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【本】額賀澪「ウズタマ」

いくら考えてみても、僕には「血縁」の大事さが理解できない。

もちろん、僕が「血縁」に関して悩む立場にないから、ということはあるだろう。親が離婚して再婚したとか、養子に出されたとか、施設で育ったとか、そういうことは(たぶん)ないから、そもそも「血縁」を意識するような機会がないから考えないだけなのかもしれない。

ただ、そういう人は世の中には多いはずだ。でも僕には、世の中の多くの人が「血縁」をとても重視しているように思える。

例えば、自分の子供のDNA鑑定もそうだろう。本当に自分と血の繋がった子なのかどうかを確かめたい、ということだろう。これも「血縁」に関することだ。

僕としては、DNA鑑定をすることで、「自分の妻が浮気をしていた」ということが判明する可能性がある、という点は意味があるとは思う。僕自身は、その点もどうでもいいけど、浮気していたかどうかが気になる、という気持ちは、まあまだ理解できる。ただ、自分と血が繋がっていないから愛せない、というような判断になるとしたら、途端に理解出来なくなる。

しかもそれを、子供がある程度大きくなってからやる、というのはもっと理解できない。生まれた直後にやるのであれば、まあまだ理解できるかもしれない。でも、自分の子としてある程度の期間育ててきて、それから検査をする、という気持ちが、僕にはイマイチ掴めない。

血が繋がっていないことの、何がダメなんだろうか、と。

あるいは、実際にはあまり多くある事例ではないかもしれないけど、ドラマや小説などでは、自分が養子だと知った主人公が、育ての親とは違う、生みの親を探す、という展開になることもある。その気持ちも、僕には全然理解できない。自分がそういう立場になればまた別なのかもしれないけど、どう考えても大事なのは、生んでからずっと会っていない生みの親より、長いこと自分を育ててくれた育ての親だろう。「何故自分を養子に出したのか直接聞きたい」という動機なら理解できるのだけど、「血の繋がった親に会いたい」という動機は、僕には理解できない。

血が繋がっていようがいまいが、赤の他人だろうがなんだろうが、一緒にいたいと思う人と一緒にいればいいのだし、一緒にいたくない人とは一緒にいなければいい。そんな風にシンプルに考えればいいと思うのだけど、世の中はどうもそういうわけにはいかないようだ。


関係性に名前がつかないと、世間ではどうも排除されてしまうようだ。「親子」「兄弟」「家族」「夫婦」「恋人」「仲間」「友達」「同僚」「先輩後輩」などなど、誰もが理解しやすい関係性であれば何も言われない。しかし、そういう、辞書に載っているような言葉では表せない関係性になると、途端に理解されなくなり、排除される。みんなが、無意識の内にその排除の論理を発動させているように感じられることも、また怖いと思う。

「血縁」というのは、関係性の中でも最も強いものだと考えられているのだろう。だから、行き過ぎてしまう。「血縁」が最も強い関係だ、とするために、他の関係性と明確に区別するために、人々は「血縁」により多くのものを求めようとする。そうしなければ、「血縁」であることの価値を、誰も感じることが出来ないからだ。


みんなで「血縁」に対する幻想を作り上げて、維持して、苦しんでいる。そんなアホみたいなことは止めてしまえば、もっと楽に生きられるんじゃないかと思うんだけど、なかなか難しいんだろうなぁ。

内容に入ろうと思います。
1993年の冬。ある家庭で、何か事件が起こった。倒れている女性、泣き叫ぶ子供、そして「松宮さん」と呼びかける声。
2017年。28歳の松宮周作は、一人ぼっちだと感じていた。遠い親戚はどこかにいるかもしれないが、唯一の肉親である父・将彦は、つい先日脳梗塞で倒れ、それ以来意識が戻らない。大学時代一つ上の先輩だった紫織と結婚を前提に交際しているが、紫織の前の旦那との間の娘・真結とは、まだあまり打ち解けられないでいる。そもそも結婚の話も、父が倒れたことで延期になった。そのことに、ホッとしている自分もいる。自分が何者なのかイマイチよく分からなくなってしまっている今、自分が夫や父親などになる資格があるのか、考え込んでしまうことが増えたからだ。
周作には、気になっていることがあった。父が倒れる前、一通の預金通帳を受け取った。ふざけたことに使ったら縁を切る、と言いながら手渡されたその通帳には、324万円もの大金が記載されていた。父は、それが誰が溜めたお金なのかを明かさなかった。
自分には、母親に関する記憶があまりない。母親のことを思い出そうとすることもあまりない。母親は死んだと聞かされていたが、詳しいことは分からない。自分は、自分の家族のことを全然知らない。こんなんじゃ、自分が新しい家族を作るなんて無理だ。
だから調べてみることにした。
調べ始めると、奇妙な事実に行き当たった。どうやらかつて松宮家には、「家事手伝いをする大学生」がいたようなのだ。誰なんだ、そいつは?
というような話です。

なかなか良い作品だったなぁ。周作が抱く孤独感には共感できない部分もあったけど(その理由は、冒頭で書いた「血縁」が絡む)、しかし「血縁」の呪縛を解き放っている物語でもあって、全体としてはとても良かったです。

冒頭でも書いたように、僕は全然「血縁」を重視していないので、本書で描かれる家族の形に、基本的にはまったく違和感を覚えない。恐らく、「血縁」を重視する人にとっては、本書は価値観を揺さぶられる作品となるのだろう。「血縁」で繋がってこそ「家族」なのだ、という価値観を持つ人にとっては、本書で描かれる家族の形は、生理的にはきっと拒否したいはずだ。しかし、心情的にはなかなか拒否できない。そういう葛藤を自分の裡に認めながら読み進めていくことになるのではないか、と思います。

ただ僕は、全然そういう読み方をしなかったので、その部分に関しては一般的な人と比べて感動が薄まる可能性はあるな、という気はしました。主人公の周作にしてからが、やはり「血縁」を重視する人間であり、そんな周作が、「血縁」を超えた関係性を受け入れ、自分の中のわだかまりを乗り越えていく。その周作の心の動きに共感するように読者の心も動いていくだろうし、それが正当な読み方だろうとも思います。ただ、「血縁」をそもそも重視していない僕には、なかなかそういう読み方は出来ません。その部分は、まあそうなるよなあ、と思いながら当たり前のこととして読んでいました。やはりどんな前提を持って読むかで、作品の読み方って大きく変わるな、と感じました。

本書の主人公は松宮周作ですが、核となる人物は別にいます。内容紹介の中で「家事手伝いをする大学生」と紹介した人物です。名前ぐらいは出してもネタバレにはならないと思うんですけど、一応彼についてはあまり詳しいことを知らないまま本書を読んだ方がいいと思うので、この感想の中では「家事手伝い」と書くことにします。

「家事手伝い」のような生き方の選択が出来るだろうか、と考えてしまう。仮にそれが最善の選択肢だと分かっていても、出来ないことというのはたくさんある。その中で、それが最善の選択なのだ、と突き進むことが出来るかどうか。その凄さを、彼の生き様から感じてしまう。

僕なら、出来ないだろうな、と思う。

彼があんな行動を取ったのも、極論すれば、「血縁」こそが関係性の最大のものだ、という価値観にあると言えるだろう。そんな価値観が世の中になければ、恐らく彼はあんな行動を取らずに済んだかもしれない。「血縁」がなかったとしても、「家族」であり得るのだ、と社会が信じていれば、彼がそんな行動を取る必要は、もしかしたらなかったのかもしれない。

僕としては、そのことが一番悲しいように感じられる。

それが歪でもおかしくても形が変でも構わない。何が「家族」の形を作り出すのかと言えば、「血縁」という幻想ではなく、「家族である」という思い込みだろう。お互いがお互いを「家族」だと思っているということ―。これ以外に「家族」を定義出来る方法はない。本書を読んで、改めてそんなことを感じさせられた。

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