【映画】「窮鼠はチーズの夢を見る」感想・レビュー・解説

原作の感想はこちら。https://note.com/bunko_x/n/n441c46f5469a


原作があまりに凄すぎるから、原作と比べてしまうと評価は辛くなるけど、でも、映画も良かった。

映画的な凄さで言えば、よく成立させたな、ということだ。

これは、同性愛を批判するものとして捉えてほしくないのだけど、やっぱり”観賞用”としては、イケメンがやらないと成立しない。そして、原作を読んでいる身としては、大倉忠義と成田凌というセレクトは、見事だなぁ、と思うのだ。大伴恭一の温度のない感じ、そして今ヶ瀬渉の温度がありすぎるけど抑えてる感じが、凄く良く出ていた。

しかしやっぱりこの物語の凄さは、この物語を成立させていることそのものにある。

僕は一時期、勧められてBL作品をいくつか読んだことがあって、その時にBL作品についての話も色々聞いたのだけど、やはりBLというのは一般的に、”恋敵としての女性”というのは登場しない。女性は、何らかの役で登場するとしても(”妹”など)、”恋敵”として出てくることはまずない(ちなみに前提の話を書いておくと、BLの中にはこの映画のように、片方が同性愛者、そしてもう片方が異性愛者、というパターンもある)。女性が”恋敵”として登場したら、物語を成立させることはまず不可能だからだ。異性愛者が、女性の誘いを振り切って同性愛者の元へ向かう、という状況は、普通には成立させられない。

しかしこの作品では、その”恋敵としての女性”と”同性愛者”の間で揺れ動く男、という、普通ありえないだろう状況を絶妙に描ききるのだ。

これは本当に凄いと思う。

そして、その状況を成立させているのが、「大伴恭一」という男のキャラクターだ。

原作を読んでいる時、僕は、「自分の中に、大伴恭一がいるなぁ」と感じた。この映画を見て、同じことを感じた。さらに、こうも思った。「もし僕がイケメンだったら、大伴恭一みたいなクズになってただろうなぁ」と。いや、ホントに、「イケメンじゃなくて良かった」と思った。

女性の目から大伴恭一という男がどう見えるのか、正確に理解できるわけではないが、僕の視点からは、大伴恭一は”クズ”に見える。そして、大伴恭一自身に、自分がクズだという感覚はない。ないばかりか、「自分は優しい人間だ」と思っている。そこがまたややこしい。

冒頭からすぐ分かるわけではないが、大伴恭一という男は次第に、「断れない男」なのだと分かってくる。「断らないこと」を「優しさ」と勘違いしているのだ。相手が自分に望むことを、可能な限り拒絶しないで受け入れていく。大学時代の旧友は、そんな彼のことを「流され侍」と呼んでいた。ダサいネーミングだが、言い得て妙である。

【あなたは愛してくれる人に弱いけど、結局その愛情を信用しないで、自分を追いかけてくる人の愛情を次々に嗅ぎ回る】

大伴恭一にとっては、自分が愛された状態にいる、ということが望ましく心地よい。そして、大伴恭一はそれ以上でもそれ以下でもない。だから、こんなことを言われたりもするのだ。

【私が何を言うのか待ってる空気が気持ち悪いの】

常に、受け身なのだ。

大伴恭一というのは、この受け身体質の天才と言っていい。イケメンだからということもあるだろうけど、ちょっとした行為や視線なんかで、相手のスイッチを押すことは簡単に出来る。そして大伴恭一は、相手のスイッチを入れさえすれば、あとはベルトコンベアのようにスルスルと進んでいく、と思っている。そして、実際にスルスルと進んでいくのだ。

そして彼は、その状態を普通だと思っている。それ以外の選択肢を考えたこともないのだと思う。だからそこに罪悪感など生まれるはずもないし、自分の行為の何がおかしいのかも理解できないのだ。

この大伴恭一を見ていると、怖くなる。僕はたまたまイケメンじゃないから大伴恭一みたいになってないけど、たまたまイケメンだったら、これはホントに自分の姿だろうなぁ、と思うのだ。

そして、そんな大伴恭一が、大学時代の後輩と再会するところから物語が始まる。そしてこの後輩・今ヶ瀬渉が、この異常な「大伴恭一」という男を”更生”させていく物語、だと言っていいだろう。

これまで関係を持ってきた女性たちが大伴恭一の目を覚まさせることができず、今ヶ瀬渉にそれが出来たのは、今ヶ瀬渉が男だからだ。しかしそれは、同性愛に目覚めたとかそういう話ではない。大伴恭一にとって今ヶ瀬渉は恋愛対象ではない、ということが決定的に重要なのだ。

大伴恭一にとって女性というのは恋愛対象で、だからこそ傷つけてはいけない存在だと考えているはずだ。ところどころで描かれるが、大伴恭一は、表面上相手を傷つけないようにする、という配慮を全力でする(しかし結果的にそういう振る舞いが、女性をさらに深く傷つけている、という事実には築かない)。恋愛というのはお互いの関係性あってのもので、その上で相手を傷つけるというのは自分の責任だ、という感覚になるからじゃないかなと思う。「自分が相手を傷つけた」という事実を直視したくないから、恋愛対象である女性を傷つけまいとする(少なくとも、表面上)。

しかし大伴恭一にとって今ヶ瀬渉というのは、恋愛対象ではない。しかも、再会の方法が最悪だった。大伴恭一としてみれば、今ヶ瀬渉を「傷つけてはいけない」理由など、特にないということになる。

だから大伴恭一は今ヶ瀬渉の前で、恋愛対象である女性に対しては絶対にしないような振る舞いをナチュラルにする。

しかし一方で、今ヶ瀬渉は、大学時代に大伴恭一に出会った瞬間から8年間、彼のことをずっと好きでい続けた筋金入りだ。大伴恭一は今ヶ瀬渉を恋愛対象として扱わないし、今ヶ瀬渉もそのことをとりあえず飲み込んで理解した風を装うが、しかし今ヶ瀬渉は、大伴恭一を恋愛対象として見ていることを隠さない。

この関係性はなかなかにひねくれていると思うが、しかし、大伴恭一という人間を”更生”させる唯一の道だった、という風にも見える。大伴恭一は、ほぼ最後の最後まで、女性に対しては本心らしい本心を見せない。女性たちは、大伴恭一には近づけない何かがあるように感じるのだけど、それが何か分からないし、迫りようがない。しかし一方で、恋愛対象として見てはいないという理由で、自身の雑な部分を今ヶ瀬渉にオープンにさらけ出していく。一方今ヶ瀬渉は、大伴恭一のことを恋愛対象として見ているから、「恋愛対象に対してそんな振る舞いって酷い」というような雰囲気のアクションを小出しにしてくる。そういうジャブを細かく細かく何度も食らうことで、大伴恭一という”クズ”は徐々に、”更生”の道を歩んでいくことになるのだ。

だからそういう意味でこの物語は、単なるBLではない。BLという設定を借りた、クズの更生物語なのだ。そして、BLという設定を使わなければ解消されなかっただろう、という必然性を感じさせることで、”恋敵としての女性”を登場させるというありえない設定を成り立たせているのだ。

内容に入ろうと思います。
バリバリと仕事をこなし、ほどよく不倫をしている大伴恭一は、ある日大学時代の後輩である今ヶ瀬渉と再会する。しかしその再会は、非常に苦いものだった。探偵事務所で働いているという今ヶ瀬はなんと、恭一の妻を依頼主とする調査を請け負っているという。つまり、このままでは恭一の不倫が妻にバレてしまう、ということだ。今ヶ瀬は恭一をそれとなく脅し、「キスしてくれればなかったことにする」と約束する。今ヶ瀬は大学時代にあってからずっと、恭一のことが好きだったのだ。
そんな最悪の再会から始まった二人だが、今ヶ瀬が絶妙なアプローチを仕掛けることで、徐々に恭一を切り崩していく。元々「流され侍」である恭一は、離婚したこともあり、一人暮らしの部屋にやってくる今ヶ瀬と半同棲のような生活を送ることになる。しかし彼らの関係は、恋愛ではないし、だからと言ってただの友達でもない。今ヶ瀬の耳かきを喜んだり、今ヶ瀬の髪をなでたりする一方で、女性と関係を持ったり、今ヶ瀬を傷つけるようなことを言ったりもする。
今ヶ瀬との時間を大切に思い始める一方で、異性愛者としての”真っ当な”幸せを捨てきれるわけでもない恭一は、目の前の選択肢に常に揺れ動く。その一方には常に、今ヶ瀬の存在がある。今ヶ瀬を取るか、今ヶ瀬ではない何かを取るか――。
というような話です。

物語や人物的な部分については最初の方でいろいろ書いたので、そうではないことを。

まず個人的に凄く良いなと思ったのが、大伴恭一を演じている大倉忠義の「心がない演技」。観客としてこの映画を見ていると、恭一が「女性といる時」と「今ヶ瀬といる時」では醸し出している雰囲気がまったく違う、ということに否応なく気づくと思う。場面にもよるが、二人の関係が穏やかな時の今ヶ瀬に対する恭一の雰囲気は、非常に穏やかだ。一方で、女性と関わっている時は、「良い人」のベールを被ってる感が凄い。自分の見え方をコントロールしていて、「女性を傷つけない俺」みたいなものを(たぶん無意識に)出している、というのが恭一というキャラクターだと思うんだけど、その雰囲気を凄くよく出していると思った。

具体的にどこがどう違う、と指摘できるわけではないので、非常に細かい部分の差なんだろうと思うけど、この「女性といる時」と「今ヶ瀬といる時」の雰囲気の差というのは、この映画にとっての大きな肝だと思うので、それを大倉忠義が絶妙に足し引きしている感じが凄く良いなと思いました。

あと、映画を観ていてちょっと不思議な感覚になったのが、めちゃくちゃシリアスなシーンなのに、何故かニヤニヤと笑いが出てしまうこと。これは僕だけかもしれないけど、何回かそういう場面があった。酔っ払って帰ってきた恭一を部屋に運びつつ、「上がっていきます?」と今ヶ瀬が言った時とか、今ヶ瀬が「引いてくれませんか?」と頼んでるシーンとか。後者なんか割と修羅場なんだけど、でも観てるとなんか笑えてしまう。「もしかして選べない?」なんて言っちゃう感じとか、明らかに恭一の優柔不断さが招いている自体なのに、恐らく本人にその自覚がなさそうなところとか、理由を説明しようとすればそういうことになるんだろうけど、とにかくちょっと気恥ずかしさを感じるようなニヤニヤを何度か体験した。なかなか他の作品で感じたことのなかった感覚だったから、印象的だった。

この映画は、どちらかというと大伴恭一視点で描かれるから、今ヶ瀬渉の内面が分かる描写はそれほど多くない。僕は原作を読んでいるから、結構昔に読んだのもあって忘れてることも多いけど、場面場面で今ヶ瀬がどんなことを感じていたか、なんとなく原作のことを思い出しながら見ていた。冒頭から、割とクールな感じに見せてる今ヶ瀬だけど、【好きな人に振り向いてもらおうと必死です】【けっこうあっぷあっぷでやってるんですよ】みたいなセリフがところどころ挟まってくる。割とボロボロになりながら、それでも恭一の傍にいようと必死になっている感じが愛らしく見えてくる。

映画の中では出てこなかったけど、僕が原作で一番好きなセリフは、今ヶ瀬が言ったこれだ。

『貴方はいずれは女の人のものになる人だ。だからこそ俺は、貴方の中でたった一人の男になれる。…それだけが俺の心を守る縁なんです。どうぞ貴方は女と幸せになることだけ考えていてください。何ももらえなくたった俺は勝手に貴方に尽くすし、邪魔になればちゃんと空気を読んで消えます。迷惑はかけません』

僕は「BL」という設定を「日常に絶望を持ち込む装置」と捉えているのだけど、まさに今ヶ瀬が生きている世界は「日常の中の絶望」みたいなものだと思う。こんな風に考えなければ、好きで好きでたまらない人の傍にいられない、ということの必死さが、映画全体の中でも滲み出ていて、成田凌も非常に良い雰囲気を出してたなぁ、と思う。

大伴恭一は最後、どんな決断を下すのか。映画は、余韻を感じさせる終わり方をしていた。映画の最後では、大伴恭一は”クズ”を卒業していたと思う。見事な”更生”物語である。

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