公が桜良と関わり続けてくれて良かったと思う。二人の世界は、歪で異常で、完全で、だからこそ、なんだかとても美しい。いずれ割れてしまうシャボン玉のように、永遠に続くわけがないと分かっているからこそ存在しうる関係性。その瞬間性を、見事に切り取っていると思う。


僕が主人公と同じ立場だったら、どうするだろう、と考えてしまう。


僕が主人公のように、自分自身の内側に隠れているものをきちんと把握できていない頃だったら、僕は主人公と同じように出来る気がする。もちろん、内心では色んなことを考えちゃうだろうけど、外面的には同じように。主人公は、他者との関わりが薄かったからこそ、桜良ときちんと関われたのだと思う。もっと他者との関わりが深ければ、相手の中から、そして自分の中から、どんなものが失われていくのか、想像がついたはずだ。主人公には、その力はなかった。小説を読んで知ったことを、現実で活かす機会がなかった。だからこそ、主人公は桜良と関われた。『きっと、知ったらそうなると思う』と桜良が思っている友達とは、違う風に振る舞うことが出来た。


今の僕が、主人公と同じ立場に立たされたら、どうだろう?


途中で逃げるかもしれないなぁ、と僕は考えてしまう。たぶん、桜良と一緒にいるのは、とても楽しいだろう。主人公と桜良の断片的な関わりを読んでいてそう思ってしまうのだ。実際に自分が桜良と関わったら、もっと楽しいだろうと思う。


でも僕は同時に、この楽しさは遠くない将来に失われることを知っている。そのことに僕は、恐怖を感じるだろう。少しずつ、桜良のことが大事になればなるほど、その恐怖は増していく。


たぶん僕は、その恐怖に耐えられなくなってしまう。


だから、桜良の近くにいたのが主人公で良かった。僕じゃなくて良かったと思う。

主人公が号泣する場面がある。今まで知らなかったことを知ってしまった苦しみに。そして、今まで知らなかった楽しみが失われてしまった悲しみに。そう、主人公は、知ってしまった。知らされてしまった。これが中途半端なものだったら、主人公は恐らく恨んだだろう。中途半端に自分をそういう世界に引きずり込んだ人間を恨んだだろう。しかし、主人公は、桜良の本気を知る。桜良の考えていたことを知る。それは結果的に、主人公の世界を大きく変えていくことになる。


だからこそ、主人公の傍にいたのが、桜良で良かった。


二人の世界が「完全」で良かった。

『生きるっていうのはね、きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ』

生きている実感は、自分で掴みとっていくものなんだ。桜良はたぶん、そんな風なことを伝えたかったんだと思う。主人公に。自分とは真逆に君に。そんな風にして彼女は最後までに生きた。死ぬ直前まで、『生きた』。
素晴らしいじゃないか。

僕は、怖いと思った。この『完全』な関係性は、怖いと思った。でも、羨ましいとも思った。雪のように消えてしまうものであっても、羨ましいと思った。でもきっと僕は、主人公のようにも、桜良のようにもなれないんだろう。なんだか、そのことを、凄く悲しいと思わされた。


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