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【本】佐藤正午「鳩の撃退法」感想・レビュー・解説

小説は大別して、一人称視点か三人称視点かに分類することが出来る。


実際には、一人称と三人称が混在する小説もあるし、時には二人称の小説にお目に掛かることもある。しかし、まあともかく、二つに大別できるとしよう。


一人称の小説の場合、その語り部(大体は主人公である)は、その物語に関わるすべてを知ることになる。読者は、その語り部が見聞きしたことを通じて物語を理解するので、語り部が見聞きしたことと読者が知ったことは同じだと言っていいだろう。一人称の小説の場合、物語を把握するという意味で、語り部と読者は同等の立ち位置にいると言っていい。


さて、三人称の小説の場合はどうか。この場合、作中のどの登場人物も、作中のすべての事象を把握していない可能性がある。物語は、様々な人間の視点で語られ、その複数の人物の視点が総合された情報によって、読者は物語を把握することになる。一人ひとりの登場人物は、場合によっては何が起こっているのか知りえない。もちろん物語によっては、三人称の小説であっても、物語全体を把握している登場人物がいる場合はあるが、あくまでも構造としては、三人称の小説の場合、誰も物語の全体を把握していないという可能性が高くなる。


さて、今ここに一人の小説家がいるとする。彼は、かつて直木賞を受賞したことがあり、10冊からの本を世に送り出し、数十万部売り上げた実績もある。しかし今では落ちぶれている。小説は既に何年も書いておらず、様々な地方を転々としては、その場その場で適当な女性の元に寄生してはどうにか生きている。その小説家は、ピーターパンの小説を読んでおり、作中の「ひとりの女の子は、20人の男の子よりずっと役に立つね」というセリフを記憶に留めている。まさにその通りだと感じているからだ。


そしてこの小説家は、物語の登場人物でもある。もちろんそれは、僕たちから見れば、ということである。僕たち読者から見れば、彼は小説の内部の人物である。しかしもちろん、その小説家には、自分が物語の登場人物であるという意識はないだろう。いや、その表現もちょっと違っていて、僕がこれから紹介する予定の小説の内部にあっては、その小説家は自身を小説の登場人物であると認識する余地があるのだが、その辺りはまた後で話そう。


とにかく、僕たち読者から見れば物語の登場人物である小説家が、今ここにいるとしよう。


小説家の属している物語が、三人称の小説であるとしよう。すると彼は、先ほど議論したように、物語の全体について把握することは出来ない存在であることになる。彼がたとえ主人公であったとしても、それを理由として物語すべてを把握する権利を得るわけではない。主人公であろうがなかろうが、彼は、物語の全部について知りえない可能性を持つ。現に、その小説家は、物語のすべてについては知りえないのだ。彼の与り知らぬところで、様々な出来事がいつの間にか進行していくのだ。当然だ。三人称の小説なのだから。


さて、そんな世界にあってその小説家は、一体どうするだろうか?


この質問は恐らく捉えにくいだろう。僕も、非常に説明しにくい。だから間をすっ飛ばして結論を書くと、


小説家は当然、小説を書くのである。


小説家は、ある出来事に巻き込まれる。それは複数形で語られることなのだが、ともかく彼は、そうと知らずある出来事の真っ只中、それも中心部にほど近いところに放り込まれることになる。自分の身に何が起こっているのか、イマイチ理解できない。それが起こった時には、その意味が判然としない出来事もたくさん起こる。しかしやがて彼は少しずつ、自分が今まさに巻き込まれている出来事の、輪郭らしきものを掴んでいく。バラバラに認識されていたいくつもの出来事に繋がりを見出すようになる。そして、その出来事に、結果的にせよ自分が重大な役割を担ってしまったのではないか、と思うようになる。


だからこそ小説家は、小説を書く。


しかし、先程から書いているように、当然彼には知りえないことがある。彼の目の前では起こらなかった、そして、その場にいた誰の証言も得られていない事柄も存在する。いや、存在するはずだと彼は考える。いくつかの情報を突き合わせて、AがCになるためには、間にBがなければならないと考える。彼は、そのBについては一切の情報を持っていないが、しかし細部はどうあれ、Bが起こらなかったはずはないと考える。


そこで彼は、小説を書く。自分が見聞きしなかった様々な欠落を、作家的想像力で埋め合わせた小説を。


それが本書である。作中では、小説家がこの物語にタイトルをつけたという描写はないが(タイトルをつけよう、という描写はあるのだが)、「鳩の撃退法」というタイトルがついた本書こそが、その小説家が書いた小説なのである。


小説家は、その名を津田という。津田は、この物語を、ある夫婦に起こった異変から初めている。もちろんこれは、津田が見聞きしなかった事柄だ。作家的想像力で描き出した妄想だ。物語はそこから始まる。


そしてこれこそが、津田自身が奇妙な形で巻き込まれることになる出来事の出発点でもあるのだ。


その夫婦に起きた異変というのは、大雑把に要約すれば、妻が懐妊を報告した、ということになるだろう。縮めれば、ただそれだけの出来事だ。しかし、それからすぐ、その夫婦は失踪する。幼い娘を含めた三人が、姿を消してしまう。この事件は、全国紙でも<神隠し>などと見出しを付けられて報じられたし、話題の旬が過ぎた後も、地元の人からは不可思議な出来事として度々記憶に残ることになる。


この夫婦と津田はどう関わるのか。それも、冒頭で提示される。津田は、この失踪した夫婦の旦那の方と、前日会っていたのだ。ドーナツショップで、たまたま言葉を交わした。言ってしまえば、それだけの邂逅ではある。津田とその夫婦の関わりは、決してそれだけではないのだが、物語的に津田と失踪した旦那の邂逅が重要なのは、ある意味でこの邂逅こそが、津田をして、小説を書かしめていると言ってもいいからなのである。


津田は、ピーターパンの小説を読んでいた。失踪した旦那は、近くの古本屋で買った小説を読んでいた。津田は旦那が読んでいた小説の帯を見る。そこには、


『別の場所でっふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった』


と書かれている。それを見て、津田はこう言うのだ。


『でもそれだったら、小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな』


結果的に津田は、自らが発したこの言葉に縛られている。縛られているからこそ、出版される当てもない小説を、ひたすらに書き続けている。失踪した家族は、今も失踪し続けている。生死は不明だが、可能性として、もう死んでいる公算が高いだろう。誰かと誰かが別の場所で出会っていたら、彼らはもう死んでいるのだななどと思われなかったかもしれない。穏やかな生活を続けていられたかもしれない。「でもそれだったら、小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな」。小説家にならそれが出来る。彼ら家族を全員生かし続けることが出来る。そう思って津田は、誰も読まないだろう小説を一人書き続けている。


さて。津田が一瞬だけ邂逅した家族の失踪は、物語の端緒であり、重大な出来事なのだが、津田自身の関わりという点では少し遠い。どの道、一瞬しか合わなかった人物のことである。しかしそれと平行して、津田自身にもとある出来事が発生する。


それは『鳩』に関することだ。そう、ここで『鳩』が出て来る。津田は、『鳩』に関わる一連の騒動に、どっぷりと巻き込まれることになる。


しかし、『鳩』が何であるかについて、ここに書くわけにはいかないだろう。物語の根幹に関わるものであって、だからこそ読者は自分で『鳩』が何なのかを知るほうがよい。だから、津田が『鳩』に巻き込まれることになった、その大本のきっかけを書くだけに留めよう。


そこには、先ほどチラリと登場した古本屋が関係している。失踪した旦那が本を買った、あの古本屋だ。


その店主と津田は、浅からぬ関係を持っている。一筋縄ではいかない関係だが、大雑把に「友人」と括っても差支えはない。年の離れた友人だ。店主はもう老境に入っており、そして住む場所を失いかけている。


津田は、なかなかにどうしようもない男だ。「性格がねじくれてて、軽佻浮薄で、小心者で、女好きのセックスべだ」と言われたこともある。しかし、時には良いところを見せることもある。それは、戦略的な部分が大きいのだが、ともかくこの時も、津田は老店主の役に立とうと奮闘した。知り合いの不動産屋と掛けあって、老店主の住居を確保する手助けをしたのだ。


決してそれだけが理由ではないだろうが、しばらく経って老店主が亡くなった後、見舞いにもほとんど顔を出さなかった津田に、老店主から形見分けがあった。それは、銃弾を通さない素材で出来ているというバッグであり、恐らく中身は古本だろうと思われた。住居を斡旋した夜にも持っていた代物だ。何故か南京錠がついていることだけが不可思議であり、0000からひたすら解錠に勤しんでいたら、三日目で開いた。


中身は、3403枚の札束だった。


物語には、もっと様々な要素が出て来る。失踪と札束は、ほんの一部である。しかし、中身について具体的に言及するのはこれぐらいにしておこう。様々な出来事が、どのように語られ、どのように結びついていくのか。その醍醐味を味わってもらう方が良い。


描かれる出来事の多くは、些細な事柄だ。失踪と札束はなかなか大きな出来事であるが、それ以外のことは、あまり仰々しくはない。当事者以外であれば、主婦の井戸端会議で三日もすれば話題に上らなくなるような、そんな事柄ばかりだろう。あっと驚くような事件が起こるわけでも、ハリウッド映画のようなサスペンスフルな展開が待っているわけでもない。また、小説的な大団円が待っているわけでもない。未解決の事柄は未解決のまま、小説は閉じる。


何故ならこの小説は、津田にとっては半分以上現実のものだからだ。確かに津田は、現実を改変しすぎない程度に、実際の出来事を歪曲して描く。実際に、津田自身がそう告白する場面がある。実際にはこうだったが、事実を曲げてこんな風に書いている、と。津田自身の言葉を借りればこうなる。


『僕が小説として書いているのは、そうではなくて、過去にありえた事実だ。』


だからこそ津田は、物語を必要以上に捻じ曲げる創作はしない。普通の物語を読む普通の読者が気になるような決着を、無理矢理には用意しない。分からないものは、分からないままにしておく。津田にとってこの出来事は、未だに現在進行形であるのだ。決着しなかったことは、あるいは決着したのかもしれないがその真相を知り得ないことについては、よほどのことがない限り作家的想像では書かない。作家的想像で埋めているのは、どちらかと言えばどうでもいいような描写だ。物語の本筋に大きく影響を与えないようなことだ。

例えば、不倫をしているカップルがいる。津田は、そのカップルがどのように出会い、どのようにして日々セックスをしていたのかを、作家的想像によって執拗に描く。しかしそれは、物語の本筋に、大した影響を与えない。どちらかと言えば、取るに足らない事柄である。この辺りに、津田の、性格のねじくれを見て取ることも出来る。


物語は、非常にダラダラと進んでいく。この『ダラダラ』は、読んでいる僕の退屈さを表現するものではない。先ほど書いたように、物語の本筋とは関係のない、言ってしまえば取るに足らない描写の積み重ねによって構成されている、という意味だ。物語は、まるで進んでいかないし、そもそもどこに向かっているのかさっぱり分からない。津田の周囲で起こるいくつかの出来事がどう繋がっていくのかも分からないし、津田が何をどう考えて行動しているのかも分からない。


よくわからないまま、ダラダラと物語が進んでいくのだが、しかし、何をどうしたらそんな風に構成できるのか、読む側はスイスイと読まされてしまう。特異な事件が起こるわけでも、ページを捲る手が止まらない展開になるわけでも、絶世の美女や謎の宇宙人が登場するわけでもなく、ただ落ちぶれた小説家がせせこましい事柄に煩悶していくだけの描写であるのに、何故だか読まされてしまう。不思議だ。読みながらずっとそれが不思議だった。


佐藤正午の作品は、何作か読んだことがある。正直僕は、佐藤正午の善い読者とは言えないだろう。評判になった作品をいくつか読んでみたのだけど、「難しいな」という印象を


持った。なんというか、とっつきにくい。すんなりとは読めない。評価が高い作品なので、たぶんきちんと読める人には響くのだろうが、僕は生憎本を読む力はそこまでないので、うまく読み取れないでいた。佐藤正午はなんとなく僕の中で、とっつきにくい作家、というイメージで定着していた。


しかし本書はまるで違った。これだけの分量を、一気に読ませる力がある。

先ほども書いたように、本書を構成する一つひとつの要素は、決して派手なものではない。それに、ダラダラと進んでいく。本書のどこに、グイグイ読ませる力が眠っているのか。まだ僕ははっきりとは捉えきれていない。


少しだけ感じることは、「物語的なお約束が無視されている」という事実が、作品全体に何か影響を与えているのだろう、ということだ。本書では、僕らから見れば物語の登場人物である小説家が、自ら経験したことを元に「事実」と「虚構」を混ぜあわせて小説を紡いでいる、そしてその小説を僕らが読んでいる、という構成になっている。そして、物語の中で津田が書く小説の中で、この物語はそういう性質であるのだということがくり返し語られる。


それはある意味では著者(これは、佐藤正午であるのか、津田であるのかは悩ましいけど)からの、「この物語は、小説としてのお約束を踏み外していいるぞ」という宣言なのだと思う。


それを強く感じたのは、後半の方で編集者が出て来る場面だ。その編集者は昔から津田の大ファンであり、津田の小説を出版することだけを目標に出版社に入ったような女性だった。津田がもう何年も失踪しているのに、である。だからこそ、その女性編集者は、津田と再会(かつてサイン会で一度会ったことがある)出来たことに感激している。


その女性編集者がもう一人編集者を連れて、津田が書いている原稿について議論している。その中で、「こうなるのが、小説的お約束でしょう」や、「それが小説の大前提だ」という会話がやり取りされることになる。そこでのやり取りは、なるほど確かにそうだなと思わせるような、小説だったらこうなるはずだ論であり、確かに確かにと思いながら読んだ。


そしてそれと同時に、今自分が読んでいる小説の特異性に少し気がついたような気になれた。本書は、「小説的お約束」を逸脱している。逸脱していることを、著者(この場合は津田だ)自らが何度もくり返し宣言している。だからこそ、僕ら読者は、何を信じていいのか分からなくなる。僕たちが普段安住している「読者」という椅子を下りなくてはならないと気づく。今までと同じ椅子に座りながら本書を読むことは出来ない。

僕たちは、もちろん「小説を読んでいる」という意味では「読者」なのだけど、「小説的お約束を信じる存在」としての「読者」であり続けることは出来ない。僕たちは、本を開いたりページを捲ったりという動作はまったく同じでありながら、普段とは違う存在としてこの本と向き合うことを無意識的に強要されることになる。


だからこそ僕たちは、いつもと違った体験に興奮するのではないだろうか。道路の白線の上を歩くのと、高層ビルの間に渡された白線と同じ幅の板の上を歩くのとではまるで違った体験になる。僕たちは無意識の内に、高層ビルの間に渡された板の上を歩かされているのかもしれない。


決着を見ない事柄は最後まで決着を見ないが、収まるべき要素はラストまでの間にきっちり収まるべきところに収まる。特に、『鳩』の行方については見事とと他ない。それまでに登場した様々な人物の言動が絡まり合い、一周するような形で因果が巡ってくる。もちろん、作家的想像によって埋められている部分もある。しかし、非常に説得力のある想像だ。

津田が巻き込まれ、その一部始終を、作家的想像によって埋め合わせてまでも描かなければならなかった一連の出来事。津田が、夏目漱石「虞美人草」から引用した、『運命は丸い池を作る。池を回るものはどこかで落ち合わねばならぬ。』という言葉も、非常に示唆的と言っていいだろう。長さを忘れる物語だった。是非読んでみてください。


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