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【本】朝日新聞取材班「増補版 子どもと貧困」感想・レビュー・解説

本書は、朝日新聞に連載された子どもの貧困に関する記事を再編集したものだ。本書を読むと、現状の厳しさが非常によく分かる。

ただ、この感想では、「いかに今子どもの貧困が深刻化しているか」という観点からは書かない。それは、是非本書を読んで欲しい。僕がこの感想の中で書くつもりなのは、「その現状に対して、僕らに何が出来るのか」という部分だ。結局のところ、現状を理解しただけではどうにもならないからだ。

さて、本書を読む上で、まず頭に入れておいて欲しい事実がある。

【社会的に自立できない人が増えると、みなさんの製品やサービスの顧客になるはずの人、あるいは勤勉な日本の労働者が減るかもしれない。「かわいそうな子ども」を助ける手段ではなく、未来への投資として子どもの貧困対策が重要なのです。
日本財団子どもの貧困対策チームは、子どもの貧困を放置した場合の社会的損失について、2015年12月に推計を発表しました。貧困世帯の子ども(15歳以下)の進学率や中退率が改善された場合に比べ、現状のまま放置された場合、生涯所得は約43兆円、財政収支は約16兆円少なくなる。非正規雇用や無職者の増加、税金や社会保険料の徴収現象、生活保護費などの公的支出の増加などから算出した結果です】

子どもの貧困を放置すれば、僕らは16兆円失う、ということだ。この推計を知ってなお、子どもの貧困は他人事だ、と思える人は多くないだろう。本書には、幼稚園から中学校までの給食無償化に踏み切った兵庫県相生市の話として、

【市議会も全会一致で予算案を可決したが、5年たった今も、「なぜ若い世代だけに税金をばらまくのか」といった声が根強くあるという】

というエピソードを取り上げている。こういう反応は、子どもの貧困対策が、未来への投資であるという認識がない故に生まれるのだろう。まずはそこから、認識を改めなければならない。

さて、今から僕が書こうと思っていることは、大きく分けて2つある。
一つは、「貧困に苦しんでいる人をどう見るか」。そして、もう一つは、「具体的にどんな行動が出来るのか」だ。

前者から行こう。
本書には、取材を通じて知った様々な事例が取り上げられているが、貧困に苦しむ人たちの障害の一つとして、周囲からの見られ方の問題がある。

例えば、子どもの貧困対策に取り組む学生(公益財団法人「あすのば」の学生理事)の一人は、こう語っている。


【私がメディアに取り上げられた時、ネットに「私立大に行っている。それって貧困じゃない」と書かれ、ショックでした。極端な例だけが子どもの貧困だと思わないでほしい。取材でがっかりしたような顔をされたこともあります。かわいそうと思うかどうかで線引される。
生活保護は受けてないし、特別なドラマもない。苦しいけれど、声を出せない人の方が多いと思います。】

確かに僕らは、「貧困」と聞くと、極端な例ばかり思い浮かぶ。「貧困」という言葉は、まだまだやはり強いワードだし、テレビやネットなどでも極端な事例ばかり取り上げられるからだ。しかし、そのせいで、当人たちは苦しい思いをさせられている。

これはまだ、悪意がベースになっているから分かりやすいだろう。しかし、善意がベースになっている、こんな事例もある。現在は大学教授であり、かつて民法のディレクターをしていた人の話だ。


【親の虐待から逃れるために中卒で家を出て派遣の仕事で生きてきた女性を番組で取り上げた時、「彼女を助けたい。寄付したい」という電話が相当数ありました。非正規雇用が拡大する社会のひずみを提起したつもりでしたが、目前の困り事だけ切り取られる。】

これは非常に難しい。「寄付したい」と善意から言っている、ということが問題をややこしくする。しかし、これも理解できる話だ。目に見えるもの、分かりやすいものだけを“消費”して、その奥にあるものを想像しようとしない、というような作法は、様々な場面で見受けられるようになってしまった。それでは、問題が解決しないどころか、問題をきちんと把握することも難しいだろう。

本書には、本書のために複数の記者が書いたコラムが載っているが、その中にこんな記述がある。

【「困ったらいつでも相談してほしい」と、私達はときどき言うかもしれない。しかし、特に虐待や貧困などちょうきにわたり困難にさらされると、自己肯定感が低くなる。「困っている」と告白することは「ダメな私」を披露することになり、「バカにされるのではないか」と恐れる。相談自体、ハードルが高い人がいる】

これは非常に理解できる話だし、多くの人がきちんと理解して置かなければならないことだと思う。

僕はこれまで、自分の周囲にいる、自己肯定感の低い人と話をしてきた。普通に見れば、明るくて周囲に溶け込んでいて周りとうまくやっていてみんなから好かれているような人でも、話を聞いてみると自己肯定感が異様に低かったりする。そしてそういう人から、「こういう話は普通には出来ない」と聞かされる。僕は意識的に、「僕には話してくれて大丈夫だ」という振る舞いをするように心がけているし、たぶんそういうサインを受け取ってくれるから、僕には話してくれるんだと思う。ただ、「こういう話は他の人には出来ない」という話は、色んな人から聞いた。理解してもらえないだろうし、反応に困らせてしまうし、的を外したようなアドバイスが返ってくるから、話しても意味がない、と思うようだ。

【貧困家庭であろうと、人の何倍も努力してチャンスをつかむべきだという意見があるかもしれない。ただ、生徒たちと日々向き合う高校教員らは「貧困状態の子どもは、他の人が当たり前と思うようなこともあきらめてきた結果、意欲や自尊心が低い場合が多い」と口にする。挑戦を促しても、「面倒くさそう」「どうせ自分なんて」という思いが強いのだという】

【「支援策や機会もあるんだから、あとは本人次第じゃないの」という声もあるでしょう。でも、彼らは差し伸べられた手の握り返し方も分からないんです。できないんじゃなくて知らない。僕も給付型の奨学金を知っていれば、違う人生だったかもしれません。
自己責任を言う前に、援助や選択肢、生き方を十分伝えられているかを問うべきではないでしょうか。】

【「頼れない親」は確かにいます。その多くが、貧困の中で大人になり、虐待やDVを受けたり、障害などを抱えたりしています。子育て、家事、金銭管理、人付き合い…。苦手なことが多くあります「常識」で判断すると「ダメ親」と思われてしまう人もいます。
ですが、よくよく関わっていくと、私たちと大きくは変わらない。ただ、大切にされた経験がなく、人間不信でSOSの出し方を知らないのです。家庭でも学校でも「問題児」という扱いを受け、社会的なチャンスを奪われ、ひどい場合は身体的、金銭的な搾取の中で育っています。善悪の区別を教えてもらった経験もない。自尊心が低く、極端に心を閉じるか、攻撃的になるか。振り幅が大きく、孤立しがちです】

僕たちはこういうことをきちんと理解しておかなければならないのです。

僕はかつて、僕よりも年上の人から、「主張しない人間に権利はない」という価値観を聞いたことがあります。僕はそれを否定しましたが、その人は自分の考えが正しいと思っているようです。まあ、ある一面では正しいかもしれません。ただ、僕らの周りにはたくさん、貧困などを背景にした苦しみの中で生きている人がおり、そういう人たちは「主張する」ということがそもそも出来ないのだ、ということをきちんと理解しておかなければなりません。「言わない方が悪い」などという態度では、何も解決しないし、そもそも問題が見えてきません。本書では、女性にとって風俗店がセーフティネットになっている、と指摘しており、

【少女を食いものにする大人たちはSNSを駆使して悩みの相談に乗り、街でうざがられても声をかけ続け、とにかく接触を図っている】

という、虐待などを受けた女性を支援する団体の代表の言葉を載せています。「助けを求めてくれたら助ける」という態度ではなく、「助けが必要かもしれない人におせっかいかもしれないけど関わっていく」というスタンスに切り替えないと、現状は変わっていかないでしょう。

さてでは、「具体的にどんな行動が出来るのか」の話に移りましょう。子どもの貧困という大きな問題に対して、個人が出来ることなどあまりなさそうに感じられるかもしれないけど、そうではない。本書では、個人が個人レベルで出来ることから始めている取り組みが紹介されている。

それが「子ども食堂」だ。朝日新聞が独自に取材したところ、2016年5月の時点では全国に319ヶ所だった「子ども食堂」は、2018年4月時点では、とある団体の調査で2286ヶ所になっていた。

「子ども食堂」というのは、基本的には無料で子どもたちがご飯を食べられる場所だ。月1回だったり週1回だったり、あるいは全額無料だったり大人は有料だったりと、運営形態は様々だが、地域の民生委員から学生までが自ら発起人となって「子ども食堂」を立ち上げ、資金をどうにか集めながら運営している現状が様々に紹介されている。

【実は、「誰でも好きな時に来てよい」という子ども食堂に通えるのは、人と食事を楽しむ力が身についている子ども。困難を抱えた子はそうした機会に恵まれず、そこに行くことに不安を持ち、ハードルが高い。信頼できる人が一緒に参加して、楽しければまた行こうかなと思えます。その経験を重ね、新たなつながりができてきて初めて、ひとりでも行こうと思うようになります。段階を経る支援がないと「いつか来てくれたら」のいつかは遠い】

という准教授のコメントも載せており、「子ども食堂」を開くだけで問題が解決するわけではないが、しないよりはした方が絶対に良い。また、

【「昔も貧困問題はあったし、今より大変だった。今の人は甘えているのではないですか?」企画を進める中で、読者の方からこんな意見も数多く寄せられた】

と書く記者は、【昔と今では、地域の力が低下し、家族が力を失っていると感じた】と指摘している。その地域の力を取り戻す、という意味でも、「子ども食堂」の役割は大きいだろう。

この子ども食堂の開設についても、こんな障害があるという。

【一方、「貧困の子が行く場所」という認識が、ハードルになるケースもある。
東日本の山間部で2016年春、公民館で子ども食堂を開きたいと地区の口調に依頼に行った民間団体のメンバーは、問い詰められた。「なぜ、うちでやるのか。困窮者が集まる地域と思われる。どんな趣旨で開くのか」】

【九州でも2015年、公民館で開こうとして「貧困の子どもはいない」と口調に拒まれたケースがあった】

こういう事例を知ると、改めて思う。子どもの貧困は、問題意識を皆が共有しなければ解決出来ないのだ、と。本書を通じて、そのことを一番強く感じた。

本書では他にも、様々なことが扱われている。欧米では養育費を徴収する国の公的機関があったり、未払いの養育費を立て替え払いする国もある。日本の教育費は世界的に見ても高く、またOECD加盟国では唯一、給付型の奨学金がないという。様々な支援施設は、法律の解釈に四苦八苦し、時に首をかしげるような判断をしてしまう。とはいえ、現場は「支える側の犠牲で成り立っている」ような状況で、現場は現場で苦しい。などなど、子どもの貧困を取り巻く様々な状況が描かれていく。

僕も、別に何かしているわけではない。ないが、しかししなければマズイだろうな、という感覚はある。自分の仕事と直結する部分から、何か始めていければいい。例えば僕なら、本書を店頭で売る、というやり方だって出来る。みんなが少しずつ、自分に出来ることをやることで、状況は少しずつ変わっていくだろうし、具体的な行動をしなくても、苦しんでいる人たちの見方をちょっと変えるだけで救われる部分もあるだろう。そういうことを意識しながら読んでほしい一冊だ。


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