【映画】「静かな雨」感想・レビュー・解説

【あるところに、60年間毎日欠かさず日記を書いている老人がいました。しかしある日、その老人は突然、それまで書いた日記をすべて燃やしてしまいました。60年分、まとめて。次の日、その老人は、また同じ時間に同じように日記を書き始めました。そのおじいちゃんの60年は、どこへ行ってしまったんでしょうね。
記憶は、考古学には残りませんからね】

昔何かの哲学の本に、「夜寝た時の自分と、朝起きた時の自分の意識が『繋がっている』ように感じられるのは不思議なことじゃないだろうか?」と書かれていたのを読んだ記憶がある。

脳の機能だけの話で言えば、別に不思議でもなんでもない。脳は、寝ている間だって働いている。僕らが「意識」と呼んでいるものは、僕らの”意識”においては就寝時に一度途切れるが、しかし、脳は動き続けているのだから”意識”できないだけで「意識」は存在している、と考えるのが、まあ自然じゃないかと思う。

ただ、やはり僕らの”意識”から見ると、不思議だ。

「意識」というものがどのように生まれているのか、まだはっきりとは解明されていないということも、この不思議さの要因ではあるだろうけど、でも、仮にそれがはっきりしたところで、不思議さが消えるとは思えない。

「本」は、途中で読むのを止めることが出来る。そして、止めた場所からまた読み始めることができる。それは「本」というものが、物質として存在しているからだ。

しかし「意識」というのは、物質として明確な何かを有してどこかに存在しているのではない。それは、現象だ。

例えば、雨が降っているとする。人間には確認出来ないが、「雨が止む」ということは、「雨の最後の一滴がどこかに落ちる」ということだろう。そして、また同じ地域に雨が振り始めるとする。その「雨の最初の一滴」が落ちた場所が、前回雨が止んだ時の「雨の最後の一滴」が落ちたのとまったく同じ場所だったとしたら、それは不思議なことだろうと思う。

現象というのは、明確な外形を持たない。だから、その挙動は不安定だ。「意識」も同じ現象なら、もっと挙動が不安定であってもいいように思う。確かに、認知症などでなくても、財布を忘れるとか、やらなきゃいけないことをし忘れるとか、そういうエラーはある。けど、「昨日の自分」と「今日の自分」が『繋がっている』ようには感じられない、というような巨大な不安定さは、そうそう起こらない。

この映画の主人公の一人は、事故によって記憶が僅かしかもたなくなってしまう。寝ると、昨日のことは忘れてしまう。それは不思議で悲しいことに感じられるのだけど、でも、「意識」が現象である以上、そっちの方が自然であるように、感じられなくもない。

内容に入ろうと思います。
大学の研究室で働く行助は、日々、パチンコ屋の敷地内にあるたい焼き屋に通う。こよみという女性が一人で切り盛りする屋台だ。二人の日常は、基本的にはそこでしか交わらない。行助は、片足を引きずりながら大学まで歩き、教授と院生と研究や雑談をし、家に帰り、寝る。こよみは、毎日屋台のたい焼き屋を開け、常連さんや初めてのお客さんに1個150円のたい焼きを売る。
ある日、真っ昼間から酔っ払っているたい焼きの常連客が、屋台の周辺でドタバタと暴れる形になり、こよみはその泥酔客を一喝して追い払う。たまたまその場面を目撃した行助は、片付けなんかを手伝う中で、少しずつこよみと個人的な会話を交わすようになっていく。
たい焼き屋が休みだったある日、こよみが変わった行動をしていた。「付き合って」と言われるがまま夜までこよみと一緒にいた行助は、別れ際、こよみに電話番号を渡した。
その夜、電話が掛かってきた。
病院に行くと、こよみがベッドに寝かされていた。意識を取り戻すかどうかは分からないと医者から言われるが、こよみは2週間後、「ユキさん」と言いながら目を覚ます。しかし、古い記憶は覚えているが、事故の後の記憶は短い間に失われてしまうことに…。
というような話です。

映画を見て、一番強く感じたことは、「空気として成立しているな」ということでした。

変な表現ですが、この映画を見ていて、「物語」という感じがしませんでした。それよりも、「空気」という表現が近い。「物語」を見ているのではなくて、「空気」の中にいる、という感覚。これは、映画館で見たことも大きいかもしれません。僕は、映画はどこで見てもいいと思ってますが(と言いつつ、僕は映画館で見ますが)、この映画は映画館で見る方がいいかもしれません。映像だけではなく、真っ暗でシーンとした映画館という空間そのものも含めて、この映画の「空気」を構成しているような感じがしたし、「空気」の中にいる、という僕の感覚がこの映画を評するのに適切だとすれば、やはりそれは、空間としての映画館の存在を含めないわけにはいかないような気がするからです。

この映画では、行助とこよみの日常が描かれていく。だから、とにかく力まない。役者も力まないし、雰囲気も力まないし、セリフも力まない。カット割りなどはされているから、当然これが映画というフィクションだということは分かるのだけど、でも一方で、「これが彼らの毎日の風景なんだなぁ」と自然に感じられるような映像になっている。そういう意味で、この映画は、物語的ではない。「日常の堆積」を「物語」と呼ぶかどうかという議論をここでするつもりはないが、一般的に「物語」という時にイメージされるものよりも、そうだなぁ、「エッセイ」に近いように思う。

特に、彼らの日常感を感じるのは、セリフだ。

物語において、よくあるのは、ある場面における登場人物たちの会話が、「いやいや、そんな会話、もっとずっと前に当然してるはずでしょう」というようなものだったりすることがある。「こういう関係性の中で、今まで一度もそれに関して話したことないの?」と突っ込みたくなるようなセリフだ。それは、ストーリーや設定を読者や観客に伝えるためのセリフだから必要なのだけど、まあそう感じることがある。

「物語」というものに慣れている僕らは、あまりそういう部分で立ち止まらずに物語を進んでいける。けどやっぱり、そういうセリフに出会うと、無意識の内に「物語だよなぁ」という感覚になったりする。

この映画には、そういう部分はまったくない。登場人物同士のどういう関係であっても、それまでにも時間の堆積があって、その上で今この会話をしている、という雰囲気がある。だからこそ、彼らの会話は、観客的には意味らしい意味を与えない。この映画の登場人物たちの会話の大半は、「会話をしている」という情報以上の意味が無いものであることが多い。

でも、だからこそ日常感が強く出る。それが、先程書いた「空気」の話にも繋がっていくのだと思う。

しかし、本来的には、今ここで指摘したような「日常感」はおかしいのだ。この点こそ、この映画の非常に倒錯的な部分だなと僕は見ていて感じた。

映画の前半においては、この日常感は真っ当なものだ。しかし、こよみが事故に遭い、短い間しか記憶がもたない、という風に状況が変転しても、この「日常感」は一向に失われない。彼らの日常は、前半とほとんど変わらないような「日常感」に溢れている。

普通に考えれば、そんなわけないだろう。

こよみは、毎朝起きる度に、「ここ、ユキさん家?」と行助に聞く。毎朝、起きる度に、昨日の記憶を忘れているのだ。だから、行助の家に引っ越してきて何日経っても、こよみは行助に「ここ、ユキさん家?」と聞き続けるのだ。

こよみがこういう状態にあるにも関わらず、この映画では、状況が変転して以降もずっと「日常感」が続く。先程僕が書いた文章をそのままコピペすると、「それまでにも時間の堆積があって、その上で今この会話をしている、という雰囲気がある」のだ。しかし、実際にはそんなはずがない。こよみは毎日、記憶を失っていく。だから、「時間の堆積」はないのだ。であれば、「日常感」など、醸し出されるはずがない。実際、合間合間にごく僅かに、「綻び」を垣間見せる。はっきりとは描かれないが、彼らの生活が盤石の地盤の上にあるわけではないことが示唆される。しかしそれでも、この映画では、前半と同じような雰囲気で行助とこよみの「日常感」を醸し出し続けるのだ。

この構成は凄いなと感じた。この映画における「日常感」は、前半では、物語性を排除して、ただそこに生きる人々を切り取っているかのように描き出すものとして機能している。しかし後半では、存在するはずのない「日常」を切り取り続ける狂気として機能していると、僕は感じた。

その狂気は一体、誰が誰に向けているものなのか。

その答えをはっきり掴むことは出来ないけど、この狂気は観客に、「当たり前の日常が、実は『当たり前』でも『日常』でもない可能性」を突きつけているように感じた。

一度大きな事件めいた出来事は起こるものの、結局最後まで、彼らの生活における「日常ではない部分」はほとんど描かれないままだった。そういう意味で観客は、行助とこよみの生活のごく一部しか見せられていない、と言っていい。「日常感」の続く生活の奥にどんな「綻び」があるのか、想像することしかできない。

とここまで書いてみて、別のことを思いつく。この物語は、行助が記憶しておきたいことだけが映像化されたものなのではないか、と。こよみとの生活では、様々な苦労があるだろう。しかし、そういうことは別に覚えていたいわけではない。行助の意識の中で、こよみとの生活の記憶しておきたい部分だけが映画として構成されているのだと考えれば、なんとなく納得感はある。

その場合、「存在するはずのない「日常」を切り取り続ける狂気」を発しているのは、行助ということになるだろう。


サポートいただけると励みになります!