【映画】「バルーン 奇蹟の脱出飛行」感想・レビュー・解説

「想像力と数百円」という、糸井重里の有名なコピーがある。これは、新潮文庫の100冊というキャンペーン用のもので、「数百円」というのは文庫の値段のことだ。数百円に加えて、想像力があれば、どんな冒険でも出来る。なんというか、なるほどなぁ、と思う。

「想像力」というのは、人間だけが持つことができる偉大さだな、と思う。何かの本で、「物語」というのは、大勢の人間を統治するために生み出された、という話を読んだことがある。「物語」を生み出すのも想像力だが、現実を超越する力を生み出すのもまた、想像力だと思う。

手作りの熱気球で国境を越える-これもまた、凄まじい想像力のなせる業だろう。物事というのは、誰かが一度行なってしまえば、それ以降は「当たり前」になる。「当たり前」と書くと、その発想を軽んじるような印象も与えるだろうけど、少なくとも、過去に前例があれば、出来るか出来ないかの議論は存在しなくなる。出来ることは、間違いないのだ。

しかし、誰も成し遂げたことをないことを行うことは、出来るか出来ないかの議論から始まる。うまく行くかどうかは分からない。少なくとも、過去に誰もやったことがない、ということは、負の圧力として作用する。誰も思いつかなかっただけかもしれない。しかし、思いついたけど、無理だと諦めただけかもしれない。そんなことをやろうとするというのは、いつどんな時だって無謀だと思われる。

人類は、その想像力と無謀さで、少しずつ新しい地平を切り開いてきた。エベレストに登頂し、月に人類を送り、電気自動車を生み出し、感染症と立ち向かってきた。

この映画で描かれる「無謀さ」は、本来発揮する必要のないものだった。そんな風に、結果として表出してしまう無謀さは歴史上様々に存在する。原子爆弾にしても、開発当初は、「ドイツが原子爆弾を先に開発してしまったら、世界が終わってしまう」という恐怖心が研究者を駆動していた(実際は、日本に投下する前に、ドイツが原子爆弾の製造をしていないことが判明したようなので、日本に投下したことに関する責任は無視できないけど)。

しかし、こういう実話が、物語として後世に伝わると、人間が様々な事柄を想像力で乗り越えてきたのだという実感に、一層の重みが加わることになるので、僕はこれからも、こういう話を知りたいなと思う。

内容に入ろうと思います。
東西ドイツに分断されていた東ドイツに住むシュトレルツィク一家は、2年前から友人と共にある計画を立てていた。自作の熱気球でドイツの国境を越えることだ。熱気球は、友人のギュンターが設計し、準備は整っている。しかし西ドイツに行くには、滅多に吹かない北風が吹く必要がある。目の前に住むシュタージ(国家保安省)の役人の目を盗みながら、彼らは決行の日を決めた。しかし、設計者であるギュンターが突然、全員は乗れないと言い出した。自分たちは残るという。そこでシュトレルツィク一家の父親・ペーターは、自分たち一家4人だけで西ドイツを目指すことに決める。妻・ドリスと、長男のフランクにはあらかじめ計画は伝えていたが、まだ幼い次男・フィッチャーには、夜にキャンプに行くと言って連れ出した。熱気球は予定通り飛び、脱出は成功するかに思われた…が、彼らは失敗してしまう。痕跡をなるべく残さないように、普段どおりの生活に戻る一家だが、当然シュタージが捜査に携わることになる。捜査の手は徐々に彼らに迫っていく。追い詰められた彼らは、再び気球を作る決断をするが…。
というような話です。

実話が元になった物語で、彼らの脱出劇は「東ドイツからの最も華々しい亡命」と世界的に報じられたそうです。有名な話なんですね(知りませんでした)。映画の冒頭で、当時西ドイツへの亡命がいかに大変だったかが描かれます。1976年~1988年の間に、38000人が亡命に失敗し、少なくとも462人が国境で射殺され命を落としたという。それでも、西側への亡命を望む者が後をたたなかった。

この東側から西側への亡命に関して、シュタージの上官が興味深いことを言っていた。部下に対して、「社会主義の敵は逃げればいい」という発言をするのだ。もちろんこれは、「逃げるものを許す」という発言ではなく、「逃げるものは敵なんだから殺していい」という主旨の発言だと思うが、しかし本心では、それを発した上官も、それを聞いていた部下も、どう思っているのだろう?と思った。

ニュースで、香港のデモや、アメリカの黒人差別に反対する運動などの際、警察が市民を鎮圧する様が映し出される。もちろん僕は、彼らは「職務を遂行しているだけだ」と思う。彼らは、仕事でそうせざるを得ないのだから、むしろ大変かもしれない、と思ったりもする。しかし、そういう人を目にする度に僕はいつも、内心はどう思っているのだろう?と考える。職務は職務として遂行しなければならないけど、気持ちはどうなんだろう?自分の行動を、「正しい」と思ってやれているんだろうか?そういうことが、気になる。

シュタージの面々についても、本心はどうなんだろう?と考えてしまう。社会主義の国として、制約のある生活を余儀なくされる東ドイツ。そんな東ドイツから西ドイツへの亡命を企てる者が後をたたないという現実。そういう中で、「自分たちが守ろうとしているものは、本当に守るべき価値があるのだろうか?」という思考になるのかならないのか。

どんどん話は脱線するが、これに関連して、昔心理学の本で読んだ話を思い出した。ある時アメリカで、普通の主婦が、「◯月◯日に世界は滅亡する」と言い出した。そんな奇特な主張になぜだか賛同者が増えていき、一種の宗教団体のようになっていったという。その動きを知った一人の心理学者が、これはチャンスと、その団体に入信するフリをする。彼には自説があり、それを確かめる機会をうかがっていたのだ。それは、「信じていたものが崩れた時、信仰はどうなるのか?」という問いに対する答えだった。預言の日、当然世界の滅亡は起こらなかった。では、信者たちはどうなったか?実は、その宗教団体への信仰心が強まったという。これは、心理学者の予想通りだった。信者たちは、「自分たちの祈りが通じたお陰で最悪の事態が回避できた」と解釈し、さらに深くその宗教団体を信じるようになったというのだ。

非常に不合理な判断に思えるが、人間にはこういう心理があるという。そして同じようなことが、香港やアメリカの警察、そしてこの映画で描かれるシュタージに対しても起こるのかもしれない、と思う。

さて、追う側の話をあれこれ書いたけど、別に追う側の話がメインなわけではない。追われる側の物語だ。

彼らに関しては、「自作の熱気球で亡命を成し遂げた」という結果が強烈・秀逸なだけで、彼らの物語は別にそこまで劇的なわけではない。「とにかく必死で頑張った」ということだ。別にこれはけなしているわけではない。特別な何かに秀でているわけではない人物が、これだけ見事な脱出劇を成し遂げた、という点が、この物語の肝だと思うからだ。そういう意味でやはり、「熱気球で亡命する」という「想像力」こそが、何よりも秀逸だったのだと思う。

こういう映画を見ると、いつも現在のことを考えてしまう。この映画は過去の物語だが、現在も地球上のどこかに、何らかの理由で抑圧され、身動きが取れないでいるたくさんの人がいることだろう。彼らの苦労を、リアルタイムで知る方法はなかなかない。気骨のあるジャーナリストが潜入取材でもしない限り、表に出てこないからだ。

そう思う度、自分は「ただ知るだけでいいのかな」という気分になる。まあでも、知るだけでも、知らないよりはマシかと、自分に言い聞かせる。

サポートいただけると励みになります!