見出し画像

【本】森博嗣「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」感想・レビュー・解説

本書は、「抽象的な思考」を身に付けるための方向性を指南するような、そんな作品です。


人間は、色んな価値観や常識や思い込みや考え方に囚われている。そういう生き方をしていると、具体的で論理的な思考に絡め取られていってしまう。
森博嗣は、ここ10年で一番多い質問として、「ものごとを客観的に考えるにはどうしたらよいでしょうか?」というものを挙げている。抽象的思考も、客観的な思考と関係がある。抽象的に考えることで、どんな自由を手に入れることが出来るのか、どんなものが見えてくるようになるのか。また、抽象的に考えるようにするためにはどんな訓練が出来るか。本書ではそういうようなことが書かれている作品です。


非常に内容が説明しにくい。


森博嗣も作中で何度も、今書いている文章は抽象的でわかりにくいかもしれない、というようなことを言う。僕はそれほど分かりにくさを感じないのだけど、具体例が非常に少なく(これは著者がそう意図しているからだ)、定義も曖昧な表現(◯◯のような、という表現が多用される。それを多用することについて、巻末に説明がある)が非常に多く出てくる文章を苦手だと感じる人も多いかもしれない。


そんな人に、森博嗣はこんなことを言う。

『まえがきからして、いきなり抽象的な話になっている。こういう話を聞いたり、このような文章を読んだりすると、多くに人は眠くなってしまうだろう。それは日常、具体的なし激ばかりに囲まれているから、抽象性を求める感覚が退化している証拠だと思って欲しい。』

森博嗣は、本書のスタンスについて、こんなことを書いている。

『ただ断っておきたい。この本を読めば、その「客観的で抽象的な思考術」なるものが会得できるのか、というとその保証はない。基本的に、ノウハウを教えれば、すぐにできるようになる、というものではないからだ。
それでも、少なくとも「客観的になろう」「抽象的に考えよう」と望んでいる人が本書を読むだろうし、また、真剣にそれを望んでいるのなら、必ずその方向へ近づくことになるはずだ。その近づき方を多少早める効果が、この本にはあるかもしれない。そう願っているし、多少でもそれを信じなければ、やはり書けないと思う』

『単に、それだけのことである。これも、最初に断っておかなければならない。つまり、客観的で抽象的な思考、あるいはそれらを伴う理性的な行動ができても、せいぜい、もうちょっと有利になるだけの話なのだ。是が非でも、というものではない。それができるからといって、人間として偉くなれるわけではない。
ただ、そういう考え方が、あるときは貴方を救う、と僕は信じている』

本書は、先程も書いたように、具体的な話が非常に少ない。読者が具体例に引きずられてしまわないように、出来る限り具体例を入れないようにしているためだ。だから、「(具体的に)こうした方がいい」というような話はほとんど出てこない。出てきたとしても、それだけではどんな行動を取ったらいいかよくわからないような、やはり曖昧さを備えたアドバイスだろう。


そういう意味で本書は、一般的な思考術の本とはかけ離れている。本書を読んだだけでは、何をしたらいいかわからないだろう。どの方向に一歩を踏み出せばいいか、ということはなんとなく感じ取れるかもしれないけど、でもその一歩も、人によって違うだろう。

本書では、抽象的思考というものにたどり着くとどんな風になれるのかという「目的地の提示」と、その目的地に至るための「道筋の提示」はしてくれているように思うのだけど、肝心の「スタート地点の提示」だけはしてくれない。スタート地点は、あなた自身が探すしかない。そしてそれこそが、一番難しいことかもしれないと思う。

『客観的、抽象的な考えができない人というのは、つまり「そうは考えたくない」という人なのである。あるいは、感情的に「そういうふうに考えるのは嫌いだ」という気持ちを持っている場合もある。人のことをあれこれ考えるのはいけないこと、はしたないことだ、と思っている人もいるかもしれない。』

これが、スタート地点に立つことの難しさだ。僕たちは常に、具体的なモノや考え方に取り囲まれている。具体的なものだけに触れ、具体的なものだけ考えることで、普通に生きていける。そこからわざわざ出る必要性を感じない人もきっと多いのだろう。だからこそ、客観的・抽象的な思考という入り口に立てない。入り口に立てなければ、例え目的地が提示されていても、そこにはたどり着けないだろう。

森博嗣は、「唯一のポリシィは、なにものにも拘らないこと」だと書いている。

『さて、どうして「なにものにも拘らない」ようにしようと思ったのかといえば、それは、自分の周りの人たちを見ていて、「ああ、この人は囚われているな」と感じることがあまりにも多かったからだ。ほとんど全員が、囚われているというか、支配されているのである。その囚われているものというのは、常識だったり、職場の空気だったり、前例だったり、あるいは、命令、言葉、体裁、人の目、立場、自分らしさ、見栄、約束、正義感、責任感、などなど、挙げていくときりがない。』

僕も周囲の人間に対して、同じように思うことがとても多い。


僕も、森博嗣ほど徹底はできていないだろうけど、「なにものにも拘らない」というのを人生のスタンスとしている。


子どもの頃は、全然そんな風ではいられなかった。色んなものに囚われていたし、凄く苦しかった。学校では、周りから浮かないように、排除されないようにと気を配り、家では優等生を演じていた。常に、僕の行動の基準は、周囲からどう見えるか、というところにあった。僕自身がどうしたいか、どうしたくないか、というのは関係なく、自分が周囲からどんな風に見られているのか、そしてそれが真っ当な範囲内に収まっているのか。ずっとそんなことばっかり考えて生きていた。


けど、そういう生き方は、きっと僕には全然向いていなかったんだろう。中学・高校ぐらいになると、もうしんどくてしんどくてたまらなくなっていた。大体いつも、逃げたい、と思っていたと思う。この優等生の殻を破りたい、周囲の評価なんかどうでもいいと叫びたい。けど、やっぱりそういう風にはできないままだった。


その後、まあ僕の人生の中ではそれなりに激動的なことがあって、その過程で僕は、色んなものを捨てることが出来た。その時に僕は、常識だの前例だの立場だの体裁だのと言った、よくわからないけど僕の周りにあって僕の動きを制限する様々なものを捨て去ることが出来たと思う。


あの時期がなければ、僕は未だに囚われたままだっただろうし、だとすれば相当しんどかっただろう。僕は僕なりに、もう限界だった。たぶん、周囲の人から見れば、色んなものを捨てすぎてもったいないとか、もうちょっと頑張ってみればいいのに、とかそんな風に思われていたことだろう。でも、僕は断言できる。あの時期に、とにかく色んなものをガシャガシャ捨てることが出来たからこそ、僕はどうにか今も生きていられる。


さて、そんな風に色々捨てて、自分を縛り付ける色んなものから解放された(と思っている)僕の目からすると、世間の人はどんな風に映るのか。


僕には、世の中のほとんどの人が、自ら進んで「檻」に入っていき、そして「この檻から出られない!」と苦しんでいるように見える。これは、本当に正直な感想だ。


サーカスの象の話に近いかもしれない。


サーカスの象がなぜ逃げ出さないのかというと、力の弱かった子どもの頃からロープで杭に縛り付けられていて、ここから逃げられないんだ、と思い込む。だから、杭とロープごときで食い止められないはずの大きさになっても、象は無理だと判断して逃げ出さないのだという。


僕の目からは、多くの人が、このサーカスの象のように見える。サーカスの象より酷いかもしれない。サーカスの象は、初めは捕らえられて強制的にロープで繋がれたわけだけど、人間は別に誰かに強制されてどこかに繋がれているわけではない(時折、そういう境遇の人はいるだろうけど)。人間は、自ら進んで檻の中に入っていって、自分の力でその檻から出られるのに、「出られない!」と苦しんでいるのだ。


昔自分もそこにいたから、そうなってしまう気持ちはよくわかる。でも、色々あって無理くり檻から抜けだした僕からすると、そんな檻さっさと逃げ出しちゃえばいいのに、と思えてくる。

『そんな限られた時間の中で、自分に押し寄せてくる雑多な不自由を、よく観察してみよう。本当に必要なものだろうか、と考えてみよう。ついつい流されているものがないだろうか。ただ単に、「当たり前だから」「みんながしていることだから」「やらないと気が引けるから」「ずっと続けてきたことだから」「断るのもなんだから」という弱い理由しかないものに縛られているかもしれない』

こういう人は、僕の周りにも多い。話していて、上記のようなセリフを口に出すわかりやすい人もいるし、そんな風には言わないけど、言葉の端々や態度などからそれが分かることもある。


そういう人を結構見てきて、僕はようやくこう思えるようになった。つまり「みんな」は、「不自由」が好きなんだな、と。口では色んなことを言っているけど、僕には結局、鍵の掛かっていない檻にただ一人で閉じこもっているだけにしか見えないことが多い。「出られない」のではなく「出られるのに出ない」のだ。


どうして「不自由」が好きなのかといえば、恐らくそれはきっと、「自分で考えたくない」「自分で決断したくない」ということなんだろうと思う。それは、とても楽な生き方だ。誰かの意見に従っていれば安全、自分で決断するよりよっぽどいい。そんな風に思っている人が、きっと、世の中にたくさんいる、ということなんだろうと思う。


そういう生き方に不満がないのであれば、本書を読む必要はまったくないだろう。自ら檻に入って、その檻に取り囲まれていることに安心感を覚える人であれば(あるいは、そもそも自分が檻の中にいるという意識を持たないでいられる人であれば)、抽象的思考なんていうしちめんどくさい考え方をする必要はない。今のままで、充分幸せである。


でも、きっとそうではない人もいるだろう。自分が檻の中にいることは気づいていて、そしてそこから出られないと思い込んでいる人。そういう人には、本書は一助となるのではないかと思う。


僕自身は今ではもう、誰からどんな風に見られようとあまり気にしないし(まあ、まだ「あまり」という言葉は外せないけど)、常識でそうすることになっているからとか、ずっとそんな風にやってきたからというような、理由にもなっていないようなわけのわからない意見には従わないでいられる。

僕の人生を傍から見たら、全然羨ましくは見えないだろう。でも、僕は、結構満足している。何よりも、囚われていないことの素晴らしさは、囚われていた頃に苦しんでいたこともあって、非常に爽快だ。ちょっと考え方を変えるだけで、こんなに楽に生きられるようになるんだって、昔の自分に教えてあげたいくらいである。

『子供や若者の中には、「友達ができない」という悩みを抱えている人が多い。その種の相談を受けることも実際に頻繁である。そういう人には、「どうして、友達がほしいの?」と尋ねることにしている。「友達がいないと寂しいから」と答える人がほとんどであるが、「では、どうして寂しい状態がいけないの?」と問うと、これにちゃんと答えられる人はまずいない。不満そうに黙ってしまうのだ。
彼らは、「寂しいことは悪い状態だ」と考えていて、「友達がいれば寂しくない」と勝手に信じている。なんの根拠もなく、そう思い込んでいるのである。だから僕は、「寂しくても悪くない」こと、そして「友達がいても寂しいかもしれない」ことを説明するようにしている。そんなことは信じられない、と反発する人もいるが、つまり自分の思い込みが悩みの原因だということに気づいていない(気付けない)状態といえる。』

昔の自分も、「どうして寂しい状態がいけないの?」と問われたら、黙ってしまっただろう。昔の自分も、なんの根拠もなく、「寂しいことは悪い状態だ」と考えていたはずだ。今は、そんなことはない。寂しくても孤独でも問題ないし、「友達がいても寂しいかもしれない」というのは、大人になってからハッキリわかるようになったかもしれないとも思う。


どうだろうか。こういう思い込みに、支配されていないだろうか?

『現代社会は、あふれるばかりの情報が降り注ぎ、人々はこれに埋もれてしまっている状態である。広い範囲の具体的な情報に、誰でもいつでも簡単にアクセスができるようになった。知りたいと思ったときに、すぐに知ることができる。ただし、知りたいと思っていないものまで、無理矢理知らされてしまう、という事態に陥っている。また、いったいなにが本当なのか、ということがわからない。その理由は、これらの情報が、どこかの誰かが「伝えたい」と思ったものであり、その発信者の主観や希望が必ず混ざっているからだ。濁りのないピュアな情報を得ることは、現代の方が昔よりもむしろ難しくなったといえるだろう。』

『さらにまた、非常に瑣末な知識に大勢が囚われている。そういった身近で具体的な情報に価値があると思い込まされている、といっても良い。実は、それらは身近なもののように偽装されているだけで、「具体的な情報を知らないと損をする」と恐れている人たちに付け入っているのである』

『現実に見えるものの多くは、誰かによって見せられているものであって、その人にとって都合の良いように加工されているため、そのまま受け取ってしまうと、結果として自分の考えに合わない方へ流され、渦の中へ吸い込まれていくことになる。別の言葉でいえば、知らず知らず、他者に「支配」されてしまうのである』

情報というものとどう付き合っていくのか、ということについて、こんな風に書かれている。僕は今ではテレビはほとんど見ないし、新聞は昔から読んでない。雑誌も読まないし、ラジオも聞かない。入ってくる情報をある程度制限しよう、という意識はある。どうせ、現在流通している情報のほとんどは、誰かにとって都合よく加工されているのだ。それはわかっている。もちろん、たくさんの情報を付きあわせれば自ずと真実的なものが見えてくるのかもしれないけど、それもかったるい。だったら、別に知らない方がマシなんじゃないかと思うことが結構多い。


それは、書店で働いていると、より強く感じることでもある。


テレビで紹介されたり、新聞に載ったものが、瞬時にして売れ出してヒットすることがよくある。僕は、いつも不思議でならない。テレビで紹介されたから、新聞に載ったから、どうだというのだろう?別に、そういう購買行動をする人を非難するつもりはない。売っている立場からしても、非難できるような話でもない。ただ、僕は不思議でならないだけだ。


最近ツイッター上で、こんなツイートを見かけた。非常に共感したので、RTしたものだ。

【大好きなラーメン屋がネットで酷評されてて足が遠ざかった。観たいと思ってた映画を評論家が★1つで観なかった経験がある。先日久々に食べたラーメンは旨くDVDで観た映画は面白かった。基準を外に託すと誰かに聞かないと幸せかどうかすらわからない化け物になってしまう】

その通りだと思う。誰かの評価は、誰かの評価でしかない。参考の一つにはなるかもしれないけど、それが決定的な判断基準になってしまうのは、怖いとさえ思える。やはり僕はこう思ってしまう。みんな、自分の頭で考えたくないんだな、自分から檻に入りたいんだな、と。


僕は、働いている書店で文庫と新書の売り場を任されているのだけど、僕の売場作りのスタンスは、「どうにかして、お客さん自身が自分で本を選べるように」というものだ。出来る限り、お客さんの「考える力」を奪うような売り場は作りたくない、と考えてしまう。

もちろん、お客さんの「考える力」を奪うような売り場を作る方が、より簡単に売り上げを伸ばすことが出来るかもしれない。それは、ファッションの流行色が何故か決まっているのと同じようなもので、お客さん自身に考える隙を与えないようにすることで、効率よく売り伸ばすというのに近いと思う。それを否定したいわけではないのだけど、それでいいんだろうか?と思ってしまうし、環境が許す限り僕は、お客さんの「考える力」を奪わない売場作りをやり続けたいと思っている。

『とにかく、世の中は、具体的な方法に関する情報で溢れ返っている、こんなに沢山の情報が存在できる理由は、結局それらの方法では上手くいかないからである。もし一つでも確実に上手くいく方法が存在するなら、自然にほかのものが淘汰されるはずだ。』

書店で働いていると、本当にそう思う。ダイエットの本、健康の本、自己啓発の本、他にも色んな本が毎日毎日山ほど発売されるのだけど、そんなことが可能なのは、結局のところ、どれも上手くいかないやり方を載せているからだ。そう考えるしかない。

それは、誰もが疑問に思っていいことではないかと思う。こんなに山ほど色んなダイエット本が出ていて、次々と新しいダイエットが誕生していくのは、なんかおかしくないか?と。だから僕は不思議でならないのだ。なぜそういう情報に手を出してしまうのだろうか?やはりそれは、自分で考えたくないからだろう。


本書では、抽象的思考をするためにどうしたらいいか、ということが語られる本ではあるのだけど、その一方で、抽象的思考だけは教育出来ない、と森博嗣は結論している。

『本章では、抽象的思考ができるような人間を育てるには、どうすれば良いのか、ということを書こうと思っている。これは、「教育論」と受け取られるかもしれない。けれど、僕はそれを否定したい。何故なら、「教育」という具体的な「方法」が人を育てることに対して、僕は半信半疑だからだ』

『研究をしながら、多くの学生を研究者として育てたけれど、発想のし方だけは、どうしても教えることができなかった。当たり前だ、自分でも、どのようにして思いついたのか、わからないのだから。それどころか、その最初の思いつきがどんなものであったかも説明できない。説明ができるようになるのは、発想から育てたアイデアである』

僕は最近、将棋と数学をどうにか勉強したいと考えている。まだその時間をうまく取ることが出来ないでいるのだけど、どうにかしたいと思っている。
この将棋と数学は、抽象的思考そのものだと思う。将棋も数学も、「最初の発想」がなければ正しい道筋を捉えることができないし、そしてその「最初の発想」を誰もが出来るように教育することは、やっぱりできない。答えを見て「なるほど」と思うことは誰にでも出来るようになるかもしれないけど、でもその「なるほど」を自ら思いつくのは、やはりある種のセンスといえるだろう。本書を読む前から将棋と数学に時間を割きたいと思っていたのだけど、やはり抽象的な考え方を伸ばしたり身につけたりしたいという欲求や、あるいはそもそもそういう考え方をするのが好きだというような個性があるのだろうなと思う。


そしてこの話は、つい最近読んだ「喜嶋先生の静かな世界」という森博嗣の小説を連想させた。発想すること、研究することをメインのテーマに据えた小説で、非常に好きな世界観だった。
森博嗣は、教育について、こんな風にも書いている。

『だが、子供にしてみれば、努力とはつまり、目の前にあるものを覚えることなのだ。子供は、それ以外に努力のしようがない。何故なら、思いつくこと、突飛な発想をすることは、「努力」とは全然違った行為だと本能的に認識できるからだ』

『こういう社会、こういう大人たちを見て、子供は育つ。考えなければならない問題があれば、「こんなことは学校で習っていない」と文句を言うだろう。文句を言わなくても、不満に思う。腹を立てるばかりで、自分でそれを考えてみようとはしない』

内田樹の著作を読んだりしても、教育というものの難しさを感じさせてくれるのだけど、やはり「教育」というのは一筋縄ではいかないのだなと思う。森博嗣は、何かの小説かエッセイの中で、「大人になったらこんなに楽しいことがあるんだ、ということを背中で見せることが、父親が出来る唯一の教育ではないか」というような内容のことをどこかで書いていたような気がするけど、これは僕にとって、教育というものを表す非常にしっくりくる表現だなと思うのでした。


さて、本書の結論は、非常にシンプルである。

『いずれにしても、大事なことは、「もうちょっと考えよう」という一言に尽きる。これが、抽象的思考に関する本書の結論といっても良い。あまりにも簡単すぎて、「え、それだけ?」と驚かれたかもしれない』

これは、さっき僕がした表現をもう一度流用すれば、「スタート地点に立とうとしてみよう」ということだろう。まず、自分がスタート地点に立っていないのだ、ということを認識するだけでも、世界の見え方は全然変わってくるだろう。

『でも、なにに対しても、もうちょっと考えてほしいのである。なにしろ、全然考えていない人が多すぎるからだ。みんな周りを見回して、自分がどうすれば良いのかを「選んでいる」だけで、考えているとは思えない。選択肢が簡単に見つからないような、少し難しい問題に直面すると、どうすれば良いかを、「人にきく」人、「調べる」人が多くなる。でも、なかなか自分では考えない』

本書の内容は抽象的すぎて、普段「考えていない」人にはとても読みにくいかもしれない。具体的な話がほとんど出てこない文章はなかなか追えないかもしれない。でも、そういう人にこそ、本書は読まれるべきだと思う。とにかく最後まで読んで見て欲しい。最後の最後の、本書を締めくくる森博嗣の言葉に、きっと勇気づけられることだろう。


自分が普段「何も考えていないのだ」と意識すること、自分が様々なものに「囚われているのだ」と自覚すること、そして自分が今「スタート地点に立てていないのだ」と知ること。それだけでも充分に意味がある。そして本書は、それを手助けしてくれる作品だと僕は思います。国民全員に読んで欲しい一冊です。素晴らしい作品でした。


サポートいただけると励みになります!