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【本】佐藤究「Ank:a mirroring ape」感想・レビュー・解説

言語というのは不思議だ、と思う。

物事にはたぶん、大体「始まりの瞬間」というのがあるはずだ。宇宙の誕生で考えれば、それは「ビッグバン」ということになっている。少なくとも今のところは。ビッグバンが「始まりの瞬間」であるが故に、それ以前がどうだったのかについて、考える余地はあるが、調べる手段は(たぶん)ない。そんな風にあらゆる物事は、何らかの「始まりの瞬間」からスタートしているはずだ、と僕は思っている。

では、言語の場合はどうなのか?ごくありきたりの考え方をすれば、こうなる。ある時突然、言語を獲得した存在が現れたのだ、と。それが「始まりの瞬間」のはずだ。

しかし、ちょっと考えてみれば、この発想はおかしいということが分かる。何故なら、僕はこう考えているからだ。言語というのは最初は、コミュニケーションのために生まれたものだ、と。

僕は、この考え方が当然だ、と思っていた。言語の「始まりの瞬間」には、それほど高度な単語や言語体系はないだろう。僕らは普段言語を、コミュニケーションだけではなく思考に対しても用いるが、「始まりの瞬間」においては言語は思考に使えるほど高度なものではなかっただろう、と思うのだ。だからこそ、コミュニケーションのために生まれたのだ、と思っている。

しかしだとすると、言語を獲得した存在が「偶然」にも同時に二つ以上生まれた、と考えざるを得なくなる。そんなことが、あり得るだろうか?地球上には人間(現生人類)以外に言語を獲得した種はいない、とされている(僕は、これに対しても「本当だろうか?」と考えているが、とりあえずそれは置いておこう)。生命が誕生してから恐ろしく長い時間が経っているにも関わらず、言語を獲得した種は人間だけ。それほど低い事象であるのに、「始まりの瞬間」に言語を獲得した存在が二つ以上生まれたなどと、考えられるだろうか?

ここまで具体的に言語化していたわけではないが、人間が言語を獲得したこと、について僕が考える時、すぐさまこういう行き詰まりにたどり着いてしまう。僕には、コミュニケーションの手段として言語が生まれた、という発想しか出来なかったので、これ以上の考察はなかなかしようがない。

本書を読んで驚いた。本書は、現生人類がいかにして言語を獲得したのかについての(恐らく著者オリジナルだろう)仮説をベースに物語が展開していく。それがどんな仮説なのかは、物語の後半で明かされる、この物語の肝となる部分なのでここでは触れない。とにかくその仮説は、「あり得る」という感覚を抱かせるに十分な説得力を持っている(本物の研究者が読んだらどう感じるのか分からないが)。

本書の登場人物の一人もそうだが、「人工知能にいかに言語を獲得させるか」という研究はずっと行われている。「機械が意識を持つ」ということは、ほとんど「機械が言語を獲得する」というのと同じであり、人工知能をさらなる高みに押し上げるには、いかに意識・言語を獲得するか、という研究に進んでいくのは当然だ。

本書で提示される仮説が仮に正しいとして、じゃあ人工知能に言語が獲得できるようになるのか、と聞かれたら、分からないと答えるしかない。本書で提示される仮説は、自己言及のようなある種の無限ループの果てに言語が生まれた、とするものだ。恐らく機械にも、その無限ループを実現することは出来るだろう。しかし、人類の祖先がその無限ループの果てに変化させたのは塩基配列だ。人工知能の場合、無限ループの果てに変化させられる可能性があるものはプログラムしかないはずで、しかし本書の仮説が要求する変化は、無限ループによる自己言及を経ずとも、人間の手でプログラム出来るものなのではないか、という気もする。しかしそうだとすれば、無限ループを経て言語を獲得した、という仮説が成り立たなくなるわけで、どうなるのだろうか?

そういう疑問はともかく、本書の仮説がもう一つ魅力的なのは、人類の進化に関するもう一つの謎も解決している、という点だ。
それは、何故地球上に存在する「ヒト」は、「現生人類」のみなのか、という謎だ。例えば犬であれば、土佐犬もいればゴールデンレトリバーもいる。犬は人間による交配によってその種を増やしているという事情もあるから特殊かもしれないが、しかしゾウにしろペンギンにしろ、それぞれの種には複数の属が存在する(学術的に用語の使い方を間違っているかもしれないけど、意味は通じるでしょう)。
しかし「ヒト」の場合は「現生人類(ホモ・サピエンス)」しかいない。

我々は我々自身のことを「ホモ・サピエンス」と呼んでいる。ラテン語で「ホモ」というのは「ヒト」という意味だ。何故僕らは僕ら自身のことを、ただ「ヒト」とだけ呼称しないのか。

それは、「ホモ・サピエンス」以外にも「ヒト」がいた証拠があるからだ。「ホモ・エレクトゥス」や「ホモ・ルドルフエンシス」など、我々と非常に似た者たちがいた。しかし、今はもう存在しない。「ヒト」という種には「ホモ・サピエンス」しか残っていないのだ。

何故か。この理由は未だに明らかになっていない。そして本書の仮説は、この謎にも明快に解を与えるのだ。

つまりこういうことだ。「現生人類」以外の「ヒト」は、言語を獲得するための過程において姿を消さざるを得ず、「現生人類」のみがその過程を生き延び言語を獲得したのだ。

非常に刺激的な仮説だ。しかし、恐らくこの仮説が仮に正しかったとしても、実験によって証明することはかなり困難だろう。物理学には「ひも理論」と呼ばれる、理論だけなら非常に美しく精緻な理論が存在する。しかしこの「ひも理論」、物質に関してあまりにも微小な前提を設けているが故に、現在の、そして恐らく未来の技術でも「ひも理論」が要求するレベルの微小さを観察出来ず、仮に「ひも理論」が正しいとしても現実の世界でその正しさを実証する実験を行うことは不可能だろう、とされている。本書で提示される仮説も、似たような宿命を持っているのかもしれない。仮に正しいとしても、現実の世界での検証は不可能。


そう思えばこそ、この物語で提示される「フィクション」が、現実世界では絶対に行うことの出来ない実験の「シミュレーション」のように思えて、ただの「物語」ではない感じを抱かせるのだ。

内容に入ろうと思います。
2026年10月26日。後に「京都暴動」と呼ばれるようになる信じがたい事象が発生した。突如人々が凶暴化し、近くにいる人間と命尽きるまで素手で殴り合うのだ。しばらくすると彼らは正気を取り戻すが、正気を取り戻す前に命を落とす者が大半だ。しかも仮に生き残っていたとしても、自身が暴徒化していた時の記憶は失われており、何が起こっているのかを証言できる者は皆無。「京都暴動」は京都のあちこちで散発的に発生しながら、京都以外の場所でも惨劇を引き起こすことになった。動画サイトで共有された映像により、「AZ(Almost Zombie ほとんどゾンビ)」と呼称されたり、病原菌や化学物質の蔓延によるものではないかという噂が世界中を駆け巡ることになる。しかし、最終的にその原因が人々の公表されることはなかった。
京都大学で研究を続けていた鈴木望は、ある日を境に人生が大きく変わった。今では、京都に莫大な敷地を有する施設を持つ、KMWP(京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト)の総責任者として、世界中の優秀な研究者のトップに立つ存在だ。2年前までは、そしてある意味では今でも、ほとんど無名に近い研究者であったにも関わらず、だ。
望をKMWPのリーダーに据えたのは、天才的なAI研究者だったダニエル・キュイだ。シンガポール人であり、北米ビジネス誌が選ぶ<世界で最も影響力のある100人>にも選出されたことがある。巨額の資産を有するIT企業の最高経営責任者であり、また人間と遜色のない会話をこなすAI用言語プログラムを開発した天才研究者でもある。しかし彼は今AI研究の第一線から退き、望をトップに据えたKMWPの出資者になっている。
望が研究しているのはチンパンジーだ。KMWPを京都に設置する案を提示したのは望であり、それは<京都大学霊長類研究所>が連綿と積み上げてきた研究風土が、京都を世界の霊長類研究のトップの地へと押し上げたからだ。KMWPでは、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータンの四種しか存在しない大型類人猿の研究を通じて、「人類が、どうして人類たりえているのか」を追い求めようとしているのだ。KMWPはマスコミ向けに研究施設を公開する予定であり、その取材のためにやってきたサイエンスライターであるケイティ・メレンデスは、その公開前に望の独占インタビューを取ることに成功する。ケイティは長くダニエル・キュイを追いかけており、その関心の延長線上にKMWPがあったのだ。
南スーダンに派遣されているUNMISS(国際連合南スーダン派遣団)は、検問所を通過しかけた貨物トラックを止めた。先頭グループが資金源確保のために人身売買を行っているという情報が届いていたからだ。そのトラックから見つかったのは、しかし人間ではなく一匹のチンパンジーだった。ウガンダ野生生物局で、施設許容量の限界から受け入れを断られたUNMISSは、廻り巡ってKMWPにチンパンジーを預け入れることとなった。そのチンパンジーに望が付けた名前は「アンク」。
この「アンク」が、人類進化の謎を解く「鍵」となるのだが…。
というような話です。

これはホントにとんでもない物語でした!メチャクチャ面白い!「虐殺器官」や「ジェノサイド」に匹敵する傑作というのは、大風呂敷ではないと感じました。

物語は基本的に、鈴木望という研究者を中心に進んでいく。鈴木望にインタビューをする女性記者・ケイティ、鈴木望に投資したダニエル、鈴木望の配下にいる様々な研究者、そして鈴木望自身の来歴や思考。こうしたものが物語の冒頭から中盤を動かしていく。もちろんそこには、「京都暴動」と呼ばれる謎の事象の断片が差し込まれるわけだけど、その段階では「京都暴動」で何が起こりどう状況が展開したのかはほとんど分からない。

鈴木望の物語に、「アンク」と名付けられた一匹のチンパンジーが紛れ込むことによって、事態は大きく展開することになる。「アンク」の存在が、鈴木望と「京都暴動」を結びつけることになる。とはいえ、その結びつきが理解できたところで、「アンク」が何を引き起こしたのかということは分からないままだ。

そこには、本書の核となるとある仮説が横たわっている。いかにしてこの仮説を「真実らしく」見せるのか―。この作品で描かれる様々な要素が、その一点のために存在すると言っても言い過ぎではないだろう。とてもではないが、一般人には予測することの出来る仮説ではなく、しかし提示された仮説は、難しい点もないではないが、理屈としては比較的すんなり受け入れられるように感じられる。「何故言語を獲得したのか」という非常に大きな難問に対して、非常にそれらしい説明がつけられている。見事だ、と感じた。いくつかの科学的な事実を巧みに結びつけて、一つの大きな「虚構」(証明されていない段階では、すべての仮説は虚構と呼んでいいだろう)を生み出す手腕は素晴らしいと言う他ない。特に、僕が「言語の獲得」に対して考えていた、「他者とのコミュニケーション」という大前提をまったく介在させずに「言語の獲得」を説明する仮説はとても魅力的だ。

「言語の獲得」と「京都暴動」がどう結びつくのか、それは是非とも読んでみて欲しい。「ヒト」が本能の奥底に持っている「はず」の衝動を呼び覚ますことで生まれるものによって「京都暴動」は引き起こされている、ということになっている。凄まじい想像力に惚れ惚れする。

本書では、ほぼすべての人間が、とある条件下では「京都暴動」を引き起こす加害者(暴徒者)になるのだが、その条件下でも暴徒者にならずに済む者もいる。何故暴徒者にならずに済むのか―、そのまったく別々の理由を複数用意しているところも非常に面白い。特に物語の後半で登場するある少年の存在は興味深い。とある症例により、「京都暴動」を引き起こす条件を逃れられているのだが、その症例を僕は聞いたことがなかった。調べてはいないが、恐らく実際に存在する症例だろうと思う。最も根源的な理由によって、「京都暴動」を引き起こす条件を免れているこの少年の存在感は非常に強く、インパクトがあった。

真実に近づけば近づくほど、世界は奇妙な振る舞いをする。ビッグバン直後の宇宙の想像を絶する環境や、微視的な物質の常識では捉えられない振る舞いなどはその一例だろう。数学でも、「無限」というものはうまく扱うことが出来ない存在だ。それが真実に近ければ近いほど、僕らの常識では測ることが出来ない状況が現出する、ということであれば、本書で描かれる虚構もまた、真実に近づいていると言えるのかもしれない。いかに言語を獲得したのか、という真実を追求する過程で不可避的に引き起こされることになった「京都暴動」の存在は、神や人間そのものと言ったある種の「タブー」に、科学が接近しすぎることを抑制するようなインパクトも持ちうると感じるのは、僕の考え過ぎだろうか。


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