【映画】「アイダよ、何処へ?」感想・レビュー・解説

映画の評価とは別だが、私は、主人公のアイダの行動原理に共感できない。彼女を批判したいのではない。「共感できない」という僕の感想だ。

自分の考えが、少数派の意見だろうということももちろん理解している。だから僕には「家族」というのは向いていないんだろうと改めて感じさせられた。

国連職員として、危険地域で通訳を担うアイダは、同じく危険な状況に置かれている家族(夫と息子2人)を救うべく、「国連職員」という立場を利用して奔走する。

恐らくだが、「家族を守ろう」と必死の彼女の振る舞いは、人々から支持を得るんだろう、と思う。アイダは別に、職務怠慢というわけではまったくない。映画で描かれる以前まで含めて、恐らく非常に貢献度の高い人物だろう。劇中で描かれている部分だけ見ても、確かに職務を遂行しなければならない時に家族を助けるための行動も取っているわけだが、別にそれを悪いと感じることはない。この映画で描かれるのは「平時」ではない。「有事」なのだ。通常通りの職務をこなせなかったとして、それだけのことで非難されるというのはおかしい。

だから僕が取り上げているのは、ただ一点、「国連職員という肩書を利用して、他の人が得られない待遇を得ようと奔走していること」だ。僕はどうも、彼女のこの行動に対して「受け入れがたさ」を感じてしまう。

何よりも「公平さ」が重視される状況というのはあると思っている。この映画でも、まさに「人の命」が掛かっているからこそ、何よりも「公平さ」が重視されなければならない、と思う。そうでなければ、「救われるべき命とそうではない命が存在する」という意見に賛同することになってしまう、と思うからだ。

さらにアイダは「国連職員」として働いている。「国連」という組織もまた「公平さ」を過剰に要求されることだろう。もしアイダが民間企業の創業者であり、自分の敷地内に多くの人が避難してきたという状況なら、全然話は変わる。アイダが様々なルートを駆使して「自分の家族だけを助ける」という行動を取ったとしても別に問題はないと感じる。

しかし「国連職員」はそうではないだろう。登場人物の一人が明確に指摘していたが、「個人を優先することで、『国連』という組織の信頼に関わってくる」のだ。

この「人の命が関わっていること」「国連職員として働いていること」の2点から、アイダには「過剰とも言える公平性」が求められていると僕は判断する。

だからこそ、アイダの「立場を利用して自分の家族だけ守ろうとする行動」には賛同できないと感じてしまう。

もちろん、アイダの気持ちが分からないなどと言いたいわけではない。僕は結婚してないし子どももいないのでリアルな想像はできないが、アイダのような状況に置かれた人が、自分の立場を利用してでも家族を守りたいと考えてしまう気持ちがまったく分からないなんてことはない。

ただそうだとしても、やっぱり、アイダの行動は「やってはいけないことだ」と僕には感じられてしまう。

実話を基にした映画らしいが、冒頭で「登場人物や会話には創作が含まれる」と表示が出る。つまり、アイダのモデルとなった人物がいたかどうかも分からない、ということだろう。

で、僕としてはそれはどっちでもいい。この映画の中で「アイダ」というのは、この映画で描かれる「スレブレニツァ・ジェノサイド」を映し出すためのレンズのような存在だからだ。アイダの目を通してこの悲劇を描き出すことで、この「スレブレニツァ・ジェノサイド」が、教科書に出てくるような「歴史上の出来事」という雰囲気にならずにその悲惨さが伝わるようになっていると思う。

だから、アイダのような主人公であることも、アイダのモデルが実在したのかどうかも、僕としては重要な問題ではない。

ただ、僕の価値観の中では、アイダの行動には共感できない。アイダと同じ状況に立たされた時、同じことをしないと言い切れはしないが、しかし、できるだけしたくないとは思う。

何故なら、僕自身が「公平ではない世界に生きていたくない」からだ。だからこそ、自ら公平性を失わせるような行動は、取りたくないと思ってしまう。

たとえどれだけ「不公平に過ぎる世界」に放り込まれたとしても。

内容にはいろうと思います。
1995年7月11日に、ボスニア東部のスレブレニツァという街が、セルビア人勢力によって侵攻を受けた。国連から最後通牒が出されており、スルプスカ共和国軍がそれに従わなければ国連が空爆を行う、という話になっていたのだが、その空爆は実施されなかった。
スルプスカ共和国軍の侵攻を受け、市民は、町外れにある国連施設に殺到する。施設内で通訳として働いていたアイダは、息子の1人を施設内で見つけるも、夫ともう1人の息子が入れていないことを知る。オランダ軍がゲートを閉めたため、施設に入れない市民が施設の外に大挙した状態になっているのだ。
アイダは夫と息子だけでも中に入れてくれと大佐に頼むが、そんなことをすればパニックになると拒絶される。しかし彼女は、あらゆる手を尽くして2人を中に入れ、その後も、家族が優先的に助かるように「国連職員」の立場を利用して奮闘する。
スルプスカ共和国軍は「市民には危害を加えない。安全に別の街へと輸送する」と言って大量のバスを用意するが……。
というような話です。

たった25年前に、こんなことが起こっていたのか、と衝撃を受けた。「ボスニア」とか「ボスニア・ヘルツェゴビナ」とか「セルビア」とか聞いたことはあるけど、正直良くわかってないというか、「興味を持つ以前に知識がない」という状態で、自分の知らさなぶりに失望する。

日本人として生きていると「民族紛争」というものにどうしてもピンと来ない部分はあるし、恐らくそこに宗教も絡んでくるのだろうから余計に分からない。この映画だけではその辺りの状況は分からず(別にそれはいいのだけど)、この悲劇が現在に至るまで大きな問題を引き起こしている(あるいはその一部)であるのなら、大変なことだと感じる。

こういう映画には、「過去にこのような悲劇が起こった」ということを伝えてくれる役割もあり、そういう映画として興味深く見た。

あともう1点、僕が関心を持ったのは、「国連軍」のあり方だ。

「国連軍」がこれまでどんな役割を担ってきたのかよく知らないし、素晴らしい成果を挙げたこともあるのだろうけど、やはり「職務で軍人になるのは無理がある」と感じた。

もちろん世の中には、「傭兵」のようなお金で戦闘に参加する人もいるが、彼らの場合は「お金のため」とか「戦場が好き」などの動機があるから分かりやすい。また「徴兵制」など自らの意思とは無関係に軍人にさせられる国もあるが、まだ「自分の国を守る」というのは分かりやすい。

しかし「国連軍」というのは、「軍人」というものを成り立たせるための「動機」に欠けると感じた。

もちろんそんな中でも、「使命感」によってきちんと任務を全うする人はいるだろうが、どうしてもその気力は薄れてしまうだろう。この映画でも、「与えられた職務だから軍人をやっている」というような人物の姿がちょいちょい描かれる。別にそのことが悪いと思っているわけではないが、それでは「(それがどんなものであっても)信念を持って軍人をやっている人間」に勝てるはずがないよなぁ、と思う。

また、映画の冒頭の場面も印象的だ。アイダが通訳となり、国連軍として参加しているオランダ軍の大佐と、スレブレニツァ市長がやり取りを交わしている。国連軍は「最後通牒を出した」「守らなければ必ず空爆される」「我々は最善を尽くしている」と語るのだが、スレブレニツァ市長は「国連はいつもそんな風に言う」と信じない。

そして市長が、「明日もし、街への侵攻が起こったらお前の責任だぞ」と突きつけるのだが、それに対して国連軍は「私はピアノ弾きだ」というのだ。要するに、「ただの伝令係だから、責任云々の話をされても困るよ」ということだ。

確かにそれは、国連軍側の本音だろう。空爆だって、彼らが実施するのではなく、国連のどこかが最終的な決断を下して実行するのだ。そういう意味で、確かに彼らに責任はないと言える。

ただ、そんな言い方するなよ、と感じてしまった。

また、結果論で話をするのは好きではないが、敢えてそれをすると、こんな結末を迎えるくらいなら、最初から国連は支援に乗り出すべきではなかったのではないか、とも思う。国連が「何をすべき」と定義されている組織なのかよく知らないが、「無理なものは無理」と諦める勇気も必要なのではないかと思う。

冒頭の場面で市長は、「住民の避難は必要か?」と国連軍に問う。国連軍は「必要ない」と答える。彼らからすれば、最後通牒を受けてスルプスカ共和国軍が降伏すればいいし、しなければ空爆が行われると考えているのだから、避難は必要ないと考える。

しかし結果として空爆は行われず、避難しなかった市民は混乱に陥ることになる。

結果論で話をすべきではないが、結局これは「国連による人災」と言ってもいいのではないか、と感じる。

関与するなら、もっとちゃんと関われよ、国連。で、無理だと思うなら関わるな。

と思ってしまった。

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