【本】内田樹「そのうちなんとかなるだろう」感想・レビュー・解説
世の中にはたくさん、「成功法則」を書いた本が出ている。そういう本を積極的に読むわけではないが、読むことがあると、いつも疑問に感じることがある。
それは、
「何故あなたは【それ】を成功の秘訣だと考えたのか?」
ということだ。
例えば、
「ダイエット出来たのは走ったお陰だ」
という主張は、まあ分かりやすい。これに疑問を感じる人はいないだろう。では、
「ダイエット出来たのはブロッコリーをたくさん食べたお陰だ」
はどうだろう。ちょっと厳しい気もするが、「ブロッコリーにはもしかしたら痩せる成分とか含まれてるのか」と、無理やり考えることはできる。では、
「ダイエット出来たのはジャージを履いているお陰だ」
となるとどうだろう?さすがにここに、関連性を見出すのはなかなか難しいのではないだろうか。
しかし、考えてみると、では何故「ダイエット」と「走る」に関係がある、と感じるのか?ちゃんと説明してくれ、と言われたら出来ない人が多いのではないだろうか。もちろん、運動生理学などを勉強している人であれば、「一日◯分走ることで、××筋が収縮し、△△の血中濃度が高まるので云々かんぬん」みたいな説明は出来るかもしれないが、普通の人には無理だろう。ということはそれは、ただのイメージでしかない、ということだ。「なんとなく関連性がありそうだな」という理由で、「ダイエット」と「走る」を繋げているに過ぎない。
そう考えると、「ダイエット出来たのは走ったお陰だ」も「ダイエット出来たのはジャージを履いているお陰だ」も、正直、主張そのものとしては大差ない、と言える。
結局これは、「自分がどの変化にしているかの違い」でしかない。ダイエットが成功するまでには、色んな変化があったはずだ。その期間たまたまホラー好きな彼氏と付き合っていてホラー映画をたくさん見たとか、口紅を変えたとか、引っ越したとか、仕事で何故か褒められることが続いたとか、いつも通勤に使っている道路で工事が始まったとか、PM2.5が増え始めたとか、保有している株が下がったとか、妹に子どもが生まれたとか…。考え始めれば、ダイエットを始めてからの身の回りの「変化」というのは様々に考えられる。正直なところ、そのどれもが「ダイエットの成功要因」であってもおかしくないはずだ。しかしダイエットに成功した人は、その「変化」の中から、「もっとも納得しやすい変化」を抜き出して、それを「ダイエット」と結びつける。そう考えるのが、自然な気がするからだ。
しかし、「自然な気がする」ことは「因果関係」には影響しない。自分がまったく意識してもいなかった「変化」が、ダイエット成功の要因である可能性は常にある。
世の中に数多ある成功法則にも、僕はそういう印象を抱いてしまう。だから、「◯◯すれば成功する!」というような言説全般に、僕はあまり惹かれない。
内田樹の主張は、実に面白い。
【「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということが武道のめざすところです。
でも、それは自分の「いるべきとき」「いるべきところ」「なすべきこと」は何だろうときょろきょろすることではありません。
そこが難しい。
それは自分で選ぶものではないからです。
流れに任せて、ご縁をたどって生きていたら、気がついたら「いるべきところ」にいて、適切な機会に過たず「なすべきこと」を果たしている。
そのことに事後的に気がつく。】
僕は内田樹の本を何作か読んだことがあるので、それらの本にも似たようなことが書かれていて、なるほどと感心した記憶がある。内田樹が言っていることは、「成功法則」とはかけ離れている。この文章を読んでも、はっきり言って、自分がどう「行動」すればいいかは分からない。だから、「◯◯すれば成功する!」という枠組みには、一切当てはまらない。
この文章だけだと、ちょっと宗教的な感じしてしまうだろう。しかし、次の文章を読んだら印象は変わるかもしれない。
【どんなとき、どんな場所でも、僕たち一人ひとりには、自分にできること、自分にしかできないことがあります。とりあえず、その場にいる他の誰もできないことが、自分にだけはできるということがある。
でも、ふつうはそれがなんだかはわからない。
修行を積むと、「今、ここでだと、私だけができること、他ならぬ私が最もそれに適した仕事がある」ということがわかるようになる。
そのときに、ふっとそれが「自分が前からずっとしたいと願っていたこと」のように思えてくる。
これが武運の勘所です】
この方が、説明としてはまだ納得しやすいのではないかと思う。要するにこれは、「やりたいことを持つ」のではなく、「自分にしか出来ないことをやりたいことだと思うのがいい」という話だ。そして僕は、この考え方に、凄く共感できる。
確かに世の中には、その人のパワフルさで周りの人をガリガリと巻き込んでいき、自分が先頭に立ってブルドーザーのように荒野を整地して突き進んで行ける人というのがいる。凄いな、といつも見ながら感じる。しかし、こういう人には、「成功法則」など不要だ。だから、「成功法則」を必要とするのは、そうではない人たちだ。
そうではない人たちというのは、要するに、「バリバリ突き進んでいけない人」だ。僕もそういう一人だ。そういう人は、きっと多いだろう。そういう人は、自分の意志で動くと、大体外す。少なくとも、僕はそういうことの方が多かった。自分の中で色々考えて、比較検討して、これだ!と決断したことが、思ってた風にはうまくいかないなぁ、ということばかりだった。けど、とりあえず一旦自分の意志みたいなものは遠くに置いて、「あれ?もしかして今この場でこれが出来るのは自分だけでは?」と思ったりすることや、あるいは誰かに「これとかやってみない?」と言われたことなんかに手を出してみると、自分に出来るとは思っていなかったようなことが案外出来たりする。
【「誰かこの仕事できる人いませんか?」という呼びかけがある。周りを見渡すと誰も手を挙げない。自分にその仕事ができるかどうかわからないけれど、なんとなく「やればできろう」な気もする。そこで、「あの~、僕でよければ…」とそっと手を挙げてみる。
僕たちが「天職」に出会うときのきっかけって、だいたいそういう感じなんじゃないかと思います】
そういう経験が結構あったので、なるほど、僕は自分の意志をあまり持たずに、自分に出来る努力は続けていって、そういう中で流れに乗ってどこかに行けるといいなぁ、と思うようになりました。
もちろんこういう感覚は、「うまく行った人」の意見でしかないかもしれません。同じようなやり方で、うまくいかなかった、みたいな人もいるのかもしれません。ただ、「決断」ということについて、内田樹がこんなことを言っていて、なるほどなと感じました。
【さあ、この先どちらの道を行ったらいいのかと悩むというのは、どちらの道もあまり「ぜひ採りたい選択肢」ではないからです。どちらかがはっきりと魅力的な選択肢だったら、迷うことはありません。迷うのは「右に行けばアナコンダがいます。左にゆくとアリゲーターがいます。どちらがいいですか?」というような場合です。そういう選択肢しか示されないということは、それよりだいぶ手前ですでに「入ってはいけないほうの分かれ道」に入ってしまったからです。
決断をくださなければいけない状況に立ち入ったというのは、いま悩むべき「問題」ではなくて、実はこれまでしてきたことの「答え」なのです。今はじめて遭遇した「問題」ではなく、これまでの失敗の積み重ねが出した「答え」なのです。
ですから「正しい決断」を下さねばならないとか「究極の選択」をしなければならないというのは、そういう状況に遭遇したというだけで、すでにかなり「後手に回っている」ということです。
決断や選択はしないに越したことはない。
ですから、「決断したり、選択したりすることを一生しないで済むように生きる」というのが武道家としての自戒になるわけです】
これも非常に納得感がありました。もちろん、反論もあるでしょう。悩んでいる時は、「どちらか(場合によっては両方)の選択肢を進んだ場合、結果がどうなるか分からない」という状況もあるでしょう。内田樹は、進んだ先の結果がどの選択肢についても想定できる、ということを前提にしているので、議論に不備があるようにも感じられます。
とはいえ内田樹としては、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」が目標なわけですから、「進んだ先の結果」というものへの配慮が欠けるのは仕方ないかもしれません。また、その配慮が欠けているとしても、「決断を要する場面は既に後手」という主張は、なるほどと感じさせる説得力を持つように感じられるし、そういう意味で「決断しないに越したことはない」と主張しているのは正しいように思えます。
また、こんな主張からも、「決断」の無意味さを伝えているように感じます。
【稽古に行くつもりだったけれど、朝起きてみたら「なんとなく生きたくないな」と思ったら、その直感を優先した方がいい】
これも結局は「決断」の話です。こういう場合、普通は「会社に行くべきか」「会社にいかないべきか」という「決断」をすると考えがちですけど、内田樹は、「決断」などせずに、身体の感覚を信じろ、と主張しているわけです。
【いまは雇用環境が悪化しているために、過労死寸前まで働かれている人がたくさんいます。そういう人は、一度病気に倒れてからようやく生き方を変えるということになる。
でも、病気から無事に回復できればいいですけれど、回復のむずかしい傷や疲れを負い込むことだってあります。だったら、そんなところまで追い詰められる前にとっとと逃げ出したほうがよかった。
そこまで我慢するのは、申し訳ないけれど相当に身体の感覚が鈍っているということです。「こんなところにいたらそのうち死んでしまう」ということは、働きだしてしばらくすればわかったはずです。(中略)
やりたくないことは、やらないほうがいい。】
この主張も、「そうは言ったってそんな簡単なことじゃない」という反論は多分に想像出来ます。ただやはり、主張としては、僕は正しいと思いたい。僕も、「このまま大学を卒業して就職したら死んじゃう」と思って大学を中退した人間なので、この主張は実感とともに理解することが出来ます。
内田樹も、嫌だと思ったらその決断を覆すことのない人だったようです。
【僕が「嫌だ」というのは、よほどのことですから、一度「嫌だ」と言い出したら、もう絶対に惹かない。
子どものときからこの歳まで、ずっとそうです。一回「嫌だ」と言ったことをあとで撤回したことは、我が人生で一度もないんじゃないでしょうか】
こういう感覚は、もの凄く分かるなか、と思います。僕も、かなりこういうタイプです。「撤回したことは一度もない」とは言いませんが、僕も「嫌だ」と思ったことを後から覆したことはほとんどないような気がします。まあ、多少の我慢は仕方ないと思って生きていますが、「あ、これは絶対無理だな」と思った時点で諦めます。
【僕の「嫌だ」というのは自己決定できることではなく、身体の奥のほうから「嫌だ」という体液みたいなものが分泌されてきて、全身を満たしてしまうのです。僕の意思ではどうにもできない】
という感覚も、僕の実感とぴったりで、凄く理解できます。
内田樹の人生は、なかなか無茶苦茶というか、普通には真似できない感じのものです。かなりアウトロー的な生き方をしている人ですが、日比谷高校(僕の記憶ではメッチャ頭の良い高校です)を中退して、大検を取り直して東大に合格しちゃうような人ですから基本的に頭はメチャクチャいいわけだし、大学を卒業できそうというタイミングで父が50万円ポンとくれて、これでフランスにでも旅行に行けと言われるみたいな家庭環境だったりもするわけです。正直、戦っている土俵が違う、という感じはします。しかし、内田樹が、自らの人生の指針としている考え方については、なるほど確かになぁ、と感じるものが多いのではないかと思います。
【(内田樹は男手一つで娘を育てることになりますが)そして、すべてにおいて家事育児を優先することにしました。
「家事育児のせいで、研究時間が削られた。子どものせいで自己実現が阻害された」
というふうな考え方は絶対にしない。
朝晩きちんと栄養バランスのとれたおいしいご飯を作って、家をきれいに掃除して、服を洗濯して、布団をちゃんと干して、取り込んだ洗濯物にきれいにアイロンかけして、服のほころびは繕って…ということができたら「自分に満点を与える」ことにしました。家事育児仕事が終わって少しでも時間が残っていたら、それは「贈り物」だと思ってありがたく受け取る。
その「贈り物としての余暇」に本を読んで、翻訳をして、論文を書く。
そこで達成されたものは「ボーナス」のようなものなのだから、あれば喜ぶけれど、なくても気にしない。
そういうふうにマインドを切り替えました】
これなんかも、かなり実践的に使える考え方ではないかと思います。まあ、内田樹はなかなか恵まれた環境にはいました。研究者として、週に2日しか出勤しなくて良かったそうです。そういう環境だったから出来たんだろう、という指摘は当然その通りだと思います。ただ、立場や環境の違いを嘆いていても、自分の目の前の現実は変わりません。内田樹のこのマインドを、自分の生活に活かすとすればどんな風に出来るのか、という意識でこういう考えを取り込んでいく方が建設的なんじゃないかな、と僕は感じます。
この感想では、内田樹の生きる上での考え方を中心に取り上げましたけど、本書で様々に描かれる、内田樹の人生のエピソードも非常に面白いです。何故テレビを信用できなくなったのか、東大駒場寮はどんな環境だったのか、初めて私淑したいと思えた合気道の多田先生に出会った時にした内田樹の返答と多田先生の反応、何故大学の教員募集に落ち続けたのか、最初の妻の義父とのエピソードなどなど、面白い話が満載です。正直、彼の人生の軌跡そのものは、人生にまったく役に立たないけど(あまりにも特殊すぎるので!)、しかしその人生を振り返って抽出した、生きていく上でのスタンスみたいなものには、共感や納得を感じる人も多くいるのではないかと思います。
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